壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第五話 届かなかった手紙
麗らかな、ある春の日の事。
港町リジンのパン屋、芳ばし工房の店内には、いつもと変わらず笑顔で接客をこなすアイリスの姿があった。
「ミニクロワッサンが五つ、ベーグルサンド二つ、妖精の落しものが三つ、恋焦がれるヒマワリがお二つで…千百五十クリソスになります」
アイリスは、慣れた手付きで、それぞれのパンをトングで掴み、ワックスペーパーに包んでいく。
小さな子供を連れた若い母親が代金を用意していた所で、少女が小瓶を両手で持ち母の元に駆けて来た。
「ママー、いちごのジャム、たべたーい」
「あら、可愛い瓶のジャムね!どこから持って来たの?」
「そこにあったの!ねえ、いいでしょー」
小さな木製棚に並べていたアイリスの手造りジャム。小瓶に貼られたラベルの苺のイラストも彼女が手掛けたもので、その見た目の愛らしさから、若い女性や子供達が手に取る事が増えていた。ジャムを両手で持つ少女を見て、アイリスは柔らかな笑みを浮かべると口を開いた。
「その苺のジャムは、先週から売り出した商品なんです。うちで作っているので、いつも数は少ないですけど、良かったらお試し下さい」
「あら、芳ばし工房さんで作ってるジャムならきっと美味しいわ。それに、ラベルも可愛いし、食べ終わった後に小物入れにできそう。これも一緒に頂きます」
「ふふ、ありがとうございます!」
会計を終えると、アイリスはレジスター横の小さな篭に入った何かを手に取り、少女の目線に合わせて腰を落とした。
「はい、これは、お姉さんからプレゼントよ」
アイリスが差し出したのは苺の花を押し花にしたカードだった。
「わー!可愛い白いお花ー!」
「あら、良かったわね、ミク!お姉さんにお礼は?」
「えへへ!ありがとう!おねーちゃん!」
少女は、ぺこりと頭を下げると、嬉しそうにカードを胸元に抱き締めて、母親と共に店を出て行った。
幸せそうに微笑み会う親子の姿を見送るアイリスに、工房から焼き上がったパンを篭に入れて、シグリッドがレジスターのカウンター越しに声をかけた。
「アイリス、ジャムの売れ行き、なかなかじゃないか」
そう言って優しい笑みを浮かべた夫に、アイリスもにこやかな表情で答える。
「ふふ!お陰さまで!今週末には、またアーセナル農園で苺を摘ませて頂きたいわ。押し花にする苺の花も摘みたいし」
「じゃあ、農園に連絡を入れておくよ。一緒に摘みに行こう」
「うん!」
二人が微笑みあった所で、店のドアベルが音を立てて開いた。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ!」
シグリッドとアイリスが同時に挨拶すると、その玄関口に現れたのは見知った顔の少年で、アイリスはどうしたのかと目を瞬かせた。
「あら?リューク?」
「マデリア院長からお遣いでも頼まれたか?」
シグリッドが、にんまりした笑みを浮かべながら問い掛けると、リュークは不貞腐れた顔で答えた。
「ちげーよ、お遣いの方がまだマシだぜ」
そんなリュークの態度を目の当たりに、シグリッドとアイリスが互いに顔を見合わせた所で、少年は玄関向こうへ声を上げた。
「オイ!早く入れよッ!もたもたすんな!」
「嫌だよ、甘い匂いは嫌いなんだ」
「付き合ってやってんだから、わがまま言うなッ!シグリッド達に話があるんだろ?さっさと用事済ませろよな!」
「別に付き合ってくれなんて、オレは言ってねぇし!」
引っ張られるようにして店内に入って来たのは、リュークより少し年下の少年だった。
「うげぇ、なんか甘ったるい匂い、気分悪ぃ」
そう言って顔を顰めた少年に見覚えのあるシグリッドが目を瞬かせる。
「ん?そのチビ、確か…」
以前、商人のローデンという男が、悪徳商人の手から子供達を逃がし、友人マデリアに託した時の一件。
その件で匿われた子供の内の一人が、目の前にいる少年だった。
「えーと、ミハイルだったわね。リュークとお出掛け?」
アイリスがにこやかに問い掛けるも、少年ミハイルは目を吊り上げて答えた。
「はあ?誰がこんなガキと出掛けるかよ!」
これに、喧嘩上等と言わんばかりのリュークが声を上げる。
「それはこっちの台詞だぜ!つーか、お前の方が年下だろ!」
「精神年齢はオレの方が上だけどな!」
「はあ!?どの口が言ってんだ、クソガキ!」
「お前もガキだろー!」
今にも取っ組み合いの喧嘩になりそうな二人を見て、アイリスは間を割って飛び込んだ。
「こらこら、あなた達!お店の中で喧嘩しないの!」
姉と慕うアイリスに宥められようとも、リュークの怒りは収まらず…
「本当、むかつく!だからコイツに道案内なんかするの嫌だったんだよ!」
売り言葉に買い言葉、ミハイルもリュークの言い種に負けじと言い返した。
「だったら放っておけよな!オレは別に一人でも来れたし!つーか、オレ一人ならもっと早くにここへ着いてたし!何ならお前のお陰で遅くなっちまったし!」
