桜ふたたび 前編
「すみません」

澪はしきりに謝った。
タクシーのなかでも、蒼白な顔に冷や汗を浮かべ、寒そうに震えていた。アパートへ帰る彼女の足取りが蹌踉と覚束なくて、心配になって部屋まで送ってきたのだ。

「水を持ってくるから、横になっときなさい」

柚木は洗面所の棚からタオルを下ろし、冷蔵庫からミネラルウォータを取りだして、コップへ注いだ。

タオルの畳み方も、冷蔵庫の食材の配置も、食器の収め方も、何もかも昔と同じだ。ただ違うことは、酔って介抱されたのは、いつもこちらの方だった。ソファーに休む顔を心配そうに見守る澪の瞳に、あの頃どれほど心癒されただろう。

──もう一度やり直せるだろうか。

脳裏に浮かんだ埒もない未練に、柚木は自嘲した。
ならば、あのときすぐに澪の元へ向かうべきだった。人知れず子どもを産もうとしていた澪が、妻の事件に断念したことは、菜都から聞かされた。だからもう捜さないでやってくれと、彼女に懇願された。世間体や保身に走った己を呪いもした。それでもまだ離婚できない男の、何と不甲斐ないことか。

「水、飲める?」

ベッドの上に胎児のように丸まっていた澪を抱き起こし、柚木は口元へコップを運んだ。

重なった手の冷たさに、胸が痛んだ。この様子では、やはり報道の煽りを食って、恋人との関係もうまくいっていないのだろう。

たまたま耳にした女子社員たちの雑談によると、情報源は元社員で、旅行先のローマで澪と写真の男に出会ったらしい。その従妹か何かが澪の同僚だというから、世間は狭い。

それにしても、個人情報を平気で、というより得意げに、世間に晒して恥じないのだから、情報社会のモラル欠如には寒気を覚える。

しかし、ローマの女性が澪だとしても、週刊誌と同一人物とするのは軽率ではないか。臆病で人を傷つけることを何よりもおそれる澪が、恋人を裏切りアバンチュールなど有り得ない。たまたま写真に有名人が映り込んでいただけだろう。
彼氏も流言に惑わされず、どうして信じてやれないのか。
こんなときでも泣けない澪が不憫だった。
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