桜ふたたび 前編
──京都は目の前か。

サングラス越しにシースルーエレベータから卯の花曇りの空を見上げて、ジェイは呟いた。

あの日、翌朝の面談が急遽キャンセルになった。柏木は改めての日時設定を願い出たが、いかな事情があろうと、与えるチャンスは一度。次の交渉の場など永遠にない。

スーツケースに忘れていたかんざしに気づいたのは、空いたスケジュールの調整中だった。手に取ったとたん、白鼈甲に仄かに微笑む清澄な瞳が浮かんだ。

透明感のある女だった。滾々と沸き上がる聖泉のように、その水は真冬でも温かく真夏には冷たく、涸れることがないのだろう。
手に掬ってみたくなって、衝動的に誘い出したのだ。

あれは何という名の寺だったか。松や楓の萌える木立の下に、ウマスギ苔が緑青の波を打つ景色が美しかった。若葉の間から注ぐ木漏れ日、草花の芳しい香り、庭のあちこちでさまざまな鳥たちが囀り合っていた。

眠くなるような風がそよいで、艶やかな濡烏の髪が光の波を作った。ふとしたときに覗くきれいな鎖骨、理想的なバストライン、春色のスカートから伸びるすらりとした脚。

下心は十二分にあった。それなのに、会話をするわけでもなくただ境内を巡った。
不思議なことに、1分10G(1万ドル)と揶揄される男が、この無益な時間を延長したいとさえ思ったのだ。

ジェイが識る人間はみな、自己顕示欲の塊だ。自分がいかに他者より優秀で有能であるか、理念と理想を雄弁に語りたがる。彼らの世界では言葉こそが剣となり盾となる。

だが、彼女は語らない。ただ微笑み、相手の話に耳を傾けている。ときおり発する声はやわらかく、耳に心地のよいトーン。

武器を持たぬ相手の前では、人はおのずと鎧の紐を緩めてしまうものなのか。

──いや、あの瞳のせいか。

黒曜石の瞳は透徹な水鏡のように覗いた者の姿を映し返す。実体の奥に潜在する本質さえも露わにして。

──いったい、彼女には何が視えているのだろう? 

覗き込んでも、その瞳の奥には底知れぬ渓谷があり、答えに到達できない。
正解を導き出せないことなど、今までの人生に一度もなかったし、あってはならないのだ。

あの日からニューヨークと東京の往復が続き、彼女を思い出すこともなかった。それが来阪してからは、何度も黒い瞳が頭をよぎる。しかしこう分刻みのスケジュールでは、電話をかけるタイミングさえ見つからない。
仕事熱心なのも考えものだと、ジェイは初めて柏木の几帳面さを呪った。


そのタイムキーパーのような男が、青いガラスウォールのビルから駆け出てきた。
車に乗り込もうとするジェイを、追いかけ寄せる眉間に、迷いがあった。

『台風による欠航で、梅本氏が那覇空港で足止めされています。このまま東京へ戻りますか?』

サングラスから現れた氷の瞳が、不敵な輝きを放った。

『いや、新幹線を最終便に変更してくれ。京都で合流しよう』

呆気にとられる柏木を置き去りに、ジェイを乗せた車はたちまち都会の往来に飲み込まれて行った。
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