桜ふたたび 前編
朝のダイニングルームに、エヴァたちの姿はなかった。
ジェイは毎朝の日課で、数部の新聞に次々と目を通しながら、澪の食事が終わるのを待っている。

途中、澪が支配人と勘違いしていた執事のファビオが現れて、ジェイから何やら指令を受けると、澪を見つめて半瞬の間を置いて瞬きし、薄くなった頭頂部がわずかに見える程度に点頭して退室していった。
初めて会ったときから何かに似ていると考えていたのだけれど、眼鏡をかけた黒山羊に似ているのだ。

しばらくして黒山羊は、メイドを伴って戻ってきた。栗色の髪を高い位置でシニョンにして、小柄で地黒で、団子鼻を横切るそばかすが愛らしい。
潮の香りがしそうな彼女はにこにこと人なつっこい笑顔で、新人なのかそそっかしいのか、澪はすでに2度、ファビオに叱られている場面を目撃していた。

「彼女はマリア。私の留守中、澪の専属にした」

「はい?」

澪の戸惑いなど委細かまわず、ファビオは端厳な姿勢を微塵も崩さずに右手を後ろに回して目礼し、マリアはまったく落ち着きのない跳ねるような会釈をして、さっさと扉の向こうへ消えてしまった。

ジェイはこれから急用でパリへ向かう。大晦日までには戻って来られると言っていたけれど、昨夜も長い時間パソコンに向かって考えこんでいたし、彼にしては曖昧な口ぶりだったから、期待はできない。
初めての外国で言葉も通じず1週間、すごく不安でしかたがない。だからって、専属のメイドさん? 

「ルナも私とパリに発つと言っていたから、夕食は部屋に運ばせよう。家の者は英語で大丈夫だ。何かして欲しいことがあったらマリアを呼ぶといい。澪の希望は何でも叶えるように言ってある」

「それならお願いが──」

「何?」

「ホテルに泊まらせてください」

「ダメ」
< 173 / 304 >

この作品をシェア

pagetop