バラ色の十年
私は、脳内に快楽物質が分泌されたのを感じた。
甘い言葉の響きが私の胸を締め付ける。
「…私と悟さんだったら音楽の話ばかりして、カップルになりにくいんじゃ」
かすれた声で、なんとか返事した。
「そうかな。どうだろうな」
住宅街に入った。もううちは近い。
玄関先で、鍵をバックから取り出そうとしていると、強風のせいで、私の帽子が飛んでいった。
「あ」
私よりも、悟さんが反応した。帽子は、強風にあおられ、すごい早さで、見えなくなってしまった。ガチャ、とドアが開き、私は悟さんを振り返った。悟さんは遠くを見ている。
「帽子、まだその辺にあると思う。取ってくるよ」
「え!いいです、そんな。帽子なんて、全然惜しくない。悟さん、行っちゃだめ」
「すぐだよ」
そう言って、雨の中、走り出してしまった。
どうしよう。あっちの方は川もある。もし冠水なんてしてたら大変だ。
「悟さん!」
私は大きな声で呼んだ。私も雨の中、悟さんを追う。どうか行ってしまわないで。引き返して。
雨にさらされながら、悟さんの行った方向に走るけれど、悟さんの姿が見えない。
「悟さん!」
どうしよう。悟さんに何か、あったら。
その時、前方からばしゃばしゃと音がしてきた。悟さんだ。こっちに戻ってきてる。
「ほら、帽子、植え込みにひっかかってた」
私にぐっしょり濡れた帽子を渡そうとする。ずぶ濡れでも、悟さんは、晴れ晴れと笑っている。
私の目に、涙があふれた。
なにやってるんですか、と言いたいのに、泣き声になってしまっているので、全然伝わらない。言葉よりもしゃくりあげる方が多い。涙は止まらない。
気が付くと、悟さんは私を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。
こんなパターンは妄想したことがなかった。実際に触れた悟さんの胸は、雨で濡れているのに暖かさがあった。私が泣き止むまで、ずっと悟さんは抱きしめていてくれた。
うちに入ると、悟さんに熱いシャワーを浴びてもらった。私はタオルで髪や濡れた身体を拭いた後アイスティーを作った。その内、悟さんが浴室から出てきたので、私も入れ替わりでシャワーを浴びた。
シャワーを浴びて、濡れた髪の毛を乾かすと、少し気持ちが落ち着いた。
さっきの抱擁は、濡れた子犬とか子猫にするのと同じだったはず。泣いてたから、ちょっと可哀そうだから、よしよししてやった。ただそれだけのこと。
悟さんは、ソファに座り、アイスティーを飲んでいた。
「あ、ガムシロップ」
悟さんは甘党だったのを思い出した。悟さんの手からグラスを受け取ろうとすると、悟さんの指と私の指が触れた。
身体が、かあっと熱くなった。思わず、グラスを落としてしまう。グラスは床に落ちた衝撃で割れてしまった。
ああ、何やってるんだろう。
しゃがみこんで、ガラスの破片を丁寧に拾い、ガラスの粉が残ってないことを確認してから床のアイスティーをタオルで拭いた。その時、しゃがんでいる私の横に悟さんが、ふっ、としゃがんだ。肩がくっつく。
「うぬぼれかもしれないけど。鈴ちゃん、俺のことが好きなの」
ごくりと息をのんで、悟さんを見た。悟さんは真剣な顔をしている。
いつもだったら、身体を離して、そんなことないですよ、と笑ってごまかす。
でも、本当にそれでいいの?
こんなチャンス、もう二度とないんじゃないの?
