桜ふたたび 前編
澪の視界に、初老の紳士が入ってきた。立派な眉とダックテールの髭、髪の生え際が頭頂部近くまで後退していて、太い首が恰幅のいい体にめり込んでいる。蝶ネクタイをすればオペラ歌手と見紛いそうだ。
《Buongiorno.signor Arflex.》
まわりが振り向くほど大きく通る声で話しかけられ、澪は目を丸くした。
それなのに、笑顔で差し出された手に、ジェイは応じないどころか視線も動かさない。
男はムッとした色をすぐに引っ込めて澪に顔を向けると、大げさなジェスチャーと感嘆符のついた台詞を吐いた。たぶん心にもないお世辞を並べていたのだと思う。
《あなたのお顔を拝見すると、今年も無事一年が終わることを実感しますよ》
男の顔に貼り付いた笑顔はひどく卑屈に見えた。
《ホテルの名称が変わっても、来年もここで食事をするつもりだ》
ジェイの声は寒々としている。
男は一瞬憎々しげに顔を歪め、それから乾いた大声でハッハッハッと発声練習のように笑い出した。他の客が驚いて、いっとき、高級レストランの空気が白けた。
《それはそれは、さぞシェフも歓ぶでしょう。ご挨拶はこれくらいにして、お楽しみのところをおじゃまいたしました。どうぞごゆっくり》
男は慇懃に一礼して背中を向ける。ジェイはまるで行きずりの人間だったかのように彼を見やることもせず、トリニタ・ディ・モンティ教会のオベリスクへ顔を向けた。お知り合いですか? と、とても訊ねられる雰囲気ではない。
おそらく仕事絡みなのだろう。ジェイの無表情や冷めた口調は、相手に思考を読まれないためのアイテムなのだと、澪は考えていた。
企業買収というのは敵を作るのだと思う。
〈勝ち続けてこそジャンルカ・アルフレックス〉と、リンは言った。そして彼自身も勝つことしか念頭にない。
もしかしたら、人に恨まれるようなこともあるのではないかしら? 今のひとみたいに。
だから、仕事に無関係な澪の前では、笑ったり怒ったり驚いたり、やきもちを焼いたり心配したり、ちゃんと人間らしい感情を出せるのだろう。
《Buongiorno.signor Arflex.》
まわりが振り向くほど大きく通る声で話しかけられ、澪は目を丸くした。
それなのに、笑顔で差し出された手に、ジェイは応じないどころか視線も動かさない。
男はムッとした色をすぐに引っ込めて澪に顔を向けると、大げさなジェスチャーと感嘆符のついた台詞を吐いた。たぶん心にもないお世辞を並べていたのだと思う。
《あなたのお顔を拝見すると、今年も無事一年が終わることを実感しますよ》
男の顔に貼り付いた笑顔はひどく卑屈に見えた。
《ホテルの名称が変わっても、来年もここで食事をするつもりだ》
ジェイの声は寒々としている。
男は一瞬憎々しげに顔を歪め、それから乾いた大声でハッハッハッと発声練習のように笑い出した。他の客が驚いて、いっとき、高級レストランの空気が白けた。
《それはそれは、さぞシェフも歓ぶでしょう。ご挨拶はこれくらいにして、お楽しみのところをおじゃまいたしました。どうぞごゆっくり》
男は慇懃に一礼して背中を向ける。ジェイはまるで行きずりの人間だったかのように彼を見やることもせず、トリニタ・ディ・モンティ教会のオベリスクへ顔を向けた。お知り合いですか? と、とても訊ねられる雰囲気ではない。
おそらく仕事絡みなのだろう。ジェイの無表情や冷めた口調は、相手に思考を読まれないためのアイテムなのだと、澪は考えていた。
企業買収というのは敵を作るのだと思う。
〈勝ち続けてこそジャンルカ・アルフレックス〉と、リンは言った。そして彼自身も勝つことしか念頭にない。
もしかしたら、人に恨まれるようなこともあるのではないかしら? 今のひとみたいに。
だから、仕事に無関係な澪の前では、笑ったり怒ったり驚いたり、やきもちを焼いたり心配したり、ちゃんと人間らしい感情を出せるのだろう。