「あーそうかよ!だったらさっさと用件話せば?」
「あーあ!そう言われたらなんか話す気なくなってきたー」
少年二人がそっぽを向いている間で、アイリスは彼らを交互に見ると困ったように眉を下げた。
「もう、口が悪い子達ね」
「はは!この年頃のガキはこんなモンだろ。俺も、このくらいの時には似たようなもんだったさ。ここは経験者の俺に任せろ、アイリス」
同じ男同士、シグリッドも己の幼い頃は尖っていたものだと思い出しながら子供達に歩み寄ると、ミハイルに目線を合わせるように身を屈めて口を開いた。
「ミハイル、周りに構われるのが面倒だと思う時もあるよな?よく分かるよ。だけど、素直になるっていうのは、自分の成長の為に大事な事なんだぞ?今がその時だ。ほら、見栄張ってねぇで、何でもお兄さんに話してみな?」
がしがし、と少年の頭を撫でながら言ったシグリッドだが、当のミハイルはといえば相変わらず不貞腐れた顔で答えた。
「知った風な顔で近付いて来るんじゃねぇよ、オッサン、慣れ慣れしい」
「オッサ…」
先程まで優しい笑みを浮かべていたシグリッドの額に、ぶち、と音を立てて青筋が浮かぶ。
「このクソガキーッ!人が優しい顔してりゃ付け上がりやがってーッ!」
「まあまあ、落ち着いて、シグリッド」
怒声を上げるシグリッドの胸を押さえ宥めると、アイリスは、尖った少年を諫めるのは、やはり孤児院で幾分も過ごして来た己しかいないだろうと、どこか得意気に口を開いた。
「やっぱりね、このくらいの年の子は、母性を求めるものだと思うの。ここは、私にお任せあれ!」
アイリスは、とん、と己の胸を叩くと、ミハイルと同じ目線に合わせて腰を落とした。
「ね、ミハイル?皆の前で話しにくい事だってあるわよね?向こうの部屋で、私が二人きりで聞いてあげるから、行きましょう?」
これにもまたミハイルは半眼を向けて、ぼそりと言い放った。
「ケツデカ女と二人きりになるとか勘弁。オレの好みのタイプ、乳のデケー、グラマーなねえちゃんだから」
「…」
にこやかに微笑んでいたアイリスの額にも、先程のシグリッドと同じように青筋が浮かび、そして、彼女は怒声を上げた。
「おーしーおーきーッ!」
「まあまあ、落ち着け、アイリス」
今度はシグリッドが妻を宥める。
そんなやり取りを見ていたリュークは腕を組み、仕方なさそうな顔で息を吐いた。
「お前なあ、シグリッドとアイリス姉ちゃんを怒らせると、仕事やって貰えなくなんぞ」
「え?仕事?」
アイリスがリュークの言葉を聞いて目を瞬かせると、ミハイルは俯いて沈黙する。そして、彼は意を決したように、肩に提げた鞄から白いアネモネが描かれたカードを取り出した。
それを見たアイリスが驚いて目を見開くと、一方のシグリッドは動じる事なく冷静な声音で口を開いた。
「…なるほど、こっちのお客さんか。道理で口が固い訳だ」
シグリッドは差し出されたカードを受け取り、まだ幼い、たどたどしい字で書かれたそれを見て言葉を継いだ。
「ご注文は、『スパンダワー』か」
ミハイルは一呼吸の間を置き、俯いたまま口を開いた。
「それを、注文しろって…言われたから…」
先程の勢いをすっかり無くしたような少年を見て、シグリッドは腕を組むと、彼の心を確かめるように問いかけた。
「丁度、今日店頭に出してる商品だから、すぐに用意はできるが、お客さんは、話す心の準備は出来てるのかな?」
少し迷ったように沈黙していたミハイルは、決心がついたのか、顔を上げて小さく頷いた。
―――午後の客足が少ない時間帯。
店番をリュークに任せたシグリッドとアイリスは、奥のリビングへとミハイルを案内した。
ダイニングの席に着いたミハイルの前に差し出されたのは、四隅を折りたたんだ、芳ばしいデニッシュ生地中央にカスタードクリームを包んで焼き上げたスパンダワー。スライスしたアーモンドに、白いシュガーグラスが格子状にかかり、その甘い匂いはミハイルの鼻を擽る。
アイリスは、グラスにオレンジジュースを入れてストローを差すと、それをスパンダワーの乗った皿の横へとそっと置いてやった。
アイリスが、俯いたままのミハイルの向かい席へ腰を下ろすと、シグリッドも二人の間の席へ腰掛け口を開いた。
「それで?どんな封書をどこへ運ぶ?」
何も言っていないのに、図星を当てられ驚いたミハイルは、顔を上げてシグリッドを見遣った。
「え?なんで、そんな事知ってんだよ、オッサン」
相変わらず口の悪い少年の言い種に半眼を向けたシグリッドが低い声で答える。
「オッサンじゃない、お兄さんだ」
「ふふ」
アイリスが彼らのやり取りを見て楽しそうに笑うと、シグリッドは小さく溜め息を吐いて言葉を継いだ。
「スパンダワーは、その形状から『封筒』を意味する。それを注文するように、このカードを持っていた人に言われたんだろ?」
ミハイルはまた俯き、小さく頷いた。
白いアネモネのカードは、シグリッドが信頼を置いているペレス意外は持ち得ない。恐らくは、少年の身に起こる何らかの事情を知った孤児院の誰かが、ノアトーン騎士団のペレスに声をかけたのだろうと察したシグリッドは、少年の口から言葉が出るのを静かに待った。
