だって、しょうがない
 顔の上にはお湯跳ね防止用の布が掛かり、視界が塞がれている。そのせいか、髪を洗うのに頭皮に触れている手の感触ばかりが気になる。時折、近くで聞こえる声がこそばゆい。

「なんだか忙しくて……。今日も仕事をしてから、福岡まで来たんですよ」

「受付票に記入された住所に東京と入っていましたね。こんなに遠くまで仕事なんて大変だ」

「でも、仕事のおかげで福岡に来れたのが嬉しいんです。空気が合うのかな? ホッとします」

と言ったところで、「お疲れ様でした」と声が掛かり、顔の上に掛かっていた布が外され、視界が開けた。椅子を起こすために手を添えていた北川が思いのほか近くに居て、男の人を下から見上げるシチュエーションに頬が熱くなった気がした。

椅子が起き上がり、眼の前にある鏡に自分の姿が映る。すると、頬ばかりか耳までも赤く染まっている。
愛理は、恥ずかしさを隠すように「博多って、いい街ですね」と口にした。

 洗い髪に巻き付けたタオルが解かれると、北川の大きな手が頭全体を包み、撫でるように優しくマッサージをしながらタオルドライをしてくれる。
 その手の触れ方が、ほど良くて、疲れていた心までもほぐれていくよう。

 黒く長い髪が梳かされ、切り落とされる。少しずつ、髪と心が軽くなっていく。

「博多は美味しいものが多いですし、街もコンパクトで動きやすい。空港も近いから海外旅行も行きやすくて、住むには最適だと思ってます」

「本当に良い所ですよね。出来れば移り住みたいぐらい。海のそばで暮らすの夢なんです」

 他愛のない話しをしているうちに、切り落とされた黒い髪が足元に溜まっていた。それを北川がホウキとチリ取りでサッと片付ける。
 
 愛理は、自分の問題も簡単に片づけられそうな気がした。

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