桜ふたたび 前編
どこをどう走ってきたのかわからない。気づくと澪は中庭にいた。

スペインタイルを敷き詰めたロマネスク回廊に囲まれたパティオに、アポロンとダフネが戯れる噴水がキラキラと月代を弾いている。廻りには冬薔薇が夜気に冴えた笑みを浮かべ、水音だけの静寂に、烈しい息づかいだけが響いていた。

澪は冷たいベンチに力なく腰を下ろした。見上げた夜空に歪な上弦の月が揺れている。涙のせいで歪んでいるのだと気づいた。

何のための涙なのか。哀しいのか、悔しいのか、情けないのか、自分でも整理がつかない。完全に混乱していた。

──泣いちゃダメ。他の人に気づかれる。

澪は口と鼻を両手で囲い、大きく胸を膨らませて息を吸い、涙を押し戻した。気道が凍るほど空気が冷たい。澪は両腕を抱きしめて、背中を丸めた。

メイファの言葉は、おそらく事実だろう。そのことに、これほどショックを受けるとは、澪は思ってもいなかった。

誰も人の心を束縛することはできないのだから、他に付き合っているひとがいたとしても不貞とは考えていない……はずなのに、この裏切られたような惨めさは何だろう。

──愛していると言ったのに。

澪は頭を振った。

彼の澪に対する想いが、人が〝愛〞と呼ぶものとは基底の部分で跛行していると、澪は気づいていた。

彼が澪に求めているのは、ジグソーパズルの欠けたピースの代用。彼自身それと自覚せずに、生母の面影と、養母の慈愛を澪に見ている。彼の澪に対する〈愛してる〉は、孤独な心の渇きを潤すための、エゴだ。

だからこそ澪は、彼の聖母マリアにもマグダラのマリアにもなって、彼が心の奥底に沈めている冷たい孤独を、温めてあげたいと思った。寂しい者同士が傷口を舐め合うように。

──これも愛じゃない。エゴだ。
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