「鈴ちゃんと初めて会った日も、雨だったね」
そのひとことで、私の気持ちをせき止めていたものが、外れた。
私は、悟さんに触れている自分の肩を、さらにぐいぐいと押し付けた。
「…好き、です」
かすれた声で言った。悟さんは、私の頬にそっと手を添えて上を向かせた。
泣き出しそうな顔をした私と、至近距離で目があう。
それから悟さんは私の唇を自分の唇で捉えた。
触れあったとき、身体に電流が走ったようになった。
どうすればいいかわからなかったけど、必死に悟さんにしがみついた。
ずっとずっと妄想してきた、夢見たことだった。
悟さんとこうしたかった。こうしたかったの。
言葉にはしない。これまでの十年分の想いが、このキスを通して伝わればいいのに。
悟さんは、丁寧に私の身体に触れた。遠慮がちだったが、私の身体の熱さにのまれたのか、徐々に動きが激しくなっていく。途中で悟さんは私をソファに横たわらせた。
私たちはひとつになり、同じ波を駆け上った。
二人で到達したところは静かだった。しんとしていたが、深く甘いしびれがあり、私の胸のうちは満たされた。
十年かかって空いた心の穴が、今、まさにうまったのだった。
夜半、横に寝ている悟さんの顔を、存分に眺めた。
寝顔を長い時間かけて見るのも夢だった。
私は16歳だった自分に心の中で声をかけた。
ねえ、夢が叶ったよ。十年かかったけど。
翌朝、雨脚は弱まっていた。私と悟さんは、祖父の家に水を届け、それから各々の仕事に行った。
台風の夜に起こったことは、私の宝物。
誰にも言わない。誰にも触れさせない。
どんな言葉でも言い表せないほど、大切な事。
秋になった。百合姉と悟さんは今も二人で暮らしている。私は冬馬君の三度目のプロポーズを受けた。
冬馬君は、嬉しいというよりも、複雑そうな顔をして、言った。
「…あの人のことは、いいの?」
「いいの。もう大丈夫だから」
私は、ずっと悟さんのことを想うだろう。
想うのをやめる日は来ないだろう。
それでいいと、私はあの台風の日に決めた。
「婚姻届け、もらってこないとね」
この恋に終わりはない。
ずっと、ずっと好きだろう。
<了>
甘い言葉の響きが私の胸を締め付ける。
「…私と悟さんだったら音楽の話ばかりして、カップルになりにくいんじゃ」
かすれた声で、なんとか返事した。
「そうかな。どうだろうな」
住宅街に入った。もううちは近い。
玄関先で、鍵をバックから取り出そうとしていると、強風のせいで、私の帽子が飛んでいった。
「あ」
私よりも、悟さんが反応した。帽子は、強風にあおられ、すごい早さで、見えなくなってしまった。ガチャ、とドアが開き、私は悟さんを振り返った。悟さんは遠くを見ている。
「帽子、まだその辺にあると思う。取ってくるよ」
「え!いいです、そんな。帽子なんて、全然惜しくない。悟さん、行っちゃだめ」
「すぐだよ」
そう言って、雨の中、走り出してしまった。
どうしよう。あっちの方は川もある。もし冠水なんてしてたら大変だ。
「悟さん!」
私は大きな声で呼んだ。私も雨の中、悟さんを追う。どうか行ってしまわないで。引き返して。
雨にさらされながら、悟さんの行った方向に走るけれど、悟さんの姿が見えない。
「悟さん!」
どうしよう。悟さんに何か、あったら。
その時、前方からばしゃばしゃと音がしてきた。悟さんだ。こっちに戻ってきてる。
「ほら、帽子、植え込みにひっかかってた」
私にぐっしょり濡れた帽子を渡そうとする。ずぶ濡れでも、悟さんは、晴れ晴れと笑っている。
私の目に、涙があふれた。
なにやってるんですか、と言いたいのに、泣き声になってしまっているので、全然伝わらない。言葉よりもしゃくりあげる方が多い。涙は止まらない。
気が付くと、悟さんは私を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。
