壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第七話 運命の出会いと決意の日
今を遡る事、六年前。
ノアトーン王国国王アルトの元、騎士団は、まさに『民を守る剣』であった。
国が治める領地は他国と比べ決して多いとは言えず、租税も民からは無理のない程度に受けていた為、国の財政は決して潤っているとは言えない状況だった。
だが、そんな王だからこそ民からの信頼も厚く、そして同時に騎士団も人々から親しまれる存在だった。
しかし、この年、アルト王が病に倒れ、王位は実子に当たる第一王子ブールが継承する事になる。
これが、ノアトーン王国を大きく変化させる始まりとなった。
――――「また、遺跡探索…。最近、多過ぎやしませんか?ペレス団長」
ノアトーン城内。第二槍騎士団の詰め所で、そう言って怪訝な顔を団長ペレスに向けたのは、当時、副団長を務めていたシグリッドだった。
そして、他の団員達も彼同様に次々と声を上げ始める。
「シグリッドに同感。俺達はトレジャーハンターじゃありませんよ」
「遺跡探索なんか、方々に展開してる遺物保護の専門機関、『レリックギルド』に依頼すれば良いものを」
「馬鹿、ただ遺物を探し当てるだけならそれでいいが、俺達はその為に動かされてる訳じゃねぇんだよ」
「は?どういう事?」
「古代遺物、金銀財宝…そういった物を見付けて、独立機関のレリックギルドに売り捌く。俺達がやってるのは、金目当ての遺跡荒らしだ」
「えーッ!そんな事、聞いてねぇしッ!民の為にって言うから俺は!」
「だから馬鹿なんだよ、お前は。民に酷い献上を強いない代わりにやってる事なんだと。まあ、尤も、アルト王が仕切ってた頃に比べれば、その租税も跳ね上がってるんだけどな」
「ブール様が王位を継いでからというもの、こんな事ばかりです。どの国にも属さない領地を攻めるどころか、遺跡荒らしまで…。先日、ブール派の第一槍騎士団は、国境を越えて、南方の遺跡まで赴いたとか…」
この頃、城内の騎士団内部でも、新王ブールの政策に賛同するものをブール派、そして、旧王アルトの信念を曲げぬものをアルト派と呼び、騎士が二分されるようになっていた。
「はあ?それ、軍一個動かして攻め入ってるようなもんだぜ?」
「だから問題なのよ。我が国の騎士団とは分からないように、格好を装って侵入したと聞いているけれど、これでは卑しい盗賊と大差ないわ」
「騎士が鎧を脱いで盗人の真似事か。ノアトーン騎士団も堕落の一途を辿ってんな…」
口々に非難の声を上げる団員達同様に、団長ペレスも険しい表情で口を開いた。
「ああ、このままでは、大きな事態にもなりかねん」
「大きな事態?」
団員の一人がそう問うと、それに厳しい顔付きで答えたのはシグリッドだった。
「例えば、多くの国を巻き込む戦争とか…」
時代の流れによって、古くに国家間で結ばれた不戦協定は、この頃、既に瓦解し始めていた。
その中でも、アルト王によって築かれた平穏な国ノアトーンは、過去の戦火を起こさぬようにと、各国と良好な関係を続けていたのだが、ブールが王の座についてからというもの、まるで、戦の火種を生み出さんとするかのような暴挙が続いている。
先代王が苦労して築き上げてきたものが壊されようとしている現状を重く受け止め、一同は黙ってしまった。
そんな重い空気の中、団長のペレスが相変わらず険しい顔で口を開いた。
「遺跡探索については、ブール様にお考え直し願うよう、団長数名が掛け合っている。床に伏せておられるアルト先代王にも、現状はお伝えしているが…」
