桜ふたたび 前編
澪が両手を合わせるのを見届けて、ジェイはシモーネへ視線を戻した。

《澪はモノではない》

シモーネは薄ら笑いを浮かべた。
お前が言うか? と言われたようで、ジェイは生意気なガキめと胸の中で毒づいた。

《まず、日本語をマスターする方が先だろう》

《楽勝だ》

これで諦めるだろうと難題をふっかけたのに、シモーネは存外に執拗だ。エヴァは何事に対しても淡泊だが、エルモは偏執的な性向だから、父親に似たのか。
おとなになったシモーネが、神経質に眉間を皺めて、エルモと仏頂面を並べている場面を想像して、ジェイは吹き出しそうになった。

いずれにせよ、現在の環境がシモーネの複雑な性質の素因となっていることは否めない。人嫌いと孤独感、無関心と依怙地、驕慢と几帳面。子どもらしからぬ彼の自己矛盾は、幼年期に必要な親の愛情という栄養素が不足しているためだ。

ジェイ自身、祖父の元で乳母に育てられ、4才にはロンドンでホテル暮らし、6才からはスイスで寄宿舎生活、両親との対面は、学業や社交にまつわる下知の場のみで、親子の交流の思い出など一つもない。
それでもねじけることなく(本人はそう思っている)成長したのは、学友に恵まれたおかげだろう。

そう思うと、彼も不憫な子どもだ。
ではあるが、可哀想だと甘やかすと、子どもはますますつけあがる。特に、己を特権階級だと思い上がっている奴には、圧倒的な力でねじ伏せて、厭と言うほどの屈辱感を味あわせておく必要がある。

ジェイは澪の肩を抱き寄せた。

《澪が承知しない。彼女は私を愛している》「美味しいだろう? 澪」

思惑どおり、目の前の笑顔につられて、澪は微笑み大きく頷いた。
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