メリー・バッドエンディング~邪神の溺愛~
4 異都~邪神の故郷~
1 砂の海原
ここは砂の海原を流れ着いた、ある種の楽園なのだ。
名那がそう気づいたときには子どもの時が終わっていて、楽園に飼われる羊のように暮らしていた。
ある朝、名那は坑道から顔を出して、照りつける日差しを浴びた。
この街の日差しは焼け付くように熱く、大人の男でも浴び続ければ半刻もしない内に倒れてしまう。だから人々は土を掘り、迷路のような坑道の中に住処を作っていた。
坑道は、昔は何か鉱石が取れたらしいが、今は人々が行きかう通路でしかない。古くなってあちこち崩れ始めているから、事故で命を失う住民もいる。
「名那、お入り。そこは暑いだろう」
名那が坑道に戻ると、岩室で住民たちが甘いお茶を飲んでいた。名那にも差し出された器に、ちょっとずつ口をつける。
「太陽の下は神様の領分だからね。ほの暗いくらいの方が、人にはちょうどいいのさ」
繰り返し大人たちに言い聞かされた言葉に、名那はこくんとうなずいた。
ここは、異都と呼ばれているらしい。昔、砂の海を濁流が襲ったとき、それを辿ってやって来た人々が作った街だという。
坑道で取れた鉱石を売っていたのは遠い昔の頃。外との交易は途絶え、今は地下水脈でささやかな作物を作って、街の者たちだけで食いつないでいた。
「ほら、また日焼けして。黒耀様に叱られるよ」
名那の顔をのぞきこんで、壮年の女性が苦笑する。名那は慌てて頬をこすって言った。
「ちょっと顔を出しただけなのに。お、落ちないかな?」
「日焼けは顔を洗うようにしては落ちないからねぇ。ああ、ほら。皮がめくれでもしたらもっと大事だ」
「怒られる……」
「黒耀様が怖いのねぇ」
一人がからかうように告げると、周りの女性たちも秘めやかに目配せする。
名那は女性たちが言う彼を思い出して、喉が渇くのを感じた。
周りの大人たちは、名那がお尻をぶたれたりして痛い目に遭うのを想像しているのかもしれない。でも彼は子どもにするようなそういうお仕置きなどしない。
最近の名那は、彼と向き合っていると、怖いような、たまらなく落ち着かない気持ちになるのだった。
「岩盤が落ちて……」
「ああ、聞いた。家族全員亡くなったって」
「苔の夫婦に娘が生まれたらしいよ」
「よかったね。灯の夫婦が息子に嫁を欲しがっていたものね……」
名那はいつものように、朗報も訃報も混じる世間話の渦の中にいた。
ひんやりとした風が流れ込んだのは、それからまもなくのことだった。
楽しげに談笑していた周りの大人たちは口をつぐみ、頭を低くして目を閉じる。
人形のように動かなくなった大人たちの中で、名那も目を閉じて静かにしていた。
「……名那。体に傷をつけてはいけないと教えなかったか」
冷たい手が名那の頬を包んで上向かせる。独特の低い響きが、すぐ耳元で聞こえた。
名那は目を開けようとして、ためらった。十六歳になった今、息が触れるような側で異性とみつめあうのは障りがある。
目を開こうとしない名那に焦れたのか、彼は名那の日焼けした鼻に触れた。びくっとして、名那は思わず目を開いてしまう。
黒い瞳と目が合った。大地のような褐色の肌と、灰がかった長い黒髪も視界に入ってくる。
「陽の匂いがする。外に出ただろう」
黒耀様と人々に呼ばれる彼は、この街では特異な存在だった。
修復を繰り返して迷路のようになっている坑道を、すべて知っている。どこを掘れば水脈があるかも、逆にどこを壊せば滞った土が流れていくかも教えてくれる。
ただ人々は彼に訊ねることはできず、彼がふらりと現れて落とし物のように情報を与えてくれるのを待つ。
彼は異界の使いと呼ばれる。砂色の瞳と紙を持つ人々とは違う色彩も、年齢のわからない容貌からも、彼は尊敬と共に恐れの対象だった。
「や……」
また鼻先に触れられて、名那はくすぐったさとは違うしびれを感じる。
「私から離れてどこに行く?」
捨て子だった名那を拾い、育ててくれた彼にはもちろん感謝している。けれど彼は昔から過剰なほど名那を身の側から離さない。そろそろ彼の家から出て、どこか嫁を欲しがっている洞に入るときなのに、名那はまだ彼のところにいる。
「ごめんなさい」
彼を困らせようと思って坑道から出たわけではない。ただ母がどんな道を辿ってやって来たのだろうと、時々外を知りたくなるだけなのだ。
「いいよ。お前は可愛い、可愛い、私の子だからね」
