桜ふたたび 前編
「な? そやろ? ここ、読んで、ここ、ここ」

文字を辿りながら、澪は駭然として目眩を起こしそうになった。

「主演女優賞ノミネートのクリスティーナ・ベッティ。フィアンセはAXグループ会長の御曹司、ジャンルカ・アルフレックス氏」

「で、でも、似ているだけかも……」

喘ぐように否定する澪に、千世はちっちっちっと、立てた人差し指を振った。

「テラー(窓口業務)の記憶力をなめてもろては困るわ。うちは一度見た顔は間違えへん」

彼女は人の容顔を覚えることにかけては天才的だ。ことにイケメンは。
それに確かに、柏木は彼を〝ミスター・アルフレックス〞と呼んでいた。

「AXって知ってる?」

澪は力なく首を振った。
千世は心得たとばかりに、テーブルに肘つき体を横に乗り出して、澪の前で器用にスマートフォンを探り、声を出して記事を読み始めた。

「イタリアのピザ屋だったAXは、第二次世界大戦後アメリカに進出、大手食品会社やチェーンレストラン、運輸会社などを次々と傘下に納めた。80年代には国際的ホテルチェーンの買収に成功。現在は金融、テクノロジー、国際通信会社なども保有する、アメリカ有数の企業である。──うちら、えらいひとと知り合うたんよ!」

弾んだ声が澪の脳に谺する。朝靄を手探りで進むように、澪は必死で一本一本の糸をたぐり寄せた。

──ジャンルカ・アルフレックス、クリスティーナ・ベッティの、フィアンセ……。

「つまりな、ヴェローナの王子様は、ほんまもんのセレブやったてこと! そのうえクリスティーナ・ベッティのフィアンセやなんて、何かすごくない?」

相槌さえ忘れた澪に、千世は旋毛を曲げたように、「聞いてる?」と首を斜めに澪の顔を覗き込んで、ギョッとした顔をした。

「何? 気分でも悪いん?」

「あ? ううん、ちょっと、驚いただけ」

「そりゃ、驚くわ。なぁなぁ、また、日本に来はるやろか? そしたら連絡してきてくれはるやろか? そやけど、何でジェイなんやろ? ジャンルカやったら、ジャンとかGとかと違うの? やっぱセレブともなると偽名とか使うんかな?」

自分に酔った熱い声は、周囲に聞かせるかのように大きくなり、逆に澪の耳には遠く離れていった。
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