そして、少しの沈黙の後、ミハイルは先程までとは打って変わり、控え目な声音で口を開いた。
「この手紙を…オレの母ちゃんに届けて欲しい。そんで、母ちゃんが元気にやってるか見て来て欲しいんだ」
ミハイルは、鞄から茶封筒を取り出しながらそう言った。
封筒には、マーガレット・ペーテ様と書かれており、それを見たシグリッドが憂いた表情で問いかける。
「お袋さんに?」
「うん。オレの家…ソウルヘイムの城下町にあるんだ。父ちゃんが死んで、オレと弟を食わせる為に、母ちゃん一人で行商してた。オレも弟も、時々馬車で一緒に着いてってさ、母ちゃんの仕事を手伝ったりしてたよ。でも、二年前、馬車がいきなり山賊に襲われて、オレも弟も母ちゃんも、ばらばらになっちまった」
ミハイルの生い立ちについては、分かる範囲で院長のマデリアから聞いていたアイリスは、眉を下げて口を開いた。
「院長先生から聞いているわ。ミハイル、幼い弟とお母さんを逃がす為に囮になったから、一人山賊に捕まってしまったんだって…」
そして、先の一件である奴隷船に売り飛ばされた。ミハイルはアイリスの言葉に小さく頷いて続けた。
「母ちゃん、きっと心配してると思うんだ。だから、オレが無事でいる事くらい知らせてやろうと思ってさ」
母親の居場所が分かっているのに何故、この子は親元へ帰ろうとしないのだろう。そう疑問に感じたアイリスが心配そうな顔でミハイルを見詰めて言った。
「ミハイル、家が分かっているなら、直接お母さんに会う事だってできるじゃない?お手紙を送るよりも、貴方の姿を見せてあげた方が、お母さんも喜ぶんじゃないかしら」
優しくかけられたその言葉に思うところがあったのか、ミハイルは大きく反発して怒声を上げた。
「大きなお世話だよッ!オレは手紙を届けて欲しいだけだッ!やってくれんのかくれねーのか、どっちだよッ!」
「ミハイル…」
アイリスが眉を下げたまま、そっぽを向いたミハイルを見詰めていると、ここでシグリッドがふっと笑みを浮かべて口を開いた。
「分かった、引き受けよう」
「あなた」
ミハイルにとって他に何か良い選択肢があるのではないかと考えていたアイリスは、シグリッドが二つ返事で引き受けると言った事に納得いかなそうな顔を向ける。
それを察したシグリッドは、この仕事をするに当たってこれまで変わらず守って来た事を妻に向けて言った。
「俺は、自分が納得して受けた仕事は、依頼人の望む結果を残して終わらせる。ただそれだけだ」
真剣な表情ではっきりと答えたシグリッドに、アイリスはそれ以上反論も出来ず肩を竦めた。
余計な詮索はしないというシグリッドの言葉を聞き、ミハイルは頼もしげな様子で頷く。
「へへ、こっちのどんくさそうなオバサンよりは話が早いなオッサン!」
「もう!可愛くないわね!」
アイリスが拗ねたような顔で返すと、ミハイルは代金をテーブルに置き、目の前に出された商品には手を着けず席を立った。
「じゃあ、頼んだぜ!」
一口も口にせず帰ろうとする少年を見て、アイリスは引き留めようと声をかける。
「ミハイル、お待ちなさい!それは貴方の為に用意したスパンダワーよ?食べて行きなさい。外で待ってるリュークにも用意するから、一緒に、ね?」
「いらねぇよ!そんな甘ったるいもん食えるか!オレはいらねぇから、そいつも母ちゃんに届けてやってくれ」
ミハイルはアイリスから顔を逸らすと、どこか辛そうな表情で部屋の出入り口を目指した。
「母ちゃんも弟も、甘ったるいモン、好きだったはずだからさ…」
そう一言告げると、ミハイルは部屋を出て行く。その後を追ってアイリスが席を立てば、シグリッドはテーブルに置かれたミハイルの手紙を手に取り、憂いた瞳でそれを見詰めた。
一方、店内で退屈そうに待っていたリュークは、部屋から出て来たミハイルの姿を見て口を開いた。
「話しは終わったのか?」
「終わった!もうこんな臭ぇとこいられねぇ!さっさと帰るぞ!」
「偉そうに!オレに指図すんなっつーの!」
一度も振り返る事なく店を出て行ったミハイルに続いて、リュークはアイリスと、少し遅れて店内に出て来たシグリッドへ軽く手を振り去って行った。
元気いっぱいの少年達を見送り、アイリスは困ったように眉を下げて微笑む。
「よく似た二人。本当、可愛げないんだから、困った子達ね」
「はは、そうだな、だけどリュークもミハイルも根は優しい子だよ。強がりで、素直になれないだけさ」
シグリッドはミハイルから預かった手紙を手に、窓の外に見える二人の少年達の姿が小さくなって行くのを見つめた。
――――翌日、早朝から馬を走らせて来たシグリッドとアイリスは、三日かけて隣国ソウルヘイムの城下町へと辿り着いた。
ノアトーンやリジンに負けず劣らずの、人の多い大通りを抜け住宅街へと向かう。
陽も暮れかけた中、ミハイルから聞いた住所を頼りに二人は町を歩いた。
「えーと…サウス通り八番のー…」
地図を持ったアイリスが難しい顔で歩いていると、逆方向へ行く妻を制してシグリッドが口を開く。
