桜ふたたび 前編
呪いの声から逃げるように歩きかけて、澪はつと足を止めた。

このまま追いつかない方が千世は歓ぶかもしれない。次に行く店は決まっているし、彼を三条大橋まで道案内したら、彼女もすぐに向かうはずだ。
何より、狭い道幅いっぱいに盛り上がりながら練り歩く観光客を、追い抜く勇気が澪にはない。

どこかで呼び出し音が鳴っている。
自分のバックからだとあたふたして、千世だろうと確かめもせず受けた電話から、聞こえてきたのは──、

〈前を見て〉

意表をつく男の声に、澪は命じられるまま顔を向け、人垣の間から届く視線に、どきりとした。
無粋な大きな赤提灯の前で、スマホを手にしたジェイが足を止めこちらを振り返り見ていた。

「ど、どうして番号を?」

里を出る前、千世から強引に渡されたメモを、彼はすぐさまテーブルの下で澪の手に押し付けた。信用金庫窓口業務の千世は、仕事中は電話を受けられないからと、澪の電話番号まで書き添えていたのは打ち見ていたけれど、それにしても、あのほんの一瞬で記憶したのだろうか。

〈This is my cell phone number,Keep it a secret.〉

引き返してきた千世に気づいたからか、英語で告げて言下に切られた電話に、澪はこわばった顔でいやいやをした。

秘密って、それは困る。いまこの瞬間にも、千世にバレたらとビクビクしているのに。

澪は慌てて後を追った。といって、着物では思うに任せない。裾を抑え履き慣れない草履に引っかかりそうになりながら、這々の体でふたりに追いついたときにはもう、明々とした街灯りに包まれた三条通りの賑わいが目前だった。
< 23 / 304 >

この作品をシェア

pagetop