桜ふたたび 前編
振り返ると、屋敷が俯瞰できた。
バラ色の石造りの本館は、ロトンダ(円形の屋根)を中心に左右対称の二階建て。半径アーチが連なるロッジア(外廊下)の上にコーニス(装飾的な仕切)を挟んで2階のバルコニー、三角形のペディメントを乗せた祠のような窓が規則正しく10ほど並んでいる。
イタリアの住宅事情は知らないけれど、どう考えてもトップクラスの豪邸だろう。
「お城みたいですね」
澪はうっとりと呟いた。
「palazzo(城)ではないけれど、以前は貴族のvilla(別荘)だった。亡くなった祖父が、ここ一帯の農場、牧場、葡萄畑、醸造所、使用人まで、すべて買い上げたんだ」
屋敷は三方を深い松の森に囲まれ、海に向かった斜面はレモンやオレンジの段々畑になっている。森の向こうのなだらかな丘陵に広がるのはブドウ畑だろうか。裾野は見渡す限りの牧草地で厩舎や小屋や塔が点在している。
「え? これ全部ですか?」
「当時は戦争や貴族制度の廃止で、彼らも困窮していたから、安く買い叩いたんだろう。富も地位も権力も手にすると、人は名誉が欲しくなる。祖父の真の狙いは称号だったけれど、さすがに不可能で、仕方なく息子とフランス ル・コント(伯爵)の末裔との婚姻で手を打った」
ジェイは海風に気持ちよさそうに目を細め、事も無げに言う。あまりに現実離れした話に、澪は足元が泥に沈んでゆくような気がした。
荘園のような土地、ホテルと見紛う豪邸、何人と傅く使用人たち、調教の施された美しい馬、映画や物語でもあるまいし、スケールが違いすぎる。
ジェイの家が資産家であることを、澪はこれまで意識してこなかった。千世がネット検索した情報をいろいろ熱く聞かせてくれたけれど、他人事だった。
澪が想っているのはジェイであって、ジャンルカ・アルフレックスという人物については興味がなかったし、本人が話さない限り知る必要もないと思っていた。
いや、本当は興味をもたないように自分を騙していたのだ。知ってしまうと、何かが変わってしまいそうでこわかったから。
それなのに、これを見たら、意識せざるを得なくなってしまう。
むろん彼自身が大富豪というわけではないけれど、そんな環境のなかで育ったひととは、やはり根本的に合わない。
澪の両親でさえ、旧家の長男と貧しい漁村の娘、生活の隅々に育ちの違いが表れて、父方の母方に対する貶みは酷かった。
──何を思い上がっているの? 心配しなくても、彼はいずれ彼に見合った女性と結ばれる。
ふたりはたまたま同じ駅に居合わせただけ。待っている列車は違う。どんなに今が愉しくても、待ち時間は永遠には続かない。
そんなこと、初めから承知していたはずだ。それなのに、あり得ない将来を夢見て愁えているなんて、どうかしている。
「腹がへったなぁ」
少年のような屈託のない笑顔に、返そうとした微笑みが少し不自然だったことを、澪は自覚していた。
バラ色の石造りの本館は、ロトンダ(円形の屋根)を中心に左右対称の二階建て。半径アーチが連なるロッジア(外廊下)の上にコーニス(装飾的な仕切)を挟んで2階のバルコニー、三角形のペディメントを乗せた祠のような窓が規則正しく10ほど並んでいる。
イタリアの住宅事情は知らないけれど、どう考えてもトップクラスの豪邸だろう。
「お城みたいですね」
澪はうっとりと呟いた。
「palazzo(城)ではないけれど、以前は貴族のvilla(別荘)だった。亡くなった祖父が、ここ一帯の農場、牧場、葡萄畑、醸造所、使用人まで、すべて買い上げたんだ」
屋敷は三方を深い松の森に囲まれ、海に向かった斜面はレモンやオレンジの段々畑になっている。森の向こうのなだらかな丘陵に広がるのはブドウ畑だろうか。裾野は見渡す限りの牧草地で厩舎や小屋や塔が点在している。
「え? これ全部ですか?」
「当時は戦争や貴族制度の廃止で、彼らも困窮していたから、安く買い叩いたんだろう。富も地位も権力も手にすると、人は名誉が欲しくなる。祖父の真の狙いは称号だったけれど、さすがに不可能で、仕方なく息子とフランス ル・コント(伯爵)の末裔との婚姻で手を打った」
ジェイは海風に気持ちよさそうに目を細め、事も無げに言う。あまりに現実離れした話に、澪は足元が泥に沈んでゆくような気がした。
荘園のような土地、ホテルと見紛う豪邸、何人と傅く使用人たち、調教の施された美しい馬、映画や物語でもあるまいし、スケールが違いすぎる。
ジェイの家が資産家であることを、澪はこれまで意識してこなかった。千世がネット検索した情報をいろいろ熱く聞かせてくれたけれど、他人事だった。
澪が想っているのはジェイであって、ジャンルカ・アルフレックスという人物については興味がなかったし、本人が話さない限り知る必要もないと思っていた。
いや、本当は興味をもたないように自分を騙していたのだ。知ってしまうと、何かが変わってしまいそうでこわかったから。
それなのに、これを見たら、意識せざるを得なくなってしまう。
むろん彼自身が大富豪というわけではないけれど、そんな環境のなかで育ったひととは、やはり根本的に合わない。
澪の両親でさえ、旧家の長男と貧しい漁村の娘、生活の隅々に育ちの違いが表れて、父方の母方に対する貶みは酷かった。
──何を思い上がっているの? 心配しなくても、彼はいずれ彼に見合った女性と結ばれる。
ふたりはたまたま同じ駅に居合わせただけ。待っている列車は違う。どんなに今が愉しくても、待ち時間は永遠には続かない。
そんなこと、初めから承知していたはずだ。それなのに、あり得ない将来を夢見て愁えているなんて、どうかしている。
「腹がへったなぁ」
少年のような屈託のない笑顔に、返そうとした微笑みが少し不自然だったことを、澪は自覚していた。