病の悪化が著しく、アルトは騎士達に顔を見せる事もなくなっており、必要最低限の謁見しか受けていない状態だった。
シグリッドは、己が騎士を目指した切っ掛けでもある王を心配してペレスに問い掛ける。
「アルト様、お体の加減がよろしくないのですか?」
「ああ…あまり良いとは言えぬ状況だ。そして、今の国の情勢についても、アルト様は気に病んでおられる…。我が騎士団が理不尽な真似をしているのは分かっているが、今は、アルト様より王位を継承されたブール様の方針に従うより他にない」
この場の団員達と同じように、ペレスは悔しげに拳を握り締める。団を纏める者として、上の方針を全面的に否定し反発する事の出来ない立場にも憤りを感じていた。
そんなペレスとは逆に、シグリッドはアルト王が培って来た騎士の誇りを失いたくはないと、ブール派の騎士達と衝突する事が増えていた。
彼が心満たされぬまま職務に当たるのを良しと思わないペレスは、団員達が持ち場へ向けて部屋を出て行った所で、シグリッドを呼び止めた。
「シグリッド」
「はい?」
鎧と籠手を整え、槍を手にしたシグリッドがペレスへと振り返る。
「お前は、暫く休暇らしい休暇も取らずに働き詰めだろ」
「え?いや…ペレス団長に比べれば、まだ休んでる方ですよ。副団長の立場として、当然の事をやっているだけです」
「お前が騎士団にかける情熱は分かっているつもりだ。理想とはかけ離れ始めたこのような団に尽力するのも疑問に思っているだろう」
「それは…」
「最早、我々少数が気張った所で変わるような状況ではない」
ペレスは、彼の肩を優しく叩いて言葉を継いだ。
「数日、休暇を取れシグリッド。故郷におられる祖母にも、暫く顔を見せていないのではないか?」
「ええ、まあ…」
「時に体だけではなく、心を休めるのも必要な事だ」
こうして、ペレスに諭されたシグリッドは、翌日から四日間の休暇を取り、二年ぶりの故郷へと足を伸ばした。
――――故郷である港町リジンに帰って来たシグリッドは、何一つ変わらない町並みの風景を眺めながら、祖母が一人で暮らす実家を目指した。
大通りから少し外れた場所に見えてきた小さなパン屋、芳ばし工房。
そこからパンの包みを抱えて出て行く客と擦れ違い、シグリッドは玄関扉に手をかけた。
「ただいまー、ばあさん、元気にやってるか?」
からん、ころん、とドアベルを鳴らして店内へ入れば、カウンター奥の椅子に腰掛けた老婆が不思議そうに首を傾ける。
「おや、どちらさま?」
「アンタの孫ですが、遂にボケましたか?」
また祖母が悪ふざけをしているなと察したシグリッドが半眼で突っ込むと、老婆は楽しげに笑って見せた。
「あははは!ほんのジョークさね、お帰りシグリッド。その顔を見るのは二年ぶりくらいかのう。ほんに、忘れてしまいそうだよ」
「可愛い孫の顔を忘れたらいよいよだぜ。それで?店の方は順調なのか?」
シグリッドは店内を見回しながら、祖母ジネットに問い掛けた。
「お蔭様でねぇ、年寄りの道楽程度、気儘に商売して楽しませてもらっているよ。アンタの仕送りもあるし、私一人食べていく分には困っていないさね」
「そうかい?そいつは良かった」
店頭に並ぶパンも然程多くはなく、老婆一人無理のない程度に店を回している様子だった。
品数が帰郷の度に少なくなって来ているのを見て、シグリッドは、昔、店が賑わっていた頃を思い出せば、少し寂しい気持ちになった。彼が、ほんの少し感傷に浸っていると、祖母は心配そうな顔で問い掛けて来た。
「それより、アンタの方は大丈夫なのかい?シグリッド」
「え?」
