桜ふたたび 前編
フロアにはセレナーデが続いている。
仄白い灯りに揺れる澪の表情は、追いつめられた兎のように怯え、微かに震え続ける指先に、ソーダの泡が狂ったように立ち上っていた。

「答えないのが君の返答? つまり、答える必要もないほど、私に関心がないということか?」

澪は縋るような目を上げた。

「違います」

「それでは答えは?」

ジェイは間髪入れずに言う。その瞳にグレーの光が濃くなっていた。

「なぜ、逢いに来たんだ?」

「それは……」

「友情なんて陳腐なことはやめてくれよ」

機先を制され、澪は開きかけた口のまま息を止め、小さな肩をいっそう小さくしてまた項垂れた。

「YesかNoか。簡単なことだろう?」

怒りも不快感もない冷ややかな声が、かえって彼の苛立ちを感じさせた。

イエスかノーか──。

考えなければ答えなければと切羽詰まれば詰まるほど、澪の思いは別の方へ向かっていく。心の奥底に沈めていた呵責が這い出して、ずるずると記憶が頭をもたげた。白い靄がかかっているのは、耐え難い痛みに脳が歯止めをかけているからだ。
思い出してはいけない、そう思ったとたん、靄が弾け散り、

〈人殺し!〉

甲高い声に、澪はきつく瞼を瞑った。

『Pass the dead line.』

浮遊していた魂が体に戻ったかのように、澪は顔を上げた。思いが過去に引き摺られて、目の前にいる存在さえ忘れていた。

ジェイは一度目を閉じると、冷たく瞳をひらめかせ、グラスに残った琥珀の液体を一気に飲み干すやいなや、無言で席を立った。
< 52 / 304 >

この作品をシェア

pagetop