桜ふたたび 前編
〈電話を待っていたのに〉

拗ねた声に胸がきゅんとなる。

「ごめんなさい。寝てしまって……」

〈無事に帰ったのならいいんだ。疲れたんだろう? 起こして悪かった〉

──逢いたい。

思わず零れそうになる言葉を、澪はすんでのところで呑み込んだ。

〈来週からFrankhurt だけど、月末にはNew Yorkへ戻る。手続きのことは柏木に頼んだから、New Yorkで会おう〉

言わねばならない言葉が、どうしても発せない。口にした瞬間、終わってしまうから。

〈ぐずぐずしていると、また拉致するぞ〉

京都から澪を連れ出したことを引き合いにして、ジェイは悪戯っぽく笑った。

〈澪、愛してる。ゆっくりおやすみ〉



スマホ画面が光を失い、再びあたりが闇に覆われても、澪はぼんやりと手の中の画面を見つめ続けていた。

──逢いたい。今すぐにでも彼の元へ飛んでゆきたい。こんなひとり取り残されたような夜はいや。

いつでもブレーキをかけられるはずだったのに、恋しさが止められない。もう何もかもが一杯一杯だ。

澪は、堤防の決壊を防ぐかのように両手で顔を覆った。

──だって、無理だもの。

ジェイとは住む世界が違いすぎる。
感情に流されるまま飛び込めば、彼の世界の均衡が崩れて、歪みやひずみを生じさせてしまう。澪の覚束ない足では彼は歩みを止めてしまうし、彼の歩みに合わせたくても、歩幅も歩速も脚力も違いすぎて、歩数を増やしたところでいつか息切れして迷惑をかけることは目に見えている。
< 235 / 304 >

この作品をシェア

pagetop