「最近、ノアトーン騎士団の評判が悪いって商人達から聞いてるよ。金ばかりに執着して、民を守るどころか、保護しなきゃならない遺跡まで荒らしてるとか…。シグリッドの事だから、上手くやってるだろうと皆言ってるけど、こればかりは、アンタ一人の問題じゃないからねぇ…」
もう、この町にまでノアトーンの噂が広まっているのかと、内心残念な思いを抱いたシグリッドだが、祖母を心配させないようにと、努めて笑顔で答えた。
「ばあさんが心配するような事は何もないよ、大丈夫さ」
そう答えた後、ふと、店の奥に、三段に箱詰めされたメロンパンが視界に入り、シグリッドはそちらへ歩み寄った。
「ん?このメロンパンは、どこからの注文だ?」
「孤児院だよ。ほら、リジンの外れにあるのを覚えているかい?」
「ああ、マデリア院長の?」
「そう、新しく孤児を引き取ると、こうしてメロンパンを注文してくれるんだ。そうだ、丁度良かった。アンタ、それを孤児院に届けてくれないかい?取りに来てくれるのは、最近いつも女の子だから、一度に運ぶのは難しくて、往復してくれてるんだよ。アンタが運べば一度で済むだろ」
「ああ、そいつは構わないけど…」
と、シグリッドが快く返事をした所で、店の玄関扉がドアベルを鳴らして開いた。
「こんにちは、ジネットおばあ様」
「おや、良いタイミングで来たねぇ、アイリスちゃん、メロンパン、出来てるよ」
店内に入って来たのは、アイリスと呼ばれた女性だった。
アイリスは、ジネットににこやかな笑みを向けると、次いでメロンパンが入った箱を覗き込み、両手を祈るように胸元で握って目を輝かせた。
「ありがとうございます!わー…甘い焼きたての香り…美味しそうー…」
鼻をくすぐる芳ばしい香りに、へらりとした笑みを浮かべたアイリスの口からは、今にも涎が零れ落ちそうで…
「よだれ、よだれ出てますよ、お嬢さん」
「ッ!」
苦笑いを浮かべたシグリッドに突っ込まれて、アイリスは我に返ると顔を上気させた。
「わ、私ったら…あんまり美味しそうだから、つい、このメロンパンを食べる想像を働いて…ごめんなさい!」
「いや、謝らなくても…」
何度も頭を下げるアイリスに、シグリッドは困ったように眉を下げて頭を掻いた。
未だメロンパンを見て涎を零しそうになっている彼女を前に、こうも思っていることがはっきりとした形で態度に現れるなど、自分の感情に正直な娘なのだろうと、シグリッドは半ば感心したように彼女を見遣る。
その一方、アイリスはといえば、メロンパンを一度頭から消すと、見掛けない顔の彼が客だと思い、肩を竦めて問い掛けた。
「あ、あの、お客様ですか?おばあ様、私の方は後で構いませんので、こちらのお客様のご用件をお先にどうぞ」
「あー…いや、俺は客じゃないから、気を遣わないで下さい」
「え?じゃあ、ひょっとして、売り子さんを雇われたの?」
アイリスが目を瞬かせてそう言うと、ジネットは、けらけらと笑いながら答えた。
「やだねぇ、アイリスちゃん、売り子を雇うなら、こんな筋肉質の可愛げがない男じゃなくて、アンタみたいな可憐な女の子を雇うよ!」
「悪かったな、可愛げがなくて」
不貞腐れた顔のシグリッドが祖母に突っ込みを入れるや否や、アイリスは手を添えた頬を染めると、どこか嬉しそうに声を上げた。
「やだわ、ジネットおばあ様ったら、聡明で才色兼備で可憐な女の子だなんて…言い過ぎです!」
「うん、それは本当に言い過ぎたよね」
初対面ながら、これにも突っ込みを入れずにはいられないシグリッドが呟くように言うも、聞いているのかいないのか、アイリスの問いは続く。
「では、売り子さんじゃなければ、業者さん?」
「いや、俺は…」
シグリッドが答えるよりも早く、ジネットが、にこやかな表情で答えた。
