桜ふたたび 前編
「澪」

突然、名を呼ばれて、澪は目をぱちくりさせた。

「彼女はクリスティーナ・ベッティ。挨拶して」

──あいさつ? あいさつってなに? こんばんは? グッドイブニング? おばんでやす? 

──ムリ、絶対にムリ!

目で訴えたけれど、ジェイは見逃してくれそうにはない。会場入りしてからはまたスンと冷たい仮面をつけてしまい、感情が読めない。

澪は肩を落として目を瞑った。ここで誰かの影に引っ込んでも、ジェイに恥をかかせてしまう。

──大丈夫、イタリア語の挨拶は何10回と練習して誦んじたし、シルヴィにはちゃんと通じていた。

ある丈の度胸を総動員して、大きく胸に空気を吸ってゆっくりと吐き、そうして、何とか笑顔を作る。お願いだから声よ出てと、祈りながら。

「Piacere.Mi chiamo Mio.Piacere.Molto lieto.(はじめまして、澪です。お会いできて光栄です)」

うまく唇が動かず子どものあいさつのようだったけれど、最後までつっかえずに言えた。はずなのに、クリスにさっきまでの微笑みはない。瞬きもせず美しいアクアマリンの瞳でジッと澪を見つめている。
視線をそらしたいけれど、拒絶にとられてしまうだろうか。でも、回りの人まで巻き込んだ息の詰まるような空気の停滞を、どうしたらいい?
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