壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第六話 流れ星きらり
ある夏の日の夕刻、港町リジン。
芳ばし工房は店休日とし、シグリッドとアイリスは、パンの差し入れを届けに孤児院を訪れていた。
孤児院の広い庭では、シグリッドが槍術の訓練用にと作ってやった棒を手に、少年リュークが一歩二歩と、間合いを詰めながら攻撃を仕掛ける。
「はあッ!」
「いいぞ!次はコイツを避けてみろ!」
シグリッドはリュークの攻撃を躱しながら、軽く棒先を振って、少年の脛や腕、体へと当てていく。
「いて!いてて!」
シグリッドの動きに着いて行けず、遅れて防御の体勢を取るリュークは、堪らず声を上げた。
「いてぇよ!シグリッド!そんな早いの避けられる訳ねーだろー!」
「何言ってんだ、今のは早い内に入らねぇよ。お前は武器の動きだけを目で追ってるから防御が一歩遅れるんだ。相手の体の動きをよく見ろ、そこから次の一手を読み取って防ぐ」
シグリッドは手を止めて棒を肩に担ぐと、腰に手を当てて告げた。言われた事に難しそうな顔をするリュークが当てられた箇所を擦りながらぼやく。
「そう言われてもさー…」
「今は分からなくても、意識さえ持ってれば徐々に体が分かってくるよ。お前には素質があるからな」
シグリッドが少年の頭をがしがし撫でてやりながらそう言うと、リュークはぱっと表情を明るくさせ、シグリッドを見上げた。
「ほんとか!?シグリッド!オレ、騎士になれるかな!」
「ああ、お前の努力次第でな」
「やったぜー!オレさ、騎士になって、この国の騎士団を根っこから叩き直してやるのが夢なんだッ!王様だけじゃなくて、弱いヤツや困ってるヤツらを守ってやれるように強くなるんだ!ついでに世直しもしてやる!盗賊討伐とか魔物討伐とかな!」
「はは!でっかい夢だな、そういう事なら応援してやらない訳にはいかないな」
かつて、幼い頃に己も同じような夢を見ていたと、シグリッドはリュークの姿を過去の己に重ね、懐かしそうに目を細めた。
「シグリッドは、確か十六の時に騎士団に入団したって言ってたよな?」
「ん、ああ、そうだな」
「後二年で、俺もシグリッドが入団した年になるんだー!いけるかなー俺ー!」
騎士に憧れを抱く少年に、今はノアトーン騎士団での生活を薦める事が出来ないシグリッドは、憂いた瞳で南東の空を見上げた。
「リューク、騎士を目指すよりも前に、まずはお前がその手で守りたいと思うものを定めろ」
「守りたいと思うもの?」
「ああ、それが一つあるだけで、人は強くなれるものなんだよ」
シグリッドがそう言って微笑むと、リュークは己の両手を見詰めて少し考えた。難しい顔で思いを巡らせる少年が唸っていると、そこで、孤児院の幼い子供達が走り回ってはしゃぐ声が聞こえて来た。
「きゃはは!アイリスねーちゃん!どんくさーい!」
「もっとやれー!」
木で作った水鉄砲を手に、数人の子供達が一斉に、逃げ回るアイリスに狙いを定める。
「あーん!もう!あなた達ー!集中攻撃するなんて、ずるいわよー」
アイリスもその手に持った水鉄砲で反撃を試みるも、顔に水をかけられては悲鳴を上げる始末。その度に打ち返す彼女の水鉄砲は明後日の方向に水を飛ばしていた。
きゃーきゃーと子供達と一緒になって騒ぐアイリスの姿を遠巻きに見て、シグリッドは、やれやれと呆れたような、それでいて優しい表情で笑みを浮かべる。
「まったく、アイリスのヤツ、何やってるんだか」
そんなシグリッドの横顔を一瞥したリュークは、幼い子供達と、そして姉と慕うアイリスを見遣りながら、今はまだ若い拳を握り締めた。
守りたいものは近くにある、そう思ったリュークがシグリッドに問い掛ける。
「シグリッドはさ、アイリス姉ちゃんの元から離れたりしねぇよな?」
「うん?何だよ、いきなり」
「ほら、アイリス姉ちゃん、あの通り鈍臭くて、阿呆で、お人好しだろ?騙されてるのわかんないまま、へらへらして人許してるようなタイプだし、放っておいたら悪いヤツに何されるかわかんねぇじゃん?」
「むう…我が妻ながら否定できない」
