桜ふたたび 前編
あっと、澪は口を押さえた。
女将はビールサーバーのレバーに手をやったまま、慎一は大皿に菜箸を伸ばしたまま、驚いたように澪を見つめている。
ただ一人、当人だけが、無表情を変えなかった。

「あんた、何ですぐ言わへんの? いけずやなぁ」

何て間の悪い口だろう。見ず知らずの無関係を押し通すつもりが、中途半端に挫折。これでは女将に恥をかかせただけ。意地が悪いと誹りを受けても仕方がない。

「ごめんなさい……」

項垂れた耳元で、(やれやれ)と小さなため息を聞いたような気がした。

「誤解です」

彼は言った。

「先ほど、troubleにあっていたところを彼女に助けられ、ちょうどこちらで食事をすると聞いてご一緒させていただきました。思いがけず美しい女将に会えて、luckyでした」

彼はちっとも心のこもっていない声ですらすら言って、女将にきれいな瞳を向けた。女将が赤らめた頬を少女のように両手で挟むのを見て、慎一があきれ顔をした。

「お世辞に決まってるやないか、ええトシこいて」

澪はあきれるより感心してしまった。よくそう巧言が繰り出せるものだ。

「彼女とは短く言葉を交わしただけでしたし、あなたの発音が美しかったので、言い出すtimingをなくしてしまったのでしょう。悪意はありません。そうだね?」

流暢に同意を求められ、澪は呆気にとられた。
ぎりぎり嘘は吐いていない。確かに言い出すタイミングを逸していた。
だからって、そんな風に庇われたらかえって誤解を招くし、それにまるで自分には非がないみたい。こちらが言い出せないのをからかっているようにも感じたのに。

「こちらの方こそ早合点してしもうて、ほんますんまへんどした」
「そうそう。ええ勉強さしてもろうて、よかったなぁ、女将さん」

いいひとたちだ。感謝と同じ重さで、小狡く難儀から逃げていた自分がいじましい。
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