彼は歌うようにつぶやくと、名那を抱き上げてその頬に頬を寄せた。
名那がそう気づいたときには子どもの時が終わっていて、楽園に飼われる羊のように暮らしていた。
ある朝、名那は坑道から顔を出して、照りつける日差しを浴びた。
この街の日差しは焼け付くように熱く、大人の男でも浴び続ければ半刻もしない内に倒れてしまう。だから人々は土を掘り、迷路のような坑道の中に住処を作っていた。
坑道は、昔は何か鉱石が取れたらしいが、今は人々が行きかう通路でしかない。古くなってあちこち崩れ始めているから、事故で命を失う住民もいる。
「名那、お入り。そこは暑いだろう」
名那が坑道に戻ると、岩室で住民たちが甘いお茶を飲んでいた。名那にも差し出された器に、ちょっとずつ口をつける。
「太陽の下は神様の領分だからね。ほの暗いくらいの方が、人にはちょうどいいのさ」
繰り返し大人たちに言い聞かされた言葉に、名那はこくんとうなずいた。
ここは、異都と呼ばれているらしい。昔、砂の海を濁流が襲ったとき、それを辿ってやって来た人々が作った街だという。
坑道で取れた鉱石を売っていたのは遠い昔の頃。外との交易は途絶え、今は地下水脈でささやかな作物を作って、街の者たちだけで食いつないでいた。
「ほら、また日焼けして。黒耀様に叱られるよ」
名那の顔をのぞきこんで、壮年の女性が苦笑する。名那は慌てて頬をこすって言った。
「ちょっと顔を出しただけなのに。お、落ちないかな?」
「日焼けは顔を洗うようにしては落ちないからねぇ。ああ、ほら。皮がめくれでもしたらもっと大事だ」
「怒られる……」
「黒耀様が怖いのねぇ」
一人がからかうように告げると、周りの女性たちも秘めやかに目配せする。
名那は女性たちが言う彼を思い出して、喉が渇くのを感じた。
周りの大人たちは、名那がお尻をぶたれたりして痛い目に遭うのを想像しているのかもしれない。でも彼は子どもにするようなそういうお仕置きなどしない。
最近の名那は、彼と向き合っていると、怖いような、たまらなく落ち着かない気持ちになるのだった。
「岩盤が落ちて……」
「ああ、聞いた。家族全員亡くなったって」
「苔の夫婦に娘が生まれたらしいよ」
「よかったね。灯の夫婦が息子に嫁を欲しがっていたものね……」
名那はいつものように、朗報も訃報も混じる世間話の渦の中にいた。
ひんやりとした風が流れ込んだのは、それからまもなくのことだった。
楽しげに談笑していた周りの大人たちは口をつぐみ、頭を低くして目を閉じる。
人形のように動かなくなった大人たちの中で、名那も目を閉じて静かにしていた。
「……名那。体に傷をつけてはいけないと教えなかったか」
冷たい手が名那の頬を包んで上向かせる。独特の低い響きが、すぐ耳元で聞こえた。
名那は目を開けようとして、ためらった。十六歳になった今、息が触れるような側で異性とみつめあうのは障りがある。
目を開こうとしない名那に焦れたのか、彼は名那の日焼けした鼻に触れた。びくっとして、名那は思わず目を開いてしまう。
黒い瞳と目が合った。大地のような褐色の肌と、灰がかった長い黒髪も視界に入ってくる。
「陽の匂いがする。外に出ただろう」
黒耀様と人々に呼ばれる彼は、この街では特異な存在だった。
修復を繰り返して迷路のようになっている坑道を、すべて知っている。どこを掘れば水脈があるかも、逆にどこを壊せば滞った土が流れていくかも教えてくれる。
ただ人々は彼に訊ねることはできず、彼がふらりと現れて落とし物のように情報を与えてくれるのを待つ。
彼は異界の使いと呼ばれる。砂色の瞳と紙を持つ人々とは違う色彩も、年齢のわからない容貌からも、彼は尊敬と共に恐れの対象だった。
「や……」
また鼻先に触れられて、名那はくすぐったさとは違うしびれを感じる。
「私から離れてどこに行く?」
捨て子だった名那を拾い、育ててくれた彼にはもちろん感謝している。けれど彼は昔から過剰なほど名那を身の側から離さない。そろそろ彼の家から出て、どこか嫁を欲しがっている洞に入るときなのに、名那はまだ彼のところにいる。
「ごめんなさい」
彼を困らせようと思って坑道から出たわけではない。ただ母がどんな道を辿ってやって来たのだろうと、時々外を知りたくなるだけなのだ。
「いいよ。お前は可愛い、可愛い、私の子だからね」
彼は歌うようにつぶやくと、名那を抱き上げてその頬に頬を寄せた。