桜ふたたび 前編
すみれ色の空の下、ティレニア海の漆黒の波を裂くように船は進む。ナポリの町も島影も、水平線の向こうに滑り落ちていった。

やがてエンジン音が止んだ。

船はやさしいゆりかごのように母なる海に浮かんでいる。気温が急激に下がって、日の出が近いことを報せていた。ジェイの腕の中、澪は身じろぎもせず朝焼けのグラデーションを見つめていた。

ようやく見晴るかす海の涯てに、一条の光の線が走った。徐々に中央が盛り上がり、鮮烈な黄金の光線を放ち始める。太陽はゆらゆらと膨らみ昇り、洋上に黄金の道が拓かれた。

「きれい……」

頭を覗かせるまでは散々人をじらしたのに、昇り始めた太陽は、するすると海の上にあった。

朝日を浴びて澪の輪郭が明らかになってゆく。その横顔に、ジェイはなぜか一抹の不安を覚えた。

海の虹を見つめていたときには、手を伸ばせばそこにいる実感があったのに、今、自分の胸の中にいる澪は、まるで実体のない霞のようだ。
この消え入りそうな横顔に、ジェイは覚えがあった。初めて彼女を抱いた朝、東京駅に向かう車中で空を見つめていた彼女の姿だ。

あのとき、今にも天へ昇りそうな儚さに、地上に置き止めておこうと感傷的になり、柄にもなく衝動的にリングを贈った。

つと、手の甲に熱いものが零れ落ちた。

「どうしたんだ?」

驚いて顔を覗き込んだジェイを、澪は首を回してじっと見つめている。長い長い沈黙にジェイの胸がざわめいたとき、澪はおもむろに、

「愛してます」

朝日を映した涙が、頬をすうっと流れ落ちた。

「澪……」

愛してる── 。

何度その言葉を求めても、彼女は決して口にしなかった。
人は、愛されすぎると傲慢になる。愛を求めすぎると卑屈になる。求める気持ちと同じだけ愛されたとき、安心が得られるのかもしれない。

《 Ti amo da impazzire.》「愛してる、澪」

バラ色の海の色が、ジェイの心まで染め抜いて、魂まで空を翔そうだった。
これほど美しい夜明けを、きっと生涯、忘れることはないだろう。
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