「この子は私の孫のシグリッドだよ」
「まあ!あなたがジネットおばあ様のお孫さん!?は、初めまして!アイリスと申します!ジネットおばあ様には、日頃からお世話になっております!」
彼がジネットの家族だと知ったアイリスは、粗相をしてしまったかと恥ずかし気に頭を下げた。そんな彼女を見て、いたたまれなくなったシグリッドは、気にしてはいないと首を左右に振ってから答える。
「い、いやいや、こちらこそ、耄碌したばあさんが、世話になってます」
「まだ耄碌しちゃいないよ、まったく本当に可愛げのない孫だよ!それにしても、同じリジンにいながら、二人とも会った事がなかったのかねぇ」
ジネットに言われ、シグリッドとアイリスは今一度顔を見合わせた。
記憶を辿りながら顔を合わせる二人は見つめ合う形になってしまい、それに同時に気付くと、互いに頬を染めて顔を逸らし、取り繕うように口を開いた。
「は、初めまして…です」
「ああ…そうだな」
そんな若い二人の姿を微笑ましく見遣るジネットは、レジスターのあるカウンター上に置いていた紙袋に視線を向けて口を開いた。
「アイリスちゃんや、メロンパンは孤児院までシグリッドに運ばせるから、今日はこの林檎も持ってお帰り」
紙袋の中には両手で抱えるほど沢山の林檎が詰められており、アイリスは嬉しそうに声を上げた。
「え!こんなに沢山、いいんですか?」
「ああ、こないだ、アーセナル農園のジイサンが豊作だからって、箱一杯に届けてくれたんだよ。マデリア院長も、マザーソーニャも、子供達も、皆、林檎が好きだろう?たんと召し上がれ」
「ありがとうございます!」
アイリスは子供達の喜ぶ顔を想像してか、満面の笑みを浮かべて袋に入った林檎を抱えた。そんな彼女の素直な表情を見て、シグリッドがふっと笑みを浮かべると、次いでジネットは孫に少し意地の悪い笑みを向けた。
「じゃあ、シグリッド、頼んだよ?くれぐれも、アイリスちゃんに妙な気を起こさないようにねぇ」
メロンパンの箱を一度に抱えた孫に、ジネットが釘を刺すように言えば、シグリッドは呆れたような顔で溜め息を吐いた。
「何の心配してんだか、ッたく…」
「ふふ!」
そんな祖母と孫のやり取りを見て、アイリスはどこか羨ましそうに笑って肩を竦めた。
そして、出る直前までジネットから冷やかしを受けたシグリッドは、アイリスと共に孤児院を目指して、芳ばし工房を後にする。
「すみません、遠いのに大きな荷物を全部お任せしてしまって」
「いやいや、このくらいお安いご用ですよ。それに、マデリア院長にも久しぶりに会っておきたいと思ってた所だから」
孤児院へ向かう道中、軽々とメロンパンの箱を運んでくれるシグリッドを頼もしく思いながら、礼を告げたアイリスの頬は僅かに染まっていた。
「あの…シグリッドさんは、ノアトーンの騎士団にいらっしゃるんですよね?」
「え?」
「ジネットおばあ様が、いつも貴方のお話しをして下さるんです。お孫さんが、功績を上げたとか、副団長に昇格したとか、遠征に行けば珍しいお土産物を贈ってくれるとか、ふふ…とても楽しくお話しするから、どんな人なんだろうって思ってました」
祖母の事である、余計な事も話しているのではと、シグリッドは苦笑いを浮かべた。
「はは、どうせ、ろくな話しもしてないんじゃない?」
そんな彼の問い掛けに、アイリスは否定するように、首を大きく左右に振って答える。
「そんな事ありません!寒がりで、真冬に手袋とソックスを穿いてベッドにもぐっていた事とか、猫舌で熱いものが食べられず噴き出しちゃうとか!そんな楽しいお話しもして下さいました!」
「やっぱり、ろくな話ししてねぇじゃねーか…」
