桜ふたたび 前編
はじめて父に会ったとき、澪は夢を見ているみたいだった。田舎では周りの大人はみなとても大きく荒々しくて、俳優さんみたいにスマートで落ち着いた男のひとを間近で見たのは初めてだったから。

母から父だと聞かされて、こんなにきれいなひとたちが実の両親なのかと、ほんとうに嬉しくて、興奮して、一生懸命あいさつした。

けれど、そのときの父の目は、今と同じ禍々しいものを見るようなものだった。

澪が話しかけるとそっぽを向いてしまう。笑いかけると不機嫌な顔をする。
それもこれも、澪の枕崎弁がいけなかった。
そうじゃない、澪が生まれたことがいけなかった。

〈あれは疫病神だ。あいつの存在が人を苦しめる〉

けたたましい羽音が響いた。蝉が焼けた白砂利の上にひっくり返り、それでも懸命に羽を動かして足掻いている。やがて力尽きたのか、何度か羽をぴくつかせたけれど、動かなくなった。
仲間の死にも蝉時雨は止まない。

澪は蝉の死骸を掌に載せ、泣きながら大木の根元に埋葬した。
長い間、暗い土の中で地上を夢見ていたのに、たった1週間で希望は費えてしまったのだ。地中に眠っていれば、絶望することもなかったのに──。


❀ ❀ ❀


母が佐倉家に何をしたのか、父がなぜ澪を愛せないのか、伯母の言葉を何度も何度も頭の中で反芻して、家に帰ってからこっそり辞書を引いた。
全てを理解したのは、もっとずうっと後のことだ。

「母は、父を欺き妊娠を盾にして、誰からも祝福され愛し合っていた婚約者から彼を奪いました。だけど、周りの人たちを傷つけて結婚しても、心は独占できなかった。父は元婚約者と復縁して娘も授かっていた。世間からみれば不倫ですけれど、元から人の道に外れたのは母の方ですから。……わたしは、彼らの不幸な結婚の象徴です。神様もきっと後悔されているでしょう」

語り終えて、澪は胸に手をやりふうっと息をついた。

沈黙があった。

澪は急速に後悔した。主観を混えず出来事だけ話そうと思っていたのに、やはり感情的になっていただろうか、重い空気にさせてしまった。悲劇のヒロインぶってと呆れられたかもしれない。話さなければよかった。
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