桜ふたたび 前編
《君が故郷を捨ててまで夢見たものは、そんなにイージーなものか?》
《若さと運だけでここまでやってきたのだもの。女優として積み重ねたものなんて何一つないのよ》
《君らしくもない》
《私らしさなんて、本人にさえわからないのに?》
クリスは自嘲した。
大衆が勝手に創り上げた〝クリスティーナ・ベッティ〞という偶像を常に演じ続けているうちに、本心と演技が混沌として、近頃ではもともとの人格がどうであったのかさえわからなくなっている。
そのうえ、カフェであくびをした、レストランのメニューに難癖をつけた、衣装が気に入らないとスタイリストを怒鳴った、そんな些細なことさえ金にしようとする輩に、四六時中つけ狙われているのだ。
凋落が見えてきたとたん、別の意味で賑やかになって、彼女を苛立たせ、精神を不安定にしていた。《怖いのよ、失うことが。大切なものを犠牲にして今の生活を手に入れたのに、この先は失うばかりだわ。私は何もない恐ろしさを知っている。働いても働いても、強い者に吸い取られる、あの惨めな生活に戻るくらいなら、死んだ方がましだわ》
スターを夢見る女優の卵が、甘言にのせられてアメリカへ渡った。だが待っていたのは、煉獄のような現実だ。勝ち残るためにはハイエナの屈辱にも耐えた。チャンスを掴むためなら、反吐が出るような男にも喜んで尻尾を振った。己の醜悪さを愉しむくらいの自虐性と強かさがなければ、とうの昔に淪落していた。クリスが望んだ道はそういう世界だ。
《過去を振り返るな。今を惜しむな。前だけを見るんだ》
クリスはハッとした。はじめは、自分だけ幸せそうなジェイを少し困らせてやろうという演技だった。それがどこからか本音を吐露することになって、クリス自身が驚いている。
いや、一番驚いているのは、ジェイの方かもしれない。何事にも何者にも淡泊で、他者から感情的な影響を受けるということがない男が、彼女に同情している。
──これはアレクの言う〈澪に染まった〉影響か?
ふとジェイは、今朝のシモーネを思い出した。
澪から風邪をうつされた彼は、高熱をおして玄関先まで見送りに出て、庭で摘んだ一輪の赤薔薇を手に、熱のためなのか恥ずかしさのためなのか、真っ赤な顔をして澪にこう言ったのだ。
〈日本語を覚えて会いに行く。僕がおとなになったら結婚してください〉
車の窓越しに懇願した真剣な目。(むろん、澪には通訳していないが)。
ルナにせよ、シモーネにせよ、澪は病んだ心を惹きつける。
《若さと運だけでここまでやってきたのだもの。女優として積み重ねたものなんて何一つないのよ》
《君らしくもない》
《私らしさなんて、本人にさえわからないのに?》
クリスは自嘲した。
大衆が勝手に創り上げた〝クリスティーナ・ベッティ〞という偶像を常に演じ続けているうちに、本心と演技が混沌として、近頃ではもともとの人格がどうであったのかさえわからなくなっている。
そのうえ、カフェであくびをした、レストランのメニューに難癖をつけた、衣装が気に入らないとスタイリストを怒鳴った、そんな些細なことさえ金にしようとする輩に、四六時中つけ狙われているのだ。
凋落が見えてきたとたん、別の意味で賑やかになって、彼女を苛立たせ、精神を不安定にしていた。《怖いのよ、失うことが。大切なものを犠牲にして今の生活を手に入れたのに、この先は失うばかりだわ。私は何もない恐ろしさを知っている。働いても働いても、強い者に吸い取られる、あの惨めな生活に戻るくらいなら、死んだ方がましだわ》
スターを夢見る女優の卵が、甘言にのせられてアメリカへ渡った。だが待っていたのは、煉獄のような現実だ。勝ち残るためにはハイエナの屈辱にも耐えた。チャンスを掴むためなら、反吐が出るような男にも喜んで尻尾を振った。己の醜悪さを愉しむくらいの自虐性と強かさがなければ、とうの昔に淪落していた。クリスが望んだ道はそういう世界だ。
《過去を振り返るな。今を惜しむな。前だけを見るんだ》
クリスはハッとした。はじめは、自分だけ幸せそうなジェイを少し困らせてやろうという演技だった。それがどこからか本音を吐露することになって、クリス自身が驚いている。
いや、一番驚いているのは、ジェイの方かもしれない。何事にも何者にも淡泊で、他者から感情的な影響を受けるということがない男が、彼女に同情している。
──これはアレクの言う〈澪に染まった〉影響か?
ふとジェイは、今朝のシモーネを思い出した。
澪から風邪をうつされた彼は、高熱をおして玄関先まで見送りに出て、庭で摘んだ一輪の赤薔薇を手に、熱のためなのか恥ずかしさのためなのか、真っ赤な顔をして澪にこう言ったのだ。
〈日本語を覚えて会いに行く。僕がおとなになったら結婚してください〉
車の窓越しに懇願した真剣な目。(むろん、澪には通訳していないが)。
ルナにせよ、シモーネにせよ、澪は病んだ心を惹きつける。