桜ふたたび 前編
「あれからずいぶん捜した……。何も言わずに消えてしもうて、心配したよ?」

「すみません……」

こんなときでも決して澪を責めない。
きっと彼は必死に澪を探したことだろう。心配で寝られぬ夜もあったと思う。優しいひと、誰よりも澪を愛してくれたひと。それがわかっていながら、澪は逃げたのだ。世間の中傷から、当事者のその後の人生から、なによりも柚木の愛情の重さから。身勝手な、こどもだった。

消え入りそうに恐縮する澪に、柚木は穏やかな笑顔を向けた。

「そやけど元気そうで安心した。絵は? 描いてる?」

澪は答えに詰まった。
柚木は、澪の絵を愛してくれた。東京や地方の美術館へも連れて行ってくれた。それなのに、せっかく買い揃えてくれた画材も画集も、あの日すべて棄ててしまった。

察したのか、柚木は辛く哀しい目をした。あなたのせいではないと訴えたかったけれど、言葉にすれば時計を巻き戻すことになる。

柚木は少し考えて、

「困ったことがあったら、いつでも遠慮なく連絡しておいで。ここにメールアドレスも入っとるから」

差し出された名刺は以前と同じデザインだけど、肩書きは変わっていた。

「親爺さん、亡くならはったんや、3年前に心筋梗塞で」

柚木の義父は、澪が以前勤めていた中堅建設会社のオーナー社長だ。エネルギッシュでタフなひとだったのに、人の命はわからない。

その後を継いで会社を纏めていくことが、柚木にできるのだろうか。
彼は娘婿だ。どこの組織にもあるように、以前から柚木一族と社長夫人の実弟との間に、権力争いのようなものが燻っていた。それを黙らせるには、柚木は、優しすぎる。

あのとき、柚木の妻が無事に出産していれば、彼の立場も違っていただろう。
その後すぐ嫁いだ義妹に、男児が誕生したと、菜都がぽそりと漏らしたことがある。
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