桜ふたたび 前編
『解任、ロンドン勤務か──』

セントラルパークの東に建つホテルの部屋で、ジェイは自嘲を浮かべて窓のカーテンを払うように開けた。

遠く、スモッグに霞んだ暮れかかる空に、航空障害灯が赤く点滅している。超高層ビル群が斜陽を受けて、孤城落日を思わせるオレンジの陰影を作り出していた。

はじまりは、一発の銃声だった。
GEビルのエレベータホールで、2mの至近距離から放たれたPM-433の銃弾は、ジェイの左上腕を掠めた。危険を察知したニコが、ハヤブサの如く犯人にタックルしていなければ、心臓を貫いていたやもしれない。
悲鳴と擾乱のなか、もみ合いのうちに暴発した弾丸が、ニコの脛骨を貫通したが、幸い命に別状はなかった。

男はその場で警備員に取り押さえられ、警察に連行された。
パスポートからフランス国籍のヤシン・アベイドとわかったが、犯人は完全黙秘。凶行に繋がるジェイとの関係性は見つからなかった。

しかし、その後、事件についてSNS上に奇妙な巷談が立った。犯人は、ジェイによって潰された企業の社長だ、と。

まったくの虚聞だが、現場が大手テレビネットワークスタジオのお膝元だったことが、事件を流布し状況を悪化させた。
噂には次々と尾鰭が付き、ついには、男はジェイに唆されて買収に協力したが、ジェイの裏切りによって経営者である父親が自殺し、婚約者も精神を病んで失った。口封じに命を狙われた彼は、身を隠しながら復讐の機会を狙っていたのだと、安物の復讐劇のように仕立てられていった。

こうなると大衆は憶測を垂れ流す探偵と化し、クリスの事故さえもジェイ黒幕説を検証する輩が現れる始末だ。

ジェイに恨みを持つ者は少なくない。殺意を抱くほど憎まれて然るべき相手はいくらでもいる。馬鹿げた妄想も彼らにとってはささやかな憂さ晴らしにはなっただろう。
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