リュークの言い分に真剣な顔で顎に手を添えたシグリッド。リュークは頭の後ろで手を組むと、にんまりした笑みを浮かべて続けた。
「けど、姉ちゃんがシグリッドと結婚してさ、オレ、すごく安心してんだ。アンタなら、アイリス姉ちゃんの事、絶体に守ってくれるって信じられっから!だから、あの鈍臭ぇ姉ちゃんの事はアンタに任せるッ!オレは、他に守りたいものがあるからな!」
そう言ったリュークの視線の先には、アイリスと幼い子供達の姿があった。
少年の口から力強くも優しい言葉を聞けたシグリッドは、ふっと口許に弧を描く。
「昔から、姉さん想いだよな、お前って」
「はあ?べ、別に、そんなんじゃねぇよ!あのお人好しが危なっかしいから言ってるだけだっつの」
リュークは照れ臭そうに頬を染めると、眉間に皺を寄せて顔を逸らした。
シグリッドは、今一度リュークの頭を軽く叩くように撫でてやると、柔らかな笑みを浮かべて答える。
「心配いらねぇよ、リューク。アイリスは俺が守る。だから、お前はお前の守りたいものを守れるように強くなれ」
シグリッドから、はっきりした答えを聞けたリュークは、にんまりと笑みを浮かべ、拳を高く掲げて見せた。
「よしッ!これで心置きなく騎士になれるぜ、オレッ!」
「もうなれる気でいるのはちょっとばかし早いけどな」
呆れたような顔でシグリッドが笑うと、そこで、こちらへ駆けて来る妻の悲鳴が響いた。
「あ、あなたーッ!助けてー!」
「あー!アイリスねーちゃん!逃げるなー!」
「まてまてー!」
「おいかけろー!」
アイリスを追って、子供達が容赦なく水鉄砲を打ちながら駆けて来る。アイリスはというと、最早反撃する事も忘れて、シグリッドの胸に飛び込んだ。
ずぶ濡れになった妻の肩に触れ、シグリッドは苦笑いを浮かべて彼女と子供達を交互に見遣る。
「おいおい、何やってんだ、お前らー…ってッ!?」
視線を落とした先でシグリッドが、ぎょっと目を見開いたのに気付いていない妻は、ずぶ濡れで体中張り付いた衣服の気持ち悪さに顔を歪める。
「うう…水鉄砲で遊んでいたらこんな事にー…」
「いや、お前は自分の格好がどうなってるのか気付けッ!目の毒だッ!」
「えー…?」
シグリッドが口許に手を当てて顰めっ面をすれば、アイリスは何を怒られているのか分からず目を瞬かせた。
そこで、攻撃の手を止めた子供達がアイリスを見て声を上げて笑う。
「あはは!アイリスねーちゃん、すけすけー!」
「ぶらじゃー見えてるー!」
「おパンツ見えてるー!」
「ええッ!?」
と、ここで漸く、ずぶ濡れになった白のワンピースが透けて下着の色を浮き上がらせていた事に気付いたアイリスは顔を上気させ、悲鳴を上げながらシグリッドの頬を思い切り叩いた。
「きゃあああ!見ないで、えっちーッ!」
「ぶはぁあッ!なんで俺ぇえッ!?」
突如、ビンタを食らって頬を擦るシグリッドの胸に顔を埋め、恥ずかしげに肩を竦めるアイリスの姿。そんな鈍臭い姉同然の彼女を見たリュークは、呆れた様子で呟いた。
「ッたく、みっともねぇなー、アイリス姉ちゃんは…そんなだから心配になるんだよ」
人知れず呟き溜息を吐いた少年の声は、子供達の笑い声の中に溶けていった。
――――「ッたく、夢中になりすぎだろ。風邪ひいちまうぞ」
すっかり陽も沈み、子供達が夕食の準備を手伝い始めた頃。
孤児院二階の一室を借りたアイリスは、ランから借りた洋服に着替えた所だった。
バルコニーに置かれた椅子に腰かけたシグリッドとアイリスは、微かな夜風に当たりながら、他愛ない話しを楽しんでいた。
濡れた髪が、まだ完全には乾いていない妻を見て、シグリッドが大きめのタオルを頭からかけてやると、アイリスは先程の事を思い出して恥ずかしげに項垂れる。
「うう…アイリス、一生の不覚だわ…」
「まあ、お前らしいっちゃ、お前らしいけどな。ほら、ちゃんと髪乾かせよ」
シグリッドは妻の髪を拭いてやろうとタオルの上に優しく両手を伸ばした。
「ふふ…」
「こら、何笑ってんだ」
夫の手の心地好さに頬を染めたアイリスが小さく笑うと、シグリッドは何を呑気にと、半眼を向けて彼女を見詰める。アイリスは首を左右に振って答えた。
