バラ色の十年
 今行っている会社の社長が、去年、突然死で亡くなった。社長が変わると、すっかり社風が変わってしまった。ややブラックより、だったのがブラックど真ん中になったという。社員側から、何度も休日を増やしたり、残業を減らすよう要求したが、全く相手にされなかった。そんな状況だから、病欠となる社員も多く、会社は今、悪循環にはまり込んでいる。会社に泊りこまなくてはいけない日もザラにあるという。悟さんが疲れ果てているのは、最初に見てすぐにわかった。
「…大変だったんですね」 
 手をわずかに震わせながら私は言った。私はその新社長へ怒りの炎を燃やした。殴ってやりたい。殴ってすむなら今にでもそうする。私は無意識に、そう呟いたようだった。悟さんが薄く笑った。
「…ふふ。鈴ちゃん、勇ましいなあ」
「私にできることなんて、それくらいしか思いつかないから」
「あるよ、できること」
 そう、言うか言わないかのタイミングで、悟さんは、ごろんと私の膝の上に頭を乗せた。
「!」
「ほら、あるでしょ。鈴ちゃんの膝、きもちいーなー」
 こんな時だけど。こんな時だからこそ。私は神様に感謝した。
 悟さんが私に甘えている。弱みをみせている。
 甘い水をごくごく飲んでいるような気分だ。 
 …このまま、時間が止まればいいのに。
 風が吹き生暖かい空気を澄んだものに変えていく。遠目に見えるコンビニの灯りが鮮明にひかる。
「あー、鈴ちゃんについいろいろしゃべっちゃうなあ。昔から鈴ちゃんには語りがちだよね、俺」
 ふるふると首を振った。
「誰でも、吐き出したいときは、ありますよ」
 悟さんの顔つきが微妙に変わった。
「…へこんでたのは、会社のことだけじゃなくて」
「え?」
 悟さんは、起き上がり、私の方は向かず、遠くを見つめて言った。
「百合に、男がいるみたいだ」
 ざあっと音がして風で木の葉が揺れた。私は息を飲んで足元の低いヒールのパンプスを見つめた。

 そして、今。私は26歳で、お盆休みの最終日に、祖父の家に来ている。しばらくすると太一叔父さんの家族もやってきて、一気に夜の宴会の雰囲気になっていった。
 里子叔母さんの天ぷらは最高で、大量に揚げてくれたのに、大皿はきれいにからっぽになった。
 子供たちは、リビングのテレビを独占して、ゲームをやっている。祖父と太一叔父さんは、悟さんの転勤を祝っていた。ブラックじゃなくなったんだ、と私は安心した。悟さんは、車で来ているから、ノンアルだった。太一叔父さんの奥さんは、親戚のところへ行く用事があり、来ていなかった。 
 大量の皿とグラスを、里子叔母さんと、百合姉と私で洗って拭いた。そろそろ百合姉が持ってきたお菓子をあけよう、と三人で話していると、太一叔父さんちの末っ子が台所にやってきた。
「里子叔母ちゃん、ゲーム一緒にやろ。次の絶対面白いから」
 里子叔母さんがゲーマーなのを子供達は知っているのだ。
「えー。じゃあ、やろっかな!」
 私と百合姉が台所に残る形になった。百合姉は、冷蔵庫をばたん、と開けて缶ビールを二つ取り出した。
「ね、二階で飲も」
 暑いんじゃないの?と私が言っても百合姉は大丈夫、と言うばかりだ。
 二階は思っていたよりも涼しかった。窓を開けて、バルコニーに立つ。昼間はあんなに晴れていたのに、夜でもわかるほど、雲が出ていた。そう言えば台風が近づいているとニュースで言っていたっけ。
 プシュ、と百合姉が缶ビールのプルトップを引き、ごくごくと喉をならした。私も続けて飲む。
 百合姉がいつものように「あー、おいしー」と言わないので不思議に思っていると、百合姉が思いつめた顔で言った。
「鈴。私、今、好きな男の人がいる」
 私は、目を見張った。百合姉は続けた。
「会社の取引先の人でね。普段は、長崎に住んでる。出張でこっちに来たときは、会ってる」
「それって…」
「うん。不倫ってことになるよね。向こうも奥さんいるし。ただ…軽い気持ちじゃない。ほんとに好きなんだ、その人のことが。私、学生のころから悟とつきあってるでしょ。悟しか知らない。でも、その人といると身体だけじゃなくて、世界とか視野とかぐっと広がる感じがして。私には、必要な人だったんだ」
 百合姉の目は澄んでいた。本音を語っているのがわかる。
 そう子供のころから百合姉はこんな人だった。欲しいものがあったら欲しい、と言う。差し出された手を迷いなく取ることができる人。
「…悟さんは、知ってるの」
 悟さんから百合姉に好きな男がいる、と言われた時、私はまさか、と一笑した。
 そんなことないですよ。悟さんの気のせいですってば。とにかく悟さんを励ましたくて、そんな言葉を並べた。
 でも、違った。本当だったんだ。百合姉は、ゆっくり首を振った。
「知らないと思う。ギリギリ外泊しないようにしてるし」
 悟さんは知ってるよ、と私は言葉が喉まで出そうになる。
「その人、もうすぐイギリスに転勤になるんだ。ゆっくり会えるのは、今日で最後になると思う。さっきメールが来てて、駅前で待ってるんだ。鈴、私、今夜泊まってくる」
「そんな、バレたら」
 百合姉は缶ビールを飲み干した。
「大丈夫。なんか鈴に聞いてもらったら、心が決まった。じゃ、時間ないから、私、行くね」
「ゆ…」
 百合姉、と声をかけようとして戸惑った。百合姉の本気の恋。私はどう対応すればいいんだろう。
 しかも、うっすら悟さんが気づいている、そんな恋を。
 私が躊躇している間に、百合姉が階段を降りていく。台所で缶ビールの空き缶を捨てていると、百合姉が里子叔母さんにしゃべっているのが聞こえた。
「えー。百合ちゃん、行っちゃうのお?」
「うん。友達がこっちに帰ってきてるって言うから。ちょっと泊まってこようかなって。明日、仕事、午後出勤だし」
「そっか。そっか。積る話もあるよね。行ってきなよ。こっちの事は、いいから」
「百合、気をつけてな」
 百合姉と里子叔母さんが、話しているのを聞いたらしい悟さんが言った。
 うん、ありがと、と百合姉は素早く化粧直しをして、本当に行ってしまった。悟さんとは目を合わせなかった。

