桜ふたたび 前編
〈澪〉

誰かに呼ばれたような気がして、澪はハッと顔を上げた。

さざ波が規則正しいリズムを刻み、ときおり鳶が高い声を上げる。色あせた空を見ても海を見ても、思い出すものは何もなかった。
やり直すためにここへ戻って来たのに、壊れたものが何だったのかさえも思い出せない。毎日浜辺で波間を見つめ、ただわけもなく涙が零れた。

「澪ちゃ~ん!」

防波堤の上から、セーラー服のなずなが手を振っていた。プリーツスカートの裾と黒髪を風になびかせ、両掌で口元を囲みメガフォンの代わりにして「お父さんが呼んど~」と声を張り上げた。
顔立ちは澪に似ているが、中距離走で鍛えられた小麦色の肢体は、若鹿のように健康的だ。

澪は重い腰を上げスカートの砂を払った。

「今日は早いね、なずなちゃん」

石段を上っただけでもう息切れしている。気力が萎えているせいか、体力も衰えていた。

「3年生は自由登校だから」

「ああ、そっか……、もう2月なんだ……」

ここに来てからというもの、日にちの感覚がない。毎日が変化もなく過ぎていった。

澪が生まれ故郷を訪れたのは20年ぶりだった。
東京の暮らしや両親に馴染めず、祖母や伯父夫婦が恋しくて、いくども帰ろうと思った。けれど、子どもの足には遠すぎた。母に電話を禁じられ、従妹が生まれてからは手紙さえ迷惑だと破られた。本当の娘ができてお前などいらなくなったのだとそしられ、澪は戻る家も、居場所も、心の拠り所も失った。

自転車を押したなずなのおしゃべりを聞きながら、海を背に菜の花のあぜ道をゆくと、やがてあたりは茶畑に変わり、その先に小さな集落が見えてくる。

長閑な田舎風景は、昔とあまり変わっていない。けれど、あのころ友だちと手を繋いで歩いた道はもっと長かった。ザリガニとりをした小川はもっと広かった。空は高く森は深く畑は大きかった。隣の家の柚の実に、今では手が届いてしまう。

ここだけが全てで、ここにいれば安全だと信じていた世界は、今の澪を包むには小さすぎる。きっと、変わってしまったのは澪の方なのだ。
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