桜ふたたび 前編
「あ、虹!」

部屋に戻るや否や、澪は雨上がりのバルコニーへ飛び出した。
美しい光の帯が、海のなかから現れている。弧は120度の地点で空と溶け込み、まるで海から天へと架けた橋のようだ。

虹は、大洪水のあと神が人間に賜った契約の証。虹を見上げるとき、人は誰もが明るい未来を予感する。「きれい……」と、天弓にうっとりと微笑む澪に、ジェイは生まれて初めて虹を見たような気がした。

「気分は?」

「おかげさまで、すっかりよくなりました」

「本当に、心配させる」

「ごめんなさい」

とても反省している声ではない。

──私が手玉に取られているのか?

気づくと澪のことを考えている。どうしたら彼女が歓ぶのか、そればかりが気になっている。それなのに澪は、少しも期待通りの反応を見せない。

今回も、いてもたってもいられずパリから戻ってきたのに、澪は喜ぶどころか困った顔をした。

クリスマスプレゼントを贈ったときはもっと惨かった。
小さなクマ(Bare)のサンタクロースに、涙型(Tear)のダイヤモンドのイヤリングを持たせて贈るという演出をしたのに、澪は大喜びでぬいぐるみにキスをしたのだ。ジュエリーの方がメインだと知ると、迷惑そうな微妙な表情を浮かべた。

これでも心理学の博士号だ。しかし理論など用いる側に強い思い入れがあると何の役にもたたない。
己の腑抜けぶりに呆れながら、実は密かな愉しみに耽っていることも確かだった。

とりあえず、澪は無事に戻ってきた。ヒデとかいう男の処遇は後にして、手元にいる限り、彼女に危害が及ぶことはない。
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