桜ふたたび 前編
黒大理石の豪華なレストルームで、澪は洗面台に両手をついて、排水口へ吸い込まれてゆく水をとりとめもなく眺めていた。

あんな身の置き所もない世界へ戻らなければならないと思うと、神経がパンクしてしまいそう。
空気になろうとしても、アレクたちのもとには知人と思しき人たちがひっきりなしにやってきて、中には好奇心からか話しかけてくる物好きもいる。アレクが上手に捌いてくれたけれど、それも申し訳ない。何よりも、怖気るばかりで不甲斐ない澪のために、誰に袖を引かれてもアレクとシルヴィが留まってくれていることが心苦しい。

このままここに隠れていたい。けれど、それではふたりに心配をかけてしまう。気分が優れないと先に部屋へ案内してもらおうか。一応、ジェイのパートナーとしての役目は終わったはずだ。

ふと鋭い視線を感じて、澪は顔を上げた。鏡の中で、妖光を放つ赤いドレスの女が睨みつけていた。

他に洗面台は空いているのにと思いながら慌てて蛇口を捻り、頭を下げて彼女の脇を過ぎようとしたとき、いきなり肘鉄を食らって、澪の手からパーティーバッグが転げ落ちた。当惑しながらバッグを追う澪の前に、ラメのハイヒールの尖った爪先が立ちはだかった。

『Hey!』

澪はギクリとして、赤い壁をそろりと見上げた。
仁王立ちに両腕を組み、顎先を斜めにあげたその上から、メデューサのような目が見下ろしている。その禍々しい視線に、澪は一瞬にして石になった。

『Are you Japanese?』

「い……Yes」

女は鼻先を上げ胸を反らして、フンと大きく鼻を鳴らした。

「ワタシ、張浩宇《チョウ ハオユー》ノ娘、張梅花《チョウ メイファ》。アナタ名前ハ?」

澪はびびった。語頭に強勢をつけた早口で、片言ゆえに語気がきつい。
澪はようようメイファから体を引くように立ち上がり、

「……佐倉……、です」

「サクラ? 知ラナイ。アナタ、パーパ、ナニシテイル?」

「チ、父は、会社員です。employee?……」

メイファの目に、あからさまな侮蔑があった。汚らわしいものでも見るように、上から下へ、下から上へ、澪の全身に視線を這わせる。頭を動かすたびに、シャンデリアのようなイヤリングが、ガラガラヘビのようにカシャカシャと音を立てた。

不穏な空気に、澪は一歩二歩と後退した。洗面台に腰が当たって仰け反ったとき、ふと、東京のレストランで、ジェイが初老の中国人と会っていたことを思い出した。〈上海の投資家、張浩宇です〉。リンがそう教えてくれた。

「ワタシ、ジェイノgirlfriendネ」
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