「んーん、前にもこんな事があったなーって。シグリッドの大きな手に触れて貰うと、すごく安心するの」
「なに言ってんだか」
「本当よ?あなたの手は、いつも優しく私を包み込んでくれるもの」
僅かに熱を持った頬、アイリスが見上げると、彼も真っ直ぐに見詰めてくる妻から目が離せなくなってしまった。
愛しさで潤む瞳、艶やかな唇が己の近くにあったのでは、シグリッドも欲を煽られるというもの。
これ以上はまずいと、シグリッドは口元に手を当てて視線を逸らした。
「そんな顔で見るな。キス、したくなるだろ」
「して欲しいから見てるの」
アイリスはシグリッドの胸に手を当てて体を寄せると、そっと睫毛を伏せて顎を上げた。
「はあ…参った、降参だよ」
こうなっては気持ちを抑えておけず、シグリッドは静かに顔を近付けると、妻の頬に手を添えて唇を重ねた。何度も角度を変えて重なる唇に、アイリスの甘い息が漏れる度、シグリッドはそれ以上の欲を抑えようと必死だった。
「アイリス、これ以上はまずい、続きは帰ってから…」
「なによ、私とキスするのが嫌だっていうの?」
「いや、場所が場所だから、今はやめておこうって言ってんの」
「まあ、あなたったら、変な事考えてる?」
「この流れで考えない方がおかしいだろ…」
「もう!シグリッドったら、えっちなんだから!」
「健全だと言って欲しいんだが…」
もう!と言いながらも、どこか嬉しそうなアイリスに、シグリッドが苦笑いを浮かべて頭を掻くと、二人は、肩を寄せあって空を見上げた。
「今日は空気が澄んでて、星が綺麗ね」
「ああ、そうだな。街灯のある街中じゃ、こうは見えないが、ここはよく見える」
「あ、そうだわ!流れ星が落ちるかもしれないから、身構えておかないと!」
「はは、用意周到な事で」
じっと真剣に空を見詰めるアイリスの横顔を見て、シグリッドはふっと笑みを浮かべると、妻の肩を抱いて問い掛けた。
「それで?麗しのアイリス嬢は、星に何を願うおつもりかな?」
問い掛けられたアイリスは、決めていました!と言わんばかりに口を開いた。
「子供達に負けないくらい機敏に水鉄砲が撃てるようになりますように!」
「どれだけチビどもにやられた事を根に持ってるんだ、お前は。つーか、そんな願い事でいいのか?もっと他にあるんじゃねぇの?」
半眼で突っ込んだシグリッドに、アイリスは肩を竦めて笑った。
「ふふ、冗談よ!余裕な大人のジョークよ!」
「本気に見えたのは俺だけか」
きっと何分の一かは本気だったのだろうと、ぼそり突っ込んだシグリッドは、その視界に、偶然にも煌めく彗星を見付けて声を上げた。
「お!」
「本当に流れ星が来た!」
同じように見ていたアイリスは祈るように両手を胸元で合わせ目を閉じる。そして、少しの間、何かを願ったアイリスが目を開けると、シグリッドは、にんまりした笑みを浮かべた。
「随分と一生懸命願ったな」
「うん、だって…願わずにはいられないから」
「うん?」
アイリスは、シグリッドに顔を向けると満面の笑みを咲かせる。
「私がお願いする事はいつも決まっているの。考えても、考えても、これ以外に思い浮かばない」
「へえ…どんな願い事だ?」
問い掛けられたアイリスは、膝に置かれたシグリッドの手に己の手を重ねて答えた。
「何があっても、ずっと、シグリッドの傍にいられますように」
それを聞いたシグリッドは目を瞬かせるも、すぐにふっと笑みを浮かべ、重なった妻の手を取って握り返した。
「馬鹿だな、そんな事願わなくたって叶ってるだろ?」
「何があっても!っていう所が大事なの!人生長いんですもの、何があるか分からないじゃない?だから、何が起こったっていいように、そうお願いしてるの!」
真剣な顔でそう言い切る妻に、シグリッドは柔らかな表情で妻の体を抱き締めた。
「何が起こったって、俺はお前の傍にいて、お前を護るとそう決めた。星に願わなくたって、お前の願いは俺が必ず叶えてやるよ」
「シグ…」
アイリスも強くシグリッドに抱き着くと、傍にある温もりに幸せを感じながら睫毛を伏せる。
満天の星空の下、二人の唇は再び重なり、暫く離れる事はなかった。