桜ふたたび 前編
澪は、すっかり人影が消えたシープメドウの芝生にしょんぼり腰を降ろし、濃い影となった森の上に赤黒く伸びる高層ビルたちを、見るとはなしに眺めていた。

かつては羊の放牧場だった広大な地で、澪はまさしく迷子の子羊だった。

ホテルにジェイはいなかった。いつまでも静養していられるほど気楽な立場ではないから、すでに仕事に復帰しどこかへ発ってしまったのかもしれない。

万策尽きた思いに、澪は魂が抜け出しそうな溜め息を吐いた。

──そういう運命なのかな、わたしたち……。

ジェイが一番嫌う言葉だったなと、澪は力なく笑った。
カソリックだと言うくせに、運命も奇蹟も、彼は信じない。〈仕方がない〉という日本語を、理解できないと嫌う。

とにかく、退院して、忙しくしているのなら、もう心配はいらない。近くに安いホテルを探して、明日の朝もう一度訪ねて会えなかったら、諦めよう。
そう思っていても、なかなか腰を上げることができない。

澪は膝小僧を抱えて顔を伏せた。
少し寒い。枕崎はとっくに春の陽気だったので、防寒の用意をしてこなかった。北緯40度と言えば青森辺りの気候と同じだ。芝生に落ちた影法師も、ずいぶんと弱々しい。

長くなった影法師を淋しげに辿って、澪はふと目を上げた。

夕闇迫る鼈甲色の丘に、ひとり佇むひとがいる。
パンツのポケットに左手を突っ込み、目の前に横たわる暗い森蔭を見つめている。疲れた横顔が今にもフッと闇の中に消えてしまいそうに見えた。

澪は迷わず駆けだした。
懼れも不安も、一瞬にして霧散していた。
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