「アイリス、こっちだ、そっちは九番地だぞ」
「でも、地図にはこっちが…」
シグリッドは妻の傍へ歩み寄ると、彼女の持つ地図を掴んで正しい方向へ向けてやった。
「お前、これ地図逆向き」
「あら、ほんとだ。うふふ…」
「はあ…」
照れ臭そうに口許に手を添えて笑うアイリスに、シグリッドはやれやれと溜め息を吐く。
そして、程無く、大通りから離れた閑静な場所へ来た二人は、直ぐにミハイルの手紙に書かれた住所へと辿り着いた。
窓にはカーテンもなく、庭の草木は伸びっぱなし、まるで生活感のない様子を見て、シグリッドは怪訝な顔で呟いた。
「ここか…誰も住んでいる気配がないようだが…」
「ねえ、あなた…あれ…」
アイリスが何かを見付けてシグリッドの袖を控え目に引っ張る。妻の視線の先を辿ったシグリッドの目には、手紙の束が口から溢れそうになっているポストがあった。
そちらへ歩み寄ったアイリスは、無理やり突っ込まれた手紙の一つに手を伸ばすと、その差し出し人を見て眉を下げる。
シグリッドの目にも映ったそれは、ミハイルの書いた手紙のようだった。
溢れ落ちそうになっている沢山の手紙。その筆跡は全て同じもののようで、アイリスは悲しげな瞳のまま口を開いた。
「あの子、何度も何度も手紙を出していたんだわ。一番上のこれは、リジンの消印よ?孤児院に来てからも手紙を送っていたのね…。きっと、母親から返事がなくて心配になったから、芳ばし工房へ依頼に来たんじゃないかしら」
「…」
山賊に襲われた後、家族がどうなったかまでは誰も知らない。ひょっとしたら母親と弟は既に存命ではないのか…と、悪い想像が働く。シグリッドは顎に手を添えて険しい表情を浮かべると、周囲に視線を巡らせて口を開いた。
「どこかへ引っ越したのかもしれない、少し周りに訊ねてみよう」
「ええ、そうね」
アイリスが賛成して頷くと、二人は早速、近所の家々を訊ねて回った。
『ああ、ペーテさんのお宅?二年くらい前からかねぇ、急に姿を見なくなったんだよ』
『さあ、あの一家がどこへ行ったかなんてのは聞かないね』
『ペーテさんかい?あー…そういえば、こないだ行商人が、隣町で見掛けたって噂もしていたが、本当かどうかは分かりゃしないよ』
そんな返事が聞けるばかりで、ミハイルの家族の無事を確証できる話しは何一つ得られなかった。
暗くなって来た空を見上げたシグリッドは、ミハイルの話を思い出しながら口を開いた。
「二年前といえば、ミハイル達が山賊に襲われたと言っていた頃か…」
「ええ、もしかして、そこから母親も弟さんも行く方が分からないまま?」
不安が募るばかりのアイリスがそう言って俯くと、シグリッドは妻の肩にそっと触れて答えた。
「まだそうと決まった訳じゃない。隣町で見掛けたって噂を信じて、そっちへ行ってみるか」
そうして、ソウルヘイムの城下町を出た二人は、そこから一番近い町ルルスを訪れる。
到着したのは夜空に星が瞬く頃だったが、町はそこかしこにライトが灯り、大勢の人々で賑わっていた。
初めてこの町を訪れたアイリスは、星のように煌めく町の灯りを楽しげに眺めた。
「賑やかな町ね、リジンの大通りにも負けないくらい」
「ああ、ここは酒の輸入が盛んな町なんだよ、だから酒を扱う商店や飲食店が多い」
「へえ…だけど、これだけ人の多い町となると、どこでミハイルの家族の事を訊ねたら良いのか困るわね…」
「いや、この町で寧ろ好都合だ。情報を集めるには、酒場が一番手っ取り早いからな」
そうして、この町で一番大きい酒場へとやって来たシグリッドとアイリス。
幾つも並ぶテーブル席は既に満席で賑わっている。
料理や酒を運ぶ娘も、慣れた様子で人の隙間を縫い、粗野な男達からのセクハラめいた行為も軽くあしらっていた。
こういった場所に、あまり馴染みのないアイリスは、酒の匂いが充満する店内に思わず顔を顰める。
「うう…お酒臭い…」
逆に、男所帯のこういった場所には慣れているシグリッドを先頭に、僅かに空いたカウンター席へと向かう二人。アイリスは、夫の背に半ば抱き着くような形で続いた。
「このままじゃ鼻が曲がりそうだわ。シグ!あなたの匂いをちょうだい!」
「おい、こら、そんなに引っ付くなよ、アイリス」
シグリッドの背に顔を埋める妻。困ったように頭を掻いたシグリッドが周りの視線を考えて恥ずかしげに頬を染めると、そんな二人の姿を見た客達が声を上げた。
「いちゃいちゃしちゃって、いいねぇ若いモンは!」
「そういうべったりは、ここ何年もご無沙汰だぜー」
「はは!オメーんとこは結婚した当初から冷めてんだろーが」
「ぶははは!言えてる!」
「ちくしょー!おい!別嬪の姉ちゃん!いいケツしてるじゃねぇか!ちょっと感触を…いてて!」
盛り上がる酔っ払いの内一人が、アイリスの尻へ手を伸ばすも、それを咄嗟に掴み上げたのはシグリッドだった。
「おっと、コイツは俺の嫁さんだ。見るだけは百歩 譲って良いにしても、お触りは勘弁してくれ」
そう言って妻の肩を抱き寄せたシグリッド。アイリスはここで漸く己の身に危険が迫っていた事を知り、夫に飛び付いた。
