桜ふたたび 前編

澪の父・佐倉悠仁は、不動産業を営む鎌倉の旧家の長男で、生まれたときから跡取り息子として期待もされ充分甘やかされもして育った。裕福な育ちのせいかどうか、長身で体格に恵まれ、そのうえ愛らしい顔立ちの少年は、何をするにも中心的な存在で、それゆえ、見えっ張りで自己本位で欲深なところもあった。

少年野球のエースとして注目を浴びるようになると、彼はますます増長した。それでも、多少のやんちゃぶりはかえって武勇伝のように語られるほど、彼は愛されていた。地元の高校で甲子園出場を果たした彼は、佐倉家の、地元の、自慢だった。

「ふたりは幼馴染で両家も公認の交際でした。父が東京の大学の野球部へ、彼女は音楽の勉強のためにドイツへ、それぞれの進路が決まったとき、卒業後の結婚を約束して、盛大な婚約式も行われたそうです」

婚約者は地元代議士の愛娘。大学野球界のスター的存在としてプロ入りを有望視され、帰省すれば下にも置かぬ歓迎ぶり。何不自由のない環境と前途洋々な将来。

野球以外の世間の常識も教えられず、咎められず、東京で華やかな青春を謳歌する父と、鹿児島の田舎育ちの母との出会いがどんなものだったのか、澪は知らない。
貧しさを嫌って家出した少女が、大都会でどんな暮らしをしていたのか、どんな色に染まったのか、想像するのは怖かった。

澪は言葉選びに詰まって、折った指を唇に押し当てた。それから、うろ覚えの咒文をさらえるように、辿々しく、それでも一言一言力のこもった声で、

「母が、わたしを身ごもったのは、17歳でした。未成年者を妊娠させたうえに堕胎を迫ったと世間に知られ、父は婚約を破棄され、家を勘当され、野球部から追放されてしまったそうです。母は混乱から逃れるように祖母の元でわたしを出産しました。そしてすぐに、生まれたばかりの子どもを置いて、東京へ戻ってしまったのです。夢も生活の糧も失った父を、支えるために」

そこまで一気に語って、いいえと澪は首を振った。

「母はきっとこわかったのです。あのひとに父を奪い返されることが」