桜ふたたび 前編
Ⅳ 七日目の蝉

1、遠雷

南部鉄の風鈴が高く澄んだ音色を奏でている。
澪は窓の桟に腰掛けて、薄月の空を見上げていた。
あと数日で1ヶ月間に及ぶ祇園祭のクライマックス、山鉾巡行。暑い京の街がもっとも熱くなる。

何の花だろう? 甘い香りがする。
芳香に誘われて眼下の庭先を覗き込むと、サンユウカの白い花が、薄闇に妖しく咲いていた。

そのままぼんやり眺めていると、からっぽの頭のなかに、いきなりジェイの笑顔が飛び込んできた。
鼓動が早まる。心を鎮めるように、澪は大きく深呼吸した。

日常のふとした瞬間に、彼を思い出す。気がつくと彼のさり気ない仕草や癖までも、思い起こしている。本心から目を背けていたけれど、瞳は正直に彼を覚えていた。

澪は、左手に光るリングに目を落とした。
ウェーブしたプラチナの細い地金にディープブルーのダイヤ、流れ星の尾を描くようにアイスブルーとホワイトのメレーダイヤが散りばめられている。

あの嵐の翌朝、空気中の塵も心の迷いも吹き飛ばしたような快晴のもと、東京駅へ向かうリムジンを止めて、ジェイが澪を伴って入ったのは銀座のハイブランドショップだった。

仕事で立ち寄ったものだとばかり思っていたのに、煌びやかなVIPルームに案内され、指輪を試着させられて、当惑しているうちに、別の商談が成立していたのだ。

冗談にしてはきつすぎる。断固拒否して、懇願して、食い下がる澪に彼は言った。

〈約束の印に〉
〈約束?〉
〈澪に会いに戻ってくる〉

ふいに体の芯が疼くのを感じて、澪はリングの手を胸に握りしめた。

あの夜、澪は生まれて初めて、心と体が墜ちてゆく瞬間を知った。
触れ合った唇の甘く痺れるような感覚。彼の息、彼の声、彼の肌、彼のすべてから蕩けるような官能が生み出され、快感が大きなうねりとなって澪を呑み込んだ。
熱くて、苦しくて、切なくて、もどかしくて、やがて熟した果実が耐えきれなくなったように内奥から弾け、めくるめく快感にいくども自分を見失ってしまった。

今ここに存在する自分は以前と同じ貌なのに、まるで新しく生まれ変わったように瑞々しい。

澪は甘いため息をついて、そっと目を閉じた。
瞼を閉じても、彼の姿は視えていた。
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