桜ふたたび 前編
アレクは二の句が告げなかった。鳥かごに入れておけとは忠告したが、昨日の今日とはせっかちすぎる。第一、澪は承知したのか? 彼女にも彼女なりの事情はあるだろう。

言葉を探すアレクの横で、シルヴィは諭すように言う。

《ジェイ、小鳥を飼うにもそれなりの準備が必要よ。愛情だけでは死んでしまうわ。明日の別れが辛いのはわかるけど、もう少し冷静になったら?》

そうだそうだとアレクは頷いた。

《感傷で言っているわけじゃない。澪をニューヨークへ連れて行くことは、以前から考えていたんだ》

とにかく澪の住まいは狭い、天井が低い、シングルベッドはきつい。日本の住宅事情をうさぎ小屋に例えられるが、あれは事実だった。

何より、隣室のテレビの音が漏れ聞こえるような薄っぺらい壁では、澪は音を立てることも声を上げることさえも憚って抑えてしまう。
イタリア滞在中の数日で、こちらが翻弄されてしまうほど情熱的になったのは、他人の目や耳から解放されたことも起因しているのだ。

それに、ベッドの中に限らず、澪は感受性が強く順応力に優れている。彼女が知らない広い世界で、この世の美しいものだけを観せ、美しい音だけを聴かせて、美しいものだけに触れさせれば、どれほど歓ぶだろうかと、ジェイは真剣に考えていた。

《あなたが留守の間は、誰が彼女を守るの? 日本ならまだしも、言葉の通じない国で、彼女は独りよ》

《留守中に猫に襲われるかもしれない》

《脅かすなよ》

ジェイは頼りなく笑った。
今まで二の足を踏んでいたのは、ニューヨークでの生活が半分だと言っても、一年中移動を繰り返すロマのような生活をしている自分を、澪が待っていられるかという懸念があったからだ。

《いざとなったら、鳥かごを持って歩く》
< 228 / 304 >

この作品をシェア

pagetop