「まあ、あなた、私のお尻を魔の手から護ってくれたのね!大丈夫!私のお尻は、あなただけのものよ!」
「はは…」
抱き着いて頬を寄せて来る妻に、シグリッドは困ったように眉を下げて笑みを浮かべた。
そうして周りから冷やかしを受けつつ、妻の言う所の魔の手から逃れ、カウンター席へと落ち着いた二人は、店主であろう男に声を掛けられる。
「いらっしゃい、お客さん達、見ない顔だね。格好も小綺麗だし、旅人じゃあなさそうだけど…」
「ああ、俺達はしがない商人なんだけど、ちょっと野暮用でこの町に。折角酒の美味い町に来たんだ、一杯やりたくてね」
多くの行商人や旅人が集う酒場。よそ者など珍しくもない店主は、快い表情でシグリッドとアイリスに問いかけた。
「ご注文は?」
「そうだな、俺はネリコワインを貰おうか」
シグリッドの言葉を聞いて、隣の席に座る妻アイリスは目を見開いた。
「もう、あなたったら、お仕事中にお酒を飲むつもり?」
「固い事言うなよ、お前も軽い酒をどうだ?この町の葡萄酒はどれも美味いぞ?」
「え?そうなの?じゃあ、私も頂こうかしら…」
「だったら、お前にはサンメイプルワインがおすすめかな」
そう言ってシグリッドが店主に目配せすると、「かしこまりました」と答えた彼は、注文の品を準備し始める。程無くしてワイングラスに酒が注がれれば、二人は軽くグラスを合わせて口元に運んだ。
アイリスは、久しぶりに飲む酒を前にして、上機嫌で一口、葡萄酒を喉に流し込む。
「まあ…あっさりしていて、でもしっかりした甘味もあって、美味しい!」
「そうだろ?口当たりも良いから、それなら酒の弱いお前にも…」
と、シグリッドが言うが早いか、アイリスはぐいぐいとグラスの中身を飲み干した。
「って、おい!いくら飲みやすいからって、そんなに一度に…」
「うふふ…あなたー、この葡萄酒、お土産に買って帰りましょうー?」
「…お前、顔赤いぞ。さっそく酔っ払ったな」
「ご主人ー、もう一杯、同じものを下さーい」
「いや、もうよせ!それ以上飲んだら仕事どころじゃ無くなるだろうが」
シグリッドの言葉を聞いているのかいないのか、頬を染めたアイリスが空になったグラスを店主へ向けて差し出す。
「なに言ってるのよ、私はまだまだ元気です。ここで乾いた喉をしっかり潤したら、ペーテさん探しの再開よー」
様子のおかしくなってきた妻が酒のお代わりをしようとする、その手を止めて宥めながら、シグリッドが苦笑いを浮かべていると、ふと彼らの後ろに立った一人の男が声をかけて来た。
「よお、アンタ達、マーガレット・ペーテの知り合いかい?」
「?」
シグリッドが、すっと視線を向けると、男は、ばつが悪そうな様子で頭を掻いた。
「ああ、悪い、彼女がペーテと言ったのが聞こえたものだから…つい」
「ああ、いえ、気にしないで下さい。ところで、貴方はペーテさんとお知り合いですか?」
シグリッドの問い掛けに、男は少し迷ったように答えた。
「あー…まあな。さっき会ったばかりだよ…」
彼の言っている事が本当であれば、ミハイルの母親が無事でいる事は確かだが、シグリッドがペーテの居場所を聞こうとするよりも早く、男はこう告げた。
「アンタ達が何者か知らないが、よそ者がこの町の住人をあれこれ詮索するのはおすすめしないね」
と、居場所までは教えてもらえず、その言葉を最後に、男は会計を済ませ足早に店を出て行った。恐らく彼はペーテの居場所を知っている。シグリッドは、ミハイルの母親が生きていることにひと先ずは安堵し、ほろ酔い気分のアイリスを連れて酒場を後にした。
「アイリス、大丈夫か?ふらふらしてるぞ」
シグリッドの腕にしがみついたアイリスの足取りは覚束無いものだが、本人は至っていつも通りだと言って見せた。
「へいき、へいき、私はぜーんぜん、ふらふらなんてしてませーん」
「いや、してるし、真っ直ぐ歩けてねぇし」
「これは、私がふらふらしてるんじゃないわー、地面がふわふわしてるのよー」
「やれやれ、軽い葡萄酒でもこうなるとは迂闊だった。お前には果汁百パーセントのジュースを注文してやるべきだったよ」
下戸の妻に酒を飲ませた己が悪かったと、反省真っ最中のシグリッドの言い種に、アイリスは拗ねた顔で声を上げた。
「まあー!あなたったらー、私がジュースしか飲めない、お子様だって言いたいのー?」
「い、いや、そんな事言ってないだろ?お前は魅力的な大人の女性だよ」
「うふふー、そんな事言って私を喜ばせて、どうするつもりー?うふふふ」
「こりゃ、ダメだ。今日は宿を探して明日出直そう」
ふらふらとした足取りのまま、半分目が閉じかけて来た妻を背負ったシグリッドは、宿を探して歩いた。
「ね、あなた」
「うん?」
くったりとした様子で、背中越しに話し掛けて来た妻の言葉にシグリッドは耳を傾ける。
「マーガレットさん、この町で生きてるって、無事でいてくれて良かった…」
「ああ、そうだな…」
「でも、生きているならどうしてミハイルの事を気にかけてあげないのかしら。ミハイルが、ソウルヘイムのお家に戻って来るかもしれないと、考えた事はないのかな…」