分かってはいた、と、シグリッドは半眼で一人ごちた。そんなシグリッドのやさぐれた表情とは逆に、アイリスはにこやかな表情を浮かべていた。
「おばあ様からお話しを聞く度に、お二人は本当に仲が良いんだなーって、羨ましく思ってたんです。孤児だった私には、そんな家族はもういませんから…」
「…」
彼女が孤児であった事をここで知ったシグリッドは、なんと声をかけて良いか迷いながらも控えめに問いかけた。
「アイリスさんは、いつからリジンに?」
「はい、六歳の頃からです。それまでは、南西にあった村の村長さんの元で暮らしていました」
「南西の村…確か、ルバノフ村と言ったか…」
賊に襲撃され崩壊した村の事だった。
家屋は焼き払われ、男は殺され、女子供は身売りさせられたと聞いている。その中の一人が彼女だったのかと、シグリッドは悲痛な思いで眉を下げた。そんな彼の胸の内とは逆に、アイリスはというと、至って声音は明るいものだった。
「ご存知かと思いますが、村が無くなってしまい色々あって…最終的には、リジンの孤児院に引き取られました。優しく私を迎えてくれたマデリア院長先生とマザーソーニャには、とても感謝しています。私に、素敵な家族を作って下さったから」
「そっか…」
恐らく、己が推し量れないような辛い経験をして来た筈の彼女。
だが、そんな様子は微塵も感じさせない、柔らかな笑みを浮かべるアイリスを見て、シグリッドも自然と口許に弧を描いていた。
そこで、シグリッドと顔を見合わせたアイリスは、はっと目を見開き、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!初めましてなのに、こんな汁っぽい話をしてしまって!」
「いや、湿っぽいの間違いじゃないかな…」
またも突っ込みを入れるしかない彼女の発言に苦笑いを浮かべたシグリッドだが、アイリスは相変わらず笑みを浮かべるだけだった。
他愛ない話しをしながら大通りを抜け、暫《しばら》く川沿いの遊歩道を歩くと、そこで町外れの孤児院が見えて来る。
院内の庭で遊んでいた子供達は、通りの向こうにアイリスの姿を見付けると、大きく手を振って声を上げた。
「アイリスねーちゃーん!」
「おかえりなさーい!」
「お腹ペコペコだよー!」
程なく、子供達の元へと着いたアイリスは、彼らに囲まれて笑みを浮かべた。
「ふふ!皆、ただいま!メロンパン、今日はこちらのお兄さんが運んで下さったわよ」
アイリスが、己の隣に立った青年を見上げて子供たちに紹介すると、少し遅れて駆けて来た一人の少年が声を上げた。
「あれー?シグリッドじゃん!」
「おお、リューク!元気そうだな」
七歳の少年リュークが頭の後ろで手を組み、にんまりした笑みを浮かべると、シグリッドも懐かしそうに目を細めて答える。そんな二人の間で、アイリスは、少年を叱ろうと口を開いた。
「こら!リューク!なんて口の聞き方するのよ!…って、貴方、シグリッドさんをご存知なの?」
「おう!おつかい、いつも院長先生に着いて行ってたのオレだろ?ジネットばあちゃんの所に通った回数は、アイリス姉ちゃんより、オレの方が上だぜ!だーかーらー、シグリッドとも、たまーに会うと遊んでやってた仲なの」
「遊んでやってたのはこっちだろ。相変わらず偉そうなチビだこと」
「へへ!今はチビでも、そのうちシグリッドの背も追い越すからな!」
「はは、そいつは楽しみだ」
二人がそんな話しをしていると、院内から出て来た黒い神父服の人物がシグリッドの姿を見つけて歩み寄って来た。
「おや?シグリッド?」
「マデリア院長!ご無沙汰してます」
