不幸な平凡メイドは、悪役令弟に溺愛される
「アリアだったか?」
肩先まである黒髪に菫色の瞳をした端正な顔立ちのテオドール・ピストリークス伯爵は、わたしに向かってそう話してきた。
(やっぱり、この伯爵様は、わたしの名前をアリアだと勘違いしているみたい……)
「わたしは、アリアじゃなくてマリアです。マリア・ヒュドールと言います」
わたしの方をちらりと見た後、伯爵様は整った相貌を少しだけ歪めながら、ぶつぶつとわたしの名前を繰り返し唱え始めた。
ちょっと不気味で、呪われたりしてるのではないかと、怖くなってぶるりと震えた。
「マリア? アリア? マリア?……」
彼は頬に指を当てて、しばらくの間考え込んだ。
そうして私の方を向き直った。
「お前は双子か何かなのか……?」
わたしはぶんぶんと首を横に振る。
どうして双子という発想になったのかが、さっぱりよく分からない。
「違います、ピストリークス伯爵様。わたしには兄しかおりません」
伯爵様は、頬から指を離すと、その菫色の瞳で、わたしの方をじっと見つめてきた。
顔が綺麗だから、どうしてもドキドキしてしまう。あ、いや、好みでは(以下略)。
「……ピストリークス伯爵様と呼ばれては、恋人だと周囲が思わない。だからテオドールで良い。遠慮は無用だ」
「ふえぇっ!?」
また年頃の女性らしからぬ、すっとんきょうな声が出てしまった。いけない、いけない。
「……とは言っても、あまり会う人間もいないがな……」
彼は少しだけ寂しそうにそう言った。
(あれ……? 想像より優しい気が……)
テオドール・ピストリークス様と言えば、街でも悪い評判の魔術師兼伯爵様だ。
あまり彼と積極的に会いたい人もいないのかもしれない。
そう考えると、なんだか可哀想だなとも思う。
名前の話に戻れば、たまたま誰かに会った時に、わたしが彼を名字に様づけで呼んでいたら、恋人だとは思われないかもしれない。
わりかしぼんやりして、ありふれた容貌にしか恵まれなかったわたしでは、良くて彼の使用人にしか思われないだろう。
彼の話に納得したわたしは、思いきって彼の名前を呼んでみることにした。
「じゃ、じゃあ、遠慮なく……テオドール様!」
「様はつけるな」
低音の命令口調に思わず背筋が伸びる。
(やっぱり怖い人かも……。それに、初対面の男性の名前を呼び捨てだなんて……?!)
そういえば、わたしはもうすぐ成人の十七歳。
だと言うのに、男性を、いわゆる下の名前で呼んだことがないことを思い出した。
子どもの時のことだ。
くすんだ金色に、すぐもつれるこの髪を、近所の男子達からよくからかわれていた。
(それが、今でもちょっとだけ心の傷だったりする)
そんなこともあって、お兄ちゃんと、お兄ちゃんのお友達以外の男性と接するのは、初めてに近い。
しかも相手は貴族。平民が、気軽に名前を呼ぶなんて滅相もない。
「ほら早くしろ」
促されたので、慌てて口を開いた。
「て、て、て、テオドール……」
顔が火照ってくるのが自分でも分かる。
そこまで言ったけど、やっぱり恐れ多くて……。
「……様……」
結局、様はつけてしまいました。
テオドール様からは、呆れたような視線を向けて来られる。
「まあ、今は様づけでも良い。早く慣れろ」
「は、はい!」
びくびくしながらわたしが答えると、またテオドール様が眉をひそめた。彼の切れ長の瞳に鋭さが増していて、ますますわたしは怯えてしまう。
そんなわたしに対して彼が何か言いかけた時――。
突然、ものすごい勢いで部屋の扉が開かれて、わたしは思わずそちらを振り向いた。
「坊っちゃん、数少ない家宝の壺が~~~~!!!」
突然、部屋に甲高い男性の声が響き渡って、耳がきんきんしたのでした。