「アイリス…」
「あんなに沢山の手紙を、あの子は…ミハイルはずっと送っていたのに、マーガレットさんには一通も届いていない。そんなの、悲しすぎるわ…」
小さく消え入りそうな声で言ったアイリスは睫毛を伏せた。
孤児として育った妻だから余計にもミハイルの悲痛な思いを感じているのだろうと、シグリッドは憂いた瞳で答えた。
「どんな事情があるにせよ、我が子を気にかけない親なんて、いないよ」
「…うん…そうだといいな…」
そう答えたアイリスは、そのまま小さく寝息をたて始める。シグリッドはやれやれと、優しい表情で息を吐きながら宿のありそうな場所を探して歩いた。
「!」
そこで、偶然にも、マーガレットを知る男が、町角を曲がるのを見付けたシグリッドは目を見開く。
「あれは…」
気付かれないよう距離を保ちつつ男の後をつけて来たシグリッドは、ある古びた民家の玄関口で立ち止まった男が、周囲を気にしながら扉をノックする姿を物陰から確認する。そして、直ぐに玄関扉を開いて出て来たのが、まだ幼い男の子であるのを見ると、シグリッドは静かに様子を窺った。
「ブノアおじさん!こんばんは!」
「やあ、ルチオ、母さんはいるかい?」
「うん!いるよー!ママー!ブノアおじさんが来たよ!」
ぱたぱたと駆けて母親を呼びに行く少年。少し遅れて、やつれた顔の女性が現れた。
「どうしたの?ブノアさん、こんな遅くに」
「マーガレット、実は…」
恐らく男は、今日酒場で会った不審な人物…つまり自分達の事を知らせているのだろうと、シグリッドはそれ以上近寄らず、すっかり眠りに就いた妻を背負ったまま、今夜はその場を去った。
――――そして、宿を探しあて、一晩をこの町で明かしたシグリッドとアイリスは、翌朝、偶然にも見付けてしまったマーガレットの家を訪れた。
「ここが、ミハイルのお母さんが住んでいる…」
アイリスが昨晩眠ってしまった後の経緯を聞かせていたシグリッドは、妻が持つミハイルの手紙に視線を落として頷いた。
「その手紙をポストに落として、ミハイルの家族の姿を確認できたら仕事は終わりだ。アイリス」
アイリスは、ミハイルの手紙を持つ手に力を込めて首を左右に振る。
「ちゃんと、直接マーガレットさんに会ってお渡ししたい」
「アイリス」
「ミハイルの事を、どう思っているのか、マーガレットさんに確認したいの!このままじゃ、私…帰れないわ!」
そう声を上げたアイリスを、シグリッドが言い聞かせようと口を開きかけた所で、家の玄関扉が開いた。
「あなた方ですか?ブノアさんが言っていた、私を探していた人達というのは」
顔色が良いとは言えない、痩せて病弱そうな女性が険しい顔でシグリッド達を見遣る。
アイリスは、真剣な眼差しで見詰め返すと静かに問い掛けた。
「貴女が、マーガレットさん…ですか?」
「ええ、マーガレット・ペーテです」
「ミハイルの事で来ました。少し…お話しできませんか?」
ミハイルの名を聞いたマーガレットは僅かに表情を歪めると、視線を合わせないまま頷き、二人に家の中へ入るようにと促した。シグリッドとアイリスは互いに一度顔を見合わせると、マーガレットの後に続く。
決して広いとは言えない室内。必要最低限の物しか置いていないであろう部屋では、人懐っこそうな一人の少年が玩具を手に遊んでいた。
テーブルへ用意された珈琲を前に、シグリッドとアイリスは、ミハイルからの手紙をマーガレットに差し出し、ここへ来るまでの経緯を話して聞かせた。
「そうですか…わざわざ、この手紙を届けに…」
マーガレットは差し出された手紙に手を着ける事をなく言葉を継いだ。
「ですが、この手紙はお受け取りできません」
「!」
アイリスはマーガレットの答えに驚いて目を見開く。
「どうしてですか?貴女のお子さんからのお手紙ですよ?」
「…」
何も答えないマーガレットが目を閉じると、悔し気に拳を握る妻を一瞥し、シグリッドは静かに口を開いた。
「山賊に襲われた後、ミハイルがどう暮らしていたか、貴女はご存知ですか?貴女と幼い弟を救う為に囮になった彼は、奴隷商人に売り飛ばされ、孤独と恐怖を味わった。今は、港町リジンの孤児院に引き取られて暮らしていますが、ミハイルは自分の事よりも家族の身を案じてこの手紙を俺達に託したんです。以前、貴女方が暮らしていたソウルヘイムの家のポストにも、ミハイルから送られた手紙が山のように届いていた。貴女はそれをご存知ではありませんよね」
「何を仰有られようとも…私に、あの子からの手紙を受け取る資格はありません、どうか、これを持ってお引き取り下さい」
マーガレットは、すっと手紙を突き返すようにテーブルの上を滑らせる。これではミハイルがあまりに不憫だ。そう思ったアイリスは、考えるよりも先に怒声を上げていた。
「ミハイルは十歳です!まだまだ母親に甘えたい年頃なのに、どうしてそんな事が言えるの!?」
「あの子と私はもう親子ではない。この貧しい暮らしをご覧になって、もうお察しでしょう?夫を亡くしてから、病弱な私はまともに働く事も出来ず、二人の子を抱えて生きていく事が出来なくなってしまった。捨てたのです、私は、我が子を捨てたのです…」
