桜ふたたび 前編
ブラウン系に統一された室内はとても広く格調高い。長いエントランスを抜けると、10人掛けの大テーブルが置かれたダイニングルーム、左に3台のソファーがリビングテーブルを囲んでいる。
正面の窓外にはライトアップされたレインボーブリッジと東京タワー。ガラスを通して青白く幻想的な街の夜景が広がっていた。

女性ならば一度は泊まってみたいロマンティックなスイートだけど、今の澪には周りに神経を向ける余裕もない。

ジェイはさっさとテーブルへ向かい、鞄からノートパソコンを取り出しながら、澪の唇が動くのを阻むように口早に言った。

「私は仕事をするから、君はその部屋を使ってくれ」

言葉の途中からもうモニターを覗いている。とりつく島もなさそうで、澪は仕方なしに、ジェイが顔も向けずに指差した扉をそろっと開けた。



シーリングライトの薄明かりのなか、真っ先にキングサイズベッドが目に飛び込んできて、澪はあわあわと顔を背けた。
窓の外にはここからも、対岸の美しい夜景。

澪はよろよろと窓辺の椅子に向かい、腰から崩れるように困憊した体を落とした。

耳が詰まったように重い。頭のなかがわんわんと唸っている。血の巡りが滞り、指先の感覚がない。拝むように併せた手の震えが止まらず、澪は両腕を抱きしめて背中を丸めた。
考えなければならないのに、どこから何を考えればいいのかもわからない。

澪は両手で顔を覆った。

いつの間にか、状況がのっぴきならない方向へ転がり進んでいる。何でこうなったのか。──やはり、澪が悪い。

子どもでもあるまいし、あのとき落ち着いて考えれば、男性とふたりきりで会うことがどんな誤解を招くか想像できたはずだ。貴族と平民であろうと、富豪と貧民であろうと、男と女、その気がなくても、魔が刺すこともある。軽率だった。

浮かれて会いに行った自分が悪い。お酒につき合った自分が悪い。

そのうえ、彼が〝イエス〞か〝ノー〞しかないひとだとわかっていて、バーできっぱり断ることもせず、いくら強引にとはいえホテルまでついて来るなんて。

逃げ出すチャンスはあった。名古屋で折り返すこともできたし、品川駅で彼の手を振り解くこともできた。曖昧な態度でますます彼を苛立たせて、事態をこじらせている。
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