シグリッドが軽く頭を下げると、院長のマデリアは優しく微笑み、彼の肩を軽く叩いた。
「久しぶりだね、元気そうで何よりだよ。休暇でリジンに?」
「はい、四日程休暇が貰えたので、こっちに」
「そうか、ジネットさんも喜んでいるだろう」
院長とも顔見知りなのだと、意外そうにシグリッドを一瞥したアイリスは、抱えた袋をマデリアに見せながら口を開いた。
「院長先生、注文していたメロンパンをシグリッドさんがここまで運んで下さったんです。それに、これ、ジネットおばあ様が沢山、林檎を下さいました!」
「わーい!デザートは林檎だー!」
子供達が嬉しそうにはしゃぐ姿を微笑ましく見遣りながら、マデリアは良い事を思い付いたと、シグリッドへ視線を向けた。
「そうだ、シグリッドも、今日は一緒に食事をしていかないかね?ジネットさんも呼んで、皆で」
それは名案だと、アイリスもシグリッドへ向き直り微笑んだ。
「そうだわ!是非そうして下さい、シグリッドさん」
「ああ、ありがとう、じゃあ、ばあさんを連れて後でお邪魔します」
「はい!お待ちしてます!」
と、ここで、僅か頬を染めるアイリスを見逃さなかったリュークが、囃し立てるように口を開いた。
「アイリス姉ちゃん、嬉しそうじゃん?ひょっとして、シグリッドの事ー…」
「な、何を言ってるの、リューク!大人をからかうものじゃありません!」
「あはは!顔、真っ赤ー!」
「もうッ!リューク!」
からかって院長の陰に隠れるリュークを、上気した顔で追いかけるアイリス。
そんな二人の姿を見て楽し気に笑ったシグリッドは、どれくらいぶりに自然と笑えただろうかと、騎士団での生活を顧みて憂いた表情を浮かべた。
これが、後に結ばれる、シグリッドとアイリスが初めて出会った運命の日の出来事だった。
――――出逢いの日から後も、ノアトーン騎士団の横行が続く中、シグリッドの反発は次第に増し、ブール派の上層部からも目をつけられるようになった。
このままでは、騎士団追放もされ兼ねない、今、彼をこの騎士団から失う訳にはいかないと、団長ペレスは月に数度、休暇を取るようシグリッドに命じ、上層部とのいざこざを避けて来た。
そんなペレスの計らいを知っていたシグリッドは、ブール派の騎士達のやり方に憤りを覚えつつも、心落ち着ける場所を求めて帰郷を繰り返すこと一年。
その日々の中で、シグリッドとアイリス、若い二人は、この頃から互いを異性として意識し始めていた。
「こんにちは、ジネットおばあ様」
「おや、アイリスちゃん、いらっしゃい」
シグリッドとアイリスは手紙のやり取りを始めており、今日は、彼が休暇を取って戻って来る日だと知っていたアイリスは、何週間ぶりかに会えることを楽しみに芳ばし工房を訪れていた。
相手の事をもっとよく知りたい。そんな気持ちをお互いに持っていたが、口に出して言える筈もなく、想いだけを募らせていた二人は、シグリッドがリジンに帰郷する度に逢瀬を繰り返していた。
「シグリッドなら、裏の馬小屋にいるよ。今日はアイリスちゃんと遠出するんだって、張り切ってたねえ」
「まあ…ふふ!」
ジネットとアイリスが店先で笑いあっていると、玄関扉を開いたシグリッドが呆れたような顔で現れた。
「遠出で張り切るって…遠足行くガキじゃねぇんだから、妙な言い方するなよな、ばあさん」
本当の事だろうにと、ジネットが笑いながら言い返すと、また少し逞しくなったような気がするシグリッドの姿を見て、僅か頬を染めたアイリスが微笑む。
「シグリッドさん!おはようございます」
「うん、おはよう、アイリスさん」
彼女の笑顔につられるように、今のノアトーン騎士団では見せないような笑顔をシグリッドも自然と出していた。