「そんな…そんな酷い事!」
「アイリス、よせ」
シグリッドが怒りを募らせる妻を制した所で、マーガレットは控え目に口を開いた。
「山賊に襲われたと、あの子がそう言ったのですか?」
「え?」
シグリッドが怪訝な顔を向けると、マーガレットは相変わらず目を合わせないまま話しを続けた。
「私達が山賊に襲われた事実などありません。私が、奴隷商人に直接話しを持ち掛けたのですから。きっと、あの子も分かっていたのだと思います。貧困から逃れる為に、己の身が売られてしまうのだと。そして、私は、あの子の…ミハイルの優しさに甘えた。ですから、私は、あの子の母親を名乗る資格などないのです」
アイリスが怒りに任せて何か言おうとしたのを遮って、シグリッドはマーガレットを真っ直ぐに見つめ口を開いた。
「致し方のない事情があった事はお察しします。その為に、貴女が自分からミハイルを遠ざけようとしている気持ちも分かりました。ですが、貴女がどう思おうと、ミハイルにとって貴女は紛れもない母親なんですよ。自分の身がどうなろうと、救いたかった家族が貴女達なんです。貴女に少しでも、ミハイルを思う気持ちがまだ残っているなら、手紙を受け取ってやって欲しい。そして、その声に答えてやっては頂けませんか」
言いたいことを全て断言してくれた夫をアイリスが見上げると、シグリッドから言われた事に胸を痛めていたマーガレットは、膝に乗せた拳を固く握り、己の不甲斐なさに唇を噛みしめ涙を溢した。
そんな母親の様子を見た少年ルチオが、シグリッド達を睨むようにして駆け寄って来た。
「ママをいじめるなッ!ママをいじめるヤツはボクが許さないんだからね!」
シグリッドは席を立ち、少年の前で身を屈《かが》めると、優しい瞳を向けて彼の頭を撫でてやった。
「ごめんな、君のママを泣かせるつもりはなかったんだ」
威嚇するように目を吊り上げるルチオに、母マーガレットは涙を拭いつつ口を開いた。
「いいのよ、ルチオ。この人達は悪い人じゃないの。悪いのは、ママなのよ」
「ママ…?」
不安げな顔をしたルチオに微笑んだマーガレットは、テーブルに置かれたままのミハイルの手紙に手を伸ばした。
「あなた方の言う通りです、私は現実から目を背けて来た。ソウルヘイムの家を出たのも、あの日の事を無かった事にしたかったから…。ずっと逃げて、逃げて…そうしてミハイルの事を忘れようと逃げ続けて来た。だけど、それも終わりにします。あの子に辛い思いをさせて来た分、私も、その罪を償わなくてはならない」
そう言って、マーガレットは、手紙の封を切りそっと開いた。薄い紙きれ一枚の文には、お世辞にも綺麗とは言えない字で、こう書かれていた。
―――母ちゃん、元気か?体大事にしなきゃダメだぞ?ルチオには母ちゃんしかいないんだからな。オレは、友達が出来た。うるせーけど毎日楽しい。だから、オレの事は何も心配しなくていいから、母ちゃんは、ルチオのためにいつまでも元気で笑っていて欲しい。約束だぜ?母ちゃん。
ミハイルが伝えたかった短い文章。実の母と弟から離れ、どれほど恐ろしく心細い思いをしてきただろう。それでも強く生きる息子の力強い言葉を見て、マーガレットの瞳からは大粒の涙が溢れた。
ここで、悲痛な顔をしたアイリスは、幾つかの『スパンダワー』が入ったペーパーバッグをマーガレットに差し出した。
「これは、ミハイルからです。貴女と弟さんが甘いものが好きだからと…」
マーガレットは徐にペーパーバッグに手を伸ばし、その中身を一つ取り出して、ルチオに手渡してやった。
「これ食べていいの?ママ、半分こする?」
ルチオは手に持った甘い香りのするパンを一瞥すると、遠慮気味に母親を見上げる。そんな少年の姿を見て、アイリスは、ルチオに柔らかな笑みを浮かべて告げた。
「まだ沢山あるから、一つでも二つでも好きなだけ食べていいのよ?」
「ほんと!?わあ…ありがとう、お姉ちゃん!」
嬉しそうにスパンダワーを頬張るルチオを、マーガレットは優しい瞳で見つめると、彼女は幼い日のミハイルを思い出しながら開口した。
「あの子も…ミハイルも、甘いものが好物でした。よく、アップルパイを焼いてあげていたの。ルチオと二人で、一つのアップルパイを分けて食べて…」
ミハイルの姿をルチオの傍に見たのか、マーガレットは手紙を胸に抱き締め、震える声で許しを乞うた。
「ミハイル…ああ…ミハイル。ごめんね…本当に、ごめんなさい…」
シグリッドは、苦しげに懺悔するマーガレットの姿を見て、優しい声音で続けた。
「ミハイルが望んでいるのは、貴女が罪の意識に苛まれている姿ではなく、貴女が笑顔でいることです。だから、貴女がミハイルに何か償いをしようと思っているなら、それは、顔を上げて堂々と生きる事ではないでしょうか」
涙ながらに何度も頷くマーガレットを前に、シグリッドとアイリスは、これでミハイルの望む結果を迎えられたのだろうかと、憂いた表情で見詰めた。
そうして、マーガレットに手紙を渡し終えた二人が彼女の家を後にしようと玄関を出た所で、見覚えのある人物が姿を現した。
「貴方は…」
シグリッドが呟くように言うと、小さく頭を下げたのは、昨晩、酒場で会ったマーガレットの知人ブノアだった。
「よそ者のアンタ達が危険なヤツらじゃないかと警戒してたんだが、後をつけられてたんじゃ意味がなかったね」
シグリッドからマーガレットの家を当てた経緯を聞いたブノアは、困ったような笑みを浮かべ頭を掻いた。その一方、シグリッドは、マーガレットの身を案じる彼の行動にふとした疑問を抱き、控えめな声音で問い掛ける。
「貴方は、マーガレットさんとはどういったご関係ですか?」
「ああ、友人だよ。いやまあ、本音を言うと、俺はそれ以上に思っている。彼女との結婚をずっと考えているんだ。だけど、マーガレットは頑なにそれを拒む。ルチオと二人で生きると決めたのだと…。きっと、ミハイルに対しての償いのつもりなんだと思うよ」
ミハイルを捨てた己が、別の幸せな人生を歩む事などできない。恐らくマーガレットはそうやって目の前にある幸せをも遠ざけてきたのだろう。彼女の思いも理解しているブノアの表情は憂いたものだった。
シグリッドとアイリスは、彼の想いがマーガレットに届く事を願いながら、この町を後にした。
――――数日後、港町リジンに戻ったシグリッドとアイリスは、依頼人への報告の為、孤児院を訪れていた。
「そっか!母ちゃん、元気にしてたのか!良かった…」
母と弟の無事を願って病まなかったミハイルは、良い報告を聞けて満面の笑みを浮かべる。
安否確認と手紙の配達だけの依頼だった筈なのに、直接マーガレットと顔を突き合わせて話した、などと言葉に出して言えば、ミハイルの事である、反発して怒りを見せるだろうと思ったシグリッドは、彼女に会った事は伏せて話しを続けた。
「お袋さん、弟と二人、仲良くやってるようだったよ」
「仕事が早いって話しは本当だったんだな!ちょっとオッサン達の事、見直したぜ」
「オッサンじゃない、お兄さんだろ?」
半眼でミハイルを見遣ったシグリッドが低い声音で突っ込む。嬉しそうに笑うミハイルの隣でベンチに腰掛けていたアイリスは、何度も手紙を送っていた健気な少年を思えばいたたまれなくなり、突然、彼を強く胸に抱き締めた。
「ミハイル!」
「ぐあーッ!な、なんだよ!離せよッ!谷間押し付けんなよー!」
「憎まれ口ばかり叩いてるけど、でも、ミハイルは優しい子。よーく、分かったわ」
「はあ?!意味わかんねぇ!苦しいから離せよ!うぐーッ!しめるなーッ!」
じたばたと暴れるミハイルを横目に、シグリッドが苦笑いを浮かべていると、シスターのランが、その手に小さな包みを持って歩み寄って来た。
「ミハイル、あなたに届け物よ?差出人が書いていないけど…」
「え?」
そこで漸くアイリスの胸元から解放されたミハイルが不思議そうに目を瞬かせる。
シスターランから小包みを受け取ったミハイルがそれを開けると、中から出て来たのは…
「シナモンのいい香りだな。これは、アップルパイか」
シグリッドがそう言って微笑む隣で、ミハイルはアップルパイと一緒に箱に入っている小さな紙きれに気付いて手に取った。
―――母さんもルチオも、元気にやっています。ミハイルも、体に気を付けて。
母からの直筆の手紙。これまで何度送っても反応の無かった手紙の返事があった事に、ミハイルは、満足そうに笑みを浮かべた。
そんな彼の横顔を見て、シグリッドとアイリスも心底嬉しそうに微笑む。
そこで、ランに着いて来ていた少年リュークと、孤児院の子供達数名がミハイルの持つアップルパイを羨ましそうに見つめる。
リュークは、ミハイルの手元のアップルパイと年齢の小さい子供達を一瞥して口を開いた。
「おい、ミハイル。お前、甘いものダメだったよな?それ、チビどもにやってくれよ」
しかし、ミハイルはアップルパイを守るように隠すと、ふてぶてしい顔で答えた。
「やだね!アップルパイだけは、オレ、食えるんだ!」
「はあ?なんだよ、それ!」
リュークが怪訝な顔をする傍で、幼い子供達が一斉に声を上げる。
「食べたいー!アップルパイ食べたいー!」
「やらねぇって言ってんだろッ!」
子供達から遠ざけるように箱を高く持ち上げたミハイル。そんな彼の様子を見て笑みを浮かべたシグリッドは立ち上がり、子供達に向けて声を上げた。
「アップルパイじゃねぇけど、お前らにもちゃんと土産、持って来てやったぞー?」
「うわー!シグ兄ちゃん!ほんとー?」
ミハイルから拒否され不機嫌だった子供達も、シグリッドの言葉に期待の眼差しを向ける。ここで、アイリスが優しい笑みを浮かべて続けた。
「みんな大好きなメロンパンよ?そろそろマザーがおやつの用意をしてくれてると思うわ」
「わーい!メロンパンだー!」
「やったー!」
喜んで駆け回る子供達の傍らで、ミハイルも手に持った箱に視線を落とし小さく笑みを浮かべる。
少年の届かなかった手紙が、これで漸く母親に届いたのだと、シグリッドとアイリスは互いに顔を見合わせ微笑んだ。