桜ふたたび 前編
副社長室に戻ったジェイは、レーシングプログラムを開いた。
巧妙に貼り込まれた超小型USBをPCに差し込み、紙面に暗号化されたパスワードを探して打ち込む。
ここに、レオが寝食を惜しんで収集した情報が収められている。ジェイを襲った狙撃犯の素性、情報漏洩の協力者、彼らが犯行に至った動機と経緯、そしてその黒幕だ。



狙撃犯のヤシン・アベイドはマルセーユ出身のアルジェリア系フランス人。チネチッタで清掃業のアルバイトをしていた頃、撮影所のレストランのウエイトレスと恋仲になった。

彼女がハリウッドに渡りクリスティーナ・ベッティと名を変えてからは、一ファンとして見守っていたが、ジェイとの交際が報じられたあたりからストーカー行為が始まった。

クリスの行く先々に〝夫〞として現れる彼に定職はなく、事件当時の所持金は0。それなのに、ニューヨークへはファーストクラスに搭乗し、襲撃事件当日までマンハッタンの最高級ホテルに宿泊している。

クリスの事件後、自死を考えた彼の前に女神が現れて、妻の仇を取りなさいと諸々プレゼントされたとの供述も、妄想と却下するには所々のリアリティが引っかかるし、押収された自動拳銃がロシア軍使用の通称グラッチ(ミヤマカラス)だと言うのも暗示めいている。

いずれにせよ、彼は精神鑑定のすえ無罪となり、精神科医療機関で期間の決まらぬ強制入院を余儀なくされるだろう。これでクリスの憂惧は消えた。

情報漏洩の協力者は、トミー・パーカーだ。1年ほど前から愛人に貢ぐために会社の金を横領していたが、それをネタに脅迫されて、ハッキングに手を貸した。いわゆるハニートラップに見事ひっかかった。

一度モラルを踏み外すと、不正ラインが低くなり、気づいた時には泥沼にズッポリはまっていたという口だろうが、悪事を隠蔽するためだけにハッキングなどと言う危険な橋を渡ったとは考えにくい。自らは決して開拓しない男。肩を叩かれたくらいで慄いて、あっさり泥を吐く気の小さな人間だ。長年にわたって鬱積したジェイに対する怨嗟の念が、脅迫者に組みすることを正当化し、小胆者を大胆な行為へと走らせたのだろう。

思えば哀れな男だ。ポストが逆だったら、彼も優秀な幹部だった。大き過ぎる靴を履かされていることを自覚しながら決して認めず、追い抜かれまいと歩むのは、さぞ神経をすり減らしただろう。
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