桜ふたたび 前編
「澪」

澪は眩し気に瞼を開いた。深い眠りに入る寸前に揺り起こされた脳は危うげで、自分が今、どこにいるのかさえ定かではない。

ゆらゆらと車を降り、背後に車の行方を捜したのも、テールライトが〈ゴ・メ・ン〉と3回点滅したのも、夢の続きのよう。澪はただ腕を引かれるまま、市場へ牽かれる仔牛のように歩いていた。

真夜中の高級ホテル、誰もが息を潜めるように寝静まった廊下に、スマートロックを解除されたドアが乾いた音を立てた。

その瞬間、銃口をこめかみに突きつけられたかのように澪は覚醒した。目の前に金色のルームナンバーがある。

「どうぞ──」

ジェイがドアを支えて待っている。この扉を越えたら、後戻りはできない。切羽詰まった感情が頭のなかを掻き乱し、がんがんと半鐘を叩き続けている。立っていることさえやっとだった。

いつまでも動こうとしない往生際の悪い背に、大きな手のひらが伸びて、澪は怯え顔を向けた。

「そんなに警戒しなくていい。私は合意のないセックスはしない。入って、人が不審に思う」

ジェイは本当に面倒くさそうに言う。

こんなところを誰かに見られて、恥をかかせたくないという気持ちは、澪も同じ。
澪は観念して重い足を部屋へ踏み入れた。とりあえず今は、彼の言葉を信用するしかないのだから。
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