こんなパターンは妄想したことがなかった。実際に触れた悟さんの胸は、雨で濡れているのに暖かさがあった。私が泣き止むまで、ずっと悟さんは抱きしめていてくれた。
うちに入ると、悟さんに熱いシャワーを浴びてもらった。私はタオルで髪や濡れた身体を拭いた後アイスティーを作った。その内、悟さんが浴室から出てきたので、私も入れ替わりでシャワーを浴びた。
シャワーを浴びて、濡れた髪の毛を乾かすと、少し気持ちが落ち着いた。
さっきの抱擁は、濡れた子犬とか子猫にするのと同じだったはず。泣いてたから、ちょっと可哀そうだから、よしよししてやった。ただそれだけのこと。
悟さんは、ソファに座り、アイスティーを飲んでいた。
「あ、ガムシロップ」
悟さんは甘党だったのを思い出した。悟さんの手からグラスを受け取ろうとすると、悟さんの指と私の指が触れた。
身体が、かあっと熱くなった。思わず、グラスを落としてしまう。グラスは床に落ちた衝撃で割れてしまった。
ああ、何やってるんだろう。
しゃがみこんで、ガラスの破片を丁寧に拾い、ガラスの粉が残ってないことを確認してから床のアイスティーをタオルで拭いた。その時、しゃがんでいる私の横に悟さんが、ふっ、としゃがんだ。肩がくっつく。
「うぬぼれかもしれないけど。鈴ちゃん、俺のことが好きなの」
ごくりと息をのんで、悟さんを見た。悟さんは真剣な顔をしている。
いつもだったら、身体を離して、そんなことないですよ、と笑ってごまかす。
でも、本当にそれでいいの?
こんなチャンス、もう二度とないんじゃないの?
「鈴ちゃんと初めて会った日も、雨だったね」
そのひとことで、私の気持ちをせき止めていたものが、外れた。
私は、悟さんに触れている自分の肩を、さらにぐいぐいと押し付けた。
「…好き、です」
かすれた声で言った。悟さんは、私の頬にそっと手を添えて上を向かせた。
泣き出しそうな顔をした私と、至近距離で目があう。
それから悟さんは私の唇を自分の唇で捉えた。
触れあったとき、身体に電流が走ったようになった。
どうすればいいかわからなかったけど、必死に悟さんにしがみついた。
ずっとずっと妄想してきた、夢見たことだった。
悟さんとこうしたかった。こうしたかったの。
言葉にはしない。これまでの十年分の想いが、このキスを通して伝わればいいのに。
悟さんは、丁寧に私の身体に触れた。遠慮がちだったが、私の身体の熱さにのまれたのか、徐々に動きが激しくなっていく。途中で悟さんは私をソファに横たわらせた。
私たちはひとつになり、同じ波を駆け上った。
二人で到達したところは静かだった。しんとしていたが、深く甘いしびれがあり、私の胸のうちは満たされた。
十年かかって空いた心の穴が、今、まさにうまったのだった。
夜半、横に寝ている悟さんの顔を、存分に眺めた。
寝顔を長い時間かけて見るのも夢だった。
私は16歳だった自分に心の中で声をかけた。
ねえ、夢が叶ったよ。十年かかったけど。
翌朝、雨脚は弱まっていた。私と悟さんは、祖父の家に水を届け、それから各々の仕事に行った。
台風の夜に起こったことは、私の宝物。
誰にも言わない。誰にも触れさせない。
どんな言葉でも言い表せないほど、大切な事。
秋になった。百合姉と悟さんは今も二人で暮らしている。私は冬馬君の三度目のプロポーズを受けた。
冬馬君は、嬉しいというよりも、複雑そうな顔をして、言った。
「…あの人のことは、いいの?」
「いいの。もう大丈夫だから」
私は、ずっと悟さんのことを想うだろう。
想うのをやめる日は来ないだろう。
それでいいと、私はあの台風の日に決めた。
「婚姻届け、もらってこないとね」
この恋に終わりはない。
ずっと、ずっと好きだろう。
<了>