桜ふたたび 前編
長いランチが終わった頃には、もう日が暮れかかっていた。それでも客たちのおしゃべりは止まらない。
ジェイたちは引も切らない応接から避難するために、宿木の下、窓に向かって置かれた3つのソファーに河岸を移していた。

アマーロのグラスを手にゆったりと寛ぐジェイ、ルナとアレクは身振り手振り愉しげに談笑している。硝子に映る様子はまるで神話の神々のよう。

ジェイは相手によって言語のスイッチを切り替える。今も、英語で会話しながら、アレクにはイタリア語で、澪には日本語で受け答えしている。
どうしてそんなに上手に使い分けられるのか尋ねると、〈意識してない〉と当然顔で答えた。きっと思考回路の構造が、澪たち凡人とは違うのだろう。

そのうえ、さっきは飛び入りで歌い始めたアレクに強引に駆り出され、見事にヴァイオリン伴奏してしまうのだから、神様は人によって二物も三物も与え給うのだ。何も与えられなかった人間もいるというのに……。

澪の心が沈みかけたとき、突然、空気がざわついた。
振り返ると、驚愕と敬服と反感の混ざった視線が、ひとりの女性を追いかけている。

完璧にセットされたくすんだ蜂蜜色の髪、タイトなワンピースにパリッとしたジャケットを羽織った淑女が、ピンヒールの乾いた音を立てながらまっすぐこちらに向かってくる。
胸元のカトレアのようにエレガントなのに、はったエラと魔女鼻のせいかどこか潤いに欠けた顔立ちで、表情は氷の女王のように冷たい。

《Buon natale.》

席を立つジェイの声に、澪がはじめて耳にする弾んだ緊張感があった。

ジェイはご婦人の頬に礼儀正しく頬を寄せている。アレクまで別人のように畏まって、彼女の手の甲に恭しくキスをしている。
それなのに、なぜかルナだけは、ソファーの背もたれに隠れるように身を屈めていた。

『当家のホームパーティーなどに来ていただいて、ありがとう。薔薇も百合もありませんが、どうぞ楽しんで』

機械で合成したような、抑揚を抑えたひんやりとした声。

ぷっと笑いが漏れた。しまったという顔で、ルナが口を塞いでいた。

『Porto Anticoで開催される会議まで時間があるから寄ったのだけど、あなたは母に挨拶もできないのかしら?』

彼女は、ガラス窓に反射している姿に、戒めとも蔑みともつかない顔を向けて言った。

ルナは苦々しく頬を歪めていたが、しかし、負けを認めたように立ち上がったときにはまるで別人の顔、麗しいレディの立ち振る舞いで、その頬にキスをした。

ふと、ハシバミ色の瞳が澪に向いた。刹那、彼女の片頬が微かに痙攣したように澪には見えた。

『彼女は、私の友人の澪です』

図らずも紹介され、澪は動転しながら席を立ち、その場で腰を折った。

返礼はない。
尊大な横顔、背けた顎と筋張った首のラインが、拒絶を示しているように見える。
ここにいる誰よりも気高い彼女にとって、こんな貧相な客は目の穢れ、と言うことだろう。

『クローゼの件、頼みましたよ』

そっけなく言うと、彼女は澪の存在を排除するように、冷たく踵を返した。
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