桜ふたたび 前編

2、パンドラの箱

ニューヨークには冷たい雨が降り続いていた。

ホテルのロビーラウンジへ戻ってきたリンは、窓際のテーブルにひとり座るジェイの姿に、思わず足を止めた。ジェイは辺りの喧騒から切り離されたかのように、雨に揺れる青灰色の街並みを虚ろに見つめている。

帰国後の彼は、以前にも増して何かに取り憑かれたように仕事に没頭している。その一方で、今日のようにぼんやりと窓の外を眺める姿も増えた。珍しく疲れているのだろうか、どことなく生気がない。

「あと5分だそうです」

リンがそう告げても、ジェイは無表情のまま、微動だにしない。約束の時間はすでに過ぎている。いつもの彼なら、とっくに引き揚げていただろう。

ロビーは、ボールルームで開催されるニューヨーク復興チャリティーパーティーに集まったセレブたちで賑わっていた。皆口々に、雪に変わらない雨に不満を漏らしている。

ざわめきの中、一人の影が群れを離れ、ラウンジの入口でスマホを耳に当てたリンとすれ違った。洒落たネイビースーツの男は、テーブル脇で足を止め、硝子に映った顔に笑いかけた。無表情に振り仰いだジェイに、紺碧の瞳が笑った。

《人待ちか?》

《ああ》

予想外に無機質な声に、アレクはジェイの顔色を伺うように対面の席に腰を下ろした。

《なんだ? 小鳥とケンカでもしたか?》

《いや、逃げられた》

《逃げられたぁ?》

茶化すつもりが、驚きすぎて声が裏返った。

《鳥かごの扉を閉め忘れたか?》

《いや、鳥かごに入れる前に飛んでいった》

《どこへ?》

《さあ?》

《とにかく捕まえてこいよ》

無表情な横顔の向こうで、氷まじりの雨だれが、硝子に滲んだ直線を引いて滑り落ちていった。

< 266 / 304 >

この作品をシェア

pagetop