一方、アイリスは、手に持ったランチバスケットを少し持ち上げながら、突然真剣な顔付きで告げる。
「シグリッドさん!私も、昨日の夜から下拵えをして、張り切ってお弁当を作って来ました!スポーツマンシップに乗っ取って!」
「はは、スポーツマンシップって言うのかな、そういうの。それじゃ、行こうか」
「はい!」
相変わらず、真面目に面白いことを言ってのける不思議の国のアイリスにも、すっかり慣れてしまったのか、シグリッドは軽く突っ込みを入れつつ笑う。そんなやり取りを微笑ましく見遣り、ジネットは揃って出て行く二人に声をかけた。
「アイリスちゃん、うちの孫をよろしく頼んだよ?シグリッドや、遠出するのは良いけど、魔物の徘徊も増えて来てるんだ、嫁入り前の若い娘さんを怪我させるような真似はしないようにねぇ」
「分かってるよ、いつまでもガキ扱いするなっての」
祖母の言い種にやれやれと肩を竦めたシグリッドが困ったような笑みを浮かべて踵を返すと、アイリスは小さく笑ってジネットに手を振り、彼の後に続いた。
普段、芳ばし工房の荷運びに使われる祖母の愛馬を借り、シグリッドとアイリスは新緑の草原を駆け抜けた。
背に彼の温もりを感じる程、これまでで一番体を接近させたアイリスは、乗馬中、その胸の高鳴りを押さえるのに必死だった。
そして、一時間程馬を走らせた所で、二人は小高い丘上へ到着すると、草原に足を着けた。
「わあ…素敵な場所!私、こんなに海を遠くまで見渡したのは初めてかもしれない。リジンの町もあんなに小さいわ」
視界一面に広がる草原と森の木々、ゆっくり流れる雲と水平線、そして、遠くに見える己の暮らす港町。アイリスは見たことのない景色を前に感嘆の声を漏らした。
魔物がどこに潜んでいるかも分からないこの世界では、武術の嗜みのない者が馬を走らせて出かけるなど容易ではない。その為、そういった者が、このように眺望を楽しむなど、普段の暮らしの中では珍しい事で、毎日同じ風景の中、孤児院で子供たちの世話に勤しむアイリスも例外ではなかった。
感激して、じっくりと周囲を見回すアイリスの隣に立ち、シグリッドは馬の首を撫でてやりながら景色に視線を移すと、久しぶりに見る変わらない風景に目を細めて口を開いた。
「喜んで貰えて良かったよ。ここはガキの頃に親父が教えてくれた場所でね、疲れた時にはここへ来て景色を眺めると、不思議と心が落ち着くんだ」
「まあ、お父様との想い出の場所に、私なんかが立ち入っていいのかしら…」
彼の聖域を侵してしまったような気持ちになり、アイリスは少しの罪悪感を覚えて眉を下げた。そんな、彼女の横顔を一瞥したシグリッドは、柔らかな笑みを浮かべて首を左右に振って答えた。
「アイリスさんだから良いんだよ」
「え?」
どういう意味かと僅かに首を傾けたアイリスがシグリッドに顔を向けると、彼は慌てて取り繕うように話を逸らした。
「あー、いや…そ、それより、少し、この辺を散策しないかい?ちょっと歩いた先に、今の季節しか咲かない花が一面広がってる場所があるんだ、そこも絶景だよ」
「本当ですか!是非、行きたいです!」
期待の眼差しで見上げるアイリスに微笑み、木陰に馬を繋いで休ませたシグリッドは、背に簡単な緊急用具などが入った革鞄を背負い、片手に己が愛用している槍、そして反対側の手に彼女の持参してきたランチバスケットを受け取り、木々の立ち並ぶ森へと向かった。
「足元、気を付けて、ここは湿気が多いから、いつも地面がぬかるんでる」
一歩前を歩いてくれるシグリッドの後に続いていたアイリスは、注意を受けた直後、見えにくい岩肌に足を滑らせて体を傾けてしまった。
「きