桜ふたたび 前編
財布を手に腰を浮かしたとき、「澪?」と、聞き覚えのある声がした。
澪はぽかんと口を開けたまま、白い半袖ワイシャツの声の主を見上げていた。

懐かしい顔だった。どこか線の細さが感じられる小さな瞳に大きな涙袋。目尻に皺を寄せ眩しげに見つめる眼差しに、ふとタイムスリップしたようで、現実味がなかった。

「よかった、元気そうで……」

言葉の意味する重さに、過去が現在に戻った。

「ここ、ええかな?」

柚木は遠慮がちに向いの椅子を指差す。澪は少し躊躇って頷いた。

逃げ隠れできない状況が開き直らせたのか、今、再び彼を前にして、澪は不思議と落ち着いていた。あれほど再会を惧れていたのに、驚きと懐かしむ気持ち。あの、魂が砕け散ったような胸の痛みさえ、薄らいでいる。

歳月という川は、雪解け水のように人の心を雪いでゆくのかもしれない。人は頭で考えているより逞しいのだと、澪は思った。

改めて向かい合って、思いがけぬ再会に戸惑いと遠慮の間があった。

「今、お昼?」

ソフトな口調も、少し猫背の居住まいも、変わっていない。

「はい、今日はお昼当番で……」

普段は弁当持参の澪だけど、今朝はジェイからメールが届き、嬉しさに何度も読み返しているうちに、弁当どころか遅刻しそうになったのだ。

「会社、この近く?」

柚木の視線が、社員証をしまった制服の胸ポケットにあって、澪は観念して頷いた。同じ京都の建設業界、隠しても調べればすぐわかる。

「そうか……」

柚木は5年の空費を思うような長い溜め息を吐いた。鬢に白いものが目立ち、だいぶ老けた気がする。
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