桜ふたたび 前編
《あなたのお顔を拝見すると、今年も無事一年が終わることを実感しますよ》

男の顔に貼り付いた笑顔はひどく卑屈に見えた。

《ホテルの名称が変わっても、来年もここで食事をするつもりだ》

ジェイの声は寒々としている。

男は一瞬憎々しげに顔を歪め、それから乾いた大声でハッハッハッと発声練習のように笑い出した。他の客が驚いて、いっとき、高級レストランの空気が白けた。

《それはそれは、さぞシェフも歓ぶでしょう。ご挨拶はこれくらいにして、お楽しみのところをおじゃまいたしました。どうぞごゆっくり》

男は慇懃に一礼して背中を向ける。ジェイはまるで行きずりの人間だったかのように彼を見やることもせず、トリニタ・ディ・モンティ教会のオベリスクへ顔を向けた。お知り合いですか? と、とても訊ねられる雰囲気ではない。

おそらく仕事絡みなのだろう。ジェイの無表情や冷めた口調は、相手に思考を読まれないためのアイテムなのだと、澪は考えていた。

企業買収というのは敵を作るのだと思う。
〈勝ち続けてこそジャンルカ・アルフレックス〉と、リンは言った。そして彼自身も勝つことしか念頭にない。
もしかしたら、人に恨まれるようなこともあるのではないかしら? 今のひとみたいに。

だから、仕事に無関係な澪の前では、笑ったり怒ったり驚いたり、やきもちを焼いたり心配したり、ちゃんと人間らしい感情を出せるのだろう。

──なぜ、わたしなの?

彼ならハイクラスな女性を選べるのに、やはりそういう方々は、どこかで仕事に係わってしまうのだろうか。だからって、一般人にもステキな女性がごまんといる。明かに見劣りする澪だなんて、やはりおかしい。

そう考えて、ふと脳裏に、里の芸妓画がよぎった。
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