 夜の十時半。
 太一兄叔父さんと、祖父は、飲みすぎて畳の上に横になって寝ている。太一叔父さん家族は、バスでここまで来ていた。帰りは里子叔母さんの運転で帰ることになっている。
 悟さんは、里子叔母さんとバトンタッチして、子供たちとゲームしていた。
 私と里子叔母さんは。台所にある小さなテレビでニュースを見ていて、十一時頃お暇しよう、と話していた。ニュースでは台風の接近を伝えていた。
 私は、百合姉の恋発言に動揺して、うまく消化できないでいた。もし、悟さんが百合姉のことを知ってしまったら。どんなに傷つくだろう。
 これがきっかけで二人が仲たがいすることになったら。
 そしたら、二人は。
 そこまで考えて、里子叔母さんが声をかけられてるのに気づいた。
「ねえ、鈴ちゃん。台風、明日きそうじゃない?私たち、今日もう帰るからお父さん独りになるでしょ。明日、お父さんが買い出しに行くんじゃ間に合わないんじゃないかな。食べ物はあるんだけど、水が足りないのよね。この辺りのスーパーはもう閉まってるし…」
 動きの遅い台風だと、数日、家から出れない、なんてこともあるだろう。水は大事だ。特に祖父は高齢だし、熱中症用の備えもいる。
 あ、と私はひらめいた。
「うちに、水の2リットルボトル6本入りの箱が2ケースある」
「じゃ、俺、車で取ってくるよ。鈴ちゃんナビしてくんない」
 いつの間にか、リビングから台所に移動していた悟さんが言った。
「いいの?悟君、大丈夫?」
 里子叔母さんが心配気な声を出す。私だって、もちろん心配だ。
「こういう時の備えって大事ですから。俺、ノンアルしか飲んでないし」
「じゃあ、お願い、できる?」
 こうして、私と悟さんは、台風前のドライブに出かけることになってしまった。
 
 車中で、私と悟さんは、言葉少なだった。こういう時、普段だったら悟さんといられる嬉しさが抑えきれず、饒舌になってしまうのが常だった。
 しかし、今夜は違った。私は百合姉の秘密を知ってしまった。悟さんに言わない方がいいのか。
 言ったところで、百合姉とその相手の関係は今日で終わる。私の言った不用意な言葉で二人の関係がおかしくなるのは避けたい。
 でも、本当に?本当にそれでいいの?
 もし、二人が仲たがいして別れるようなことがあったら。
 …私は、嬉しいんじゃないだろうか。
 そこまで考えたとき、カーステレオが鳴りだした。ラジオ放送だ。
「やっぱ台風情報、やってるな」
 悟さんが言った。
 ラジオでは、台風の勢いが早くなり、これから雨量が上がることを伝えていた。すでにもう強風が吹いている。
「ちょっとやばいかもしんないな」
 悟さんはそう言って、気分転換、とラジオの番組を変えた。夏らしい、甘いラブソングが流れた。
 私も、悟さんも、あまり興味のないJ-POPのラブソングだ。悟さんの音楽談義も始まらない。
 「…鈴ちゃんはさ、俺の中学時代好きだった子にすこし似てるんだ。勉強ができて、大人しくて、でも、話しかけると、すごい話、聞いてくれる。高校で別れても、結構好きだったな」
 これはどう捉えればいいんだろう。単純に嬉しがっていいのだろうか。
 よくわからない。
「その後、百合姉を好きになったの」
 ぽつり、と私は言った。この確認は、今日のような夜、大事なことに思えた。
「そうだな。ぐいぐいこられて、気が付いたらつきあってたよ」
 欲しいものは欲しいという。百合姉は自分らしさを通すのに躊躇がない。
 だから強いんだ。重い石を軽々と持ち上げるような事をやってのける。
「でもさ、最近は」
 悟さんが言う。窓の外は、雨も強くなっている。
「鈴ちゃんとつきあってたらどうなってたかな、とか考える。趣味もあうし」
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