桜ふたたび 前編
屋敷の西隣のオリーブ畑を下り、草地を登る。馬の常足で10分、草むした高台のテラスに、山葡萄の蔦が絡まるパーゴラがあった。

ドーリア式の円柱は潮風に傷み、蔦の葉は荒れ放題に枯れ、木の笠木も所々朽ちているけれど、木製のベンチは幾度も修繕された跡があって、とても大切な場所なのだとわかる。

目の前には紺碧のリグーリア海が広がっている。海から吹く風は冬でも温かい。美しい曲線を描いた水天彷彿とした辺りに島影が見えて、まだ朝焼けが残る空を引っ掻くように伸びた筋雲が、水平線に吸い込まれていた。

左手は松が群生する崖。崖下のゴツゴツとした岩の足元に、三日月型の小さな浜があり、波は静かだけど、岩礁に白波が立っていた。
松の向こうにはイタリアン・リヴィエラの切り立った崖が続いている。

「子どもの頃、あの岩陰に小舟を隠して、よく釣りをしたんだ。連れ戻そうとしたボディーガードが溺れて、没収されてしまったけど。マッチョは水に沈むらしい」

くすくすと思い出し笑いする横顔は、いたずらな少年に戻ったよう。

右手には入り江。小さなマリーナに向かって、斜面に貼り付くように階段状にパステルカラーの町があり、中腹にガードレールが曲線を描いて空に消えていた。
その彼方向こうの海岸線に、大型船が停泊する巨大な港町が霞んでいる。あれがジェノヴァ港だろう。

「お気に召しましたか?」

言葉を失って風景に見とれている澪に、ジェイは満足気な笑みを浮かべた。

「わたしが育ったのも、小さな港町だったんです。何だか懐かしい気がします」

「私も澪も故郷は海か」

背後では天馬のような馬が静かに草を食み、高貴な犬が無邪気に風と戯れている。恋人たちはベンチに寄り添い座り、何度も何度もキスを交わした。

触れるほど近い笑顔さえも、澪には夢を見ているような気がしてしまう。恋など無縁だと思っていたのに、クリスマスの朝に彼とイタリアにいるなんて。
ここが現実の世界だと確かめたいのに、深呼吸するたびにジェイが甘いキスをするから、また夢見心地に引き戻されてしまう。

できれば夢であって欲しいと澪は思う。現実ならば、このまま時間が止まってしまうことを願っていた。幸福な時間ほど、過ぎるのは早い。これから刻む時計は、焦がれた夢を消費するものだから。
< 162 / 304 >

この作品をシェア

pagetop