桜ふたたび 前編
あれは、両親と暮らしはじめてすぐ、曾祖父の三回忌法要だった。

鹿児島の家とは比べものにならない立派な屋敷の廻りでは、古木の庭でかまびすしいほど蝉が鳴いていた。木漏れ日がサワサワと苔むした地面を揺らして、緑の匂いを運んでくる。南国育ちの澪には東京の蒸し暑さは堪えていたから、ここは天国のように涼しい。

──お母さんはどこへ行っちゃったのだろう? さっきまで一緒に台所を手伝っていたけど、まわりのおばちゃんたちが意地悪で、お手洗いに行ったきり戻って来ない。

廻り廊下を探し歩いていた澪は、障子の向こうから漏れる声に、足を止めた。

〈悠斗だけでよかったのよ。なんであんなひと連れてくるの!〉

悠斗は3つ年下の弟だ。悠仁の幼い頃にそっくりだと誰からも好かれる彼は、好奇心旺盛で物怖じしない子で、突然現れた姉にも、懐っこい笑顔ですぐ馴染んだ。

澪の方は戸惑った。それまで弟の存在を知らなかったから。

〈昨夜までは納得してたのに、いざ出かけようとしたら先に車のハンドル握っていたんだから、どうしようもないだろう?〉

父の声に、いけないことだと知りながら、澪は障子の隙間から盗み見してしまった。だから、罰が当たったのだ。

〈よくもまあぬけぬけと顔を出せたものだわ。彼女のことだから、また何か企んでいるに決まってるわ。7年前だって、堕胎すと約束して手切れ金まで受け取ったくせに、いきなり臨月のお腹を抱えて狛犬みたいなお兄さんを連れてきたんだから。それも、璃子ちゃんのコンクール入賞の祝賀会に乗り込んできて、週刊誌にもリークしていたなんて、やり方が悪辣なのよ。お母さんはショックで倒れるし、激怒した稲山先生からは絶縁を言い渡されるし、危うく会社を潰すところだったんですからね〉

──おろすって何? りこちゃんって誰? あくらつってどういう意味? おばちゃんの言葉は難しすぎてよくわからない。

〈だいたい、澪のことだって〉

自分の名前が出てきて、澪は思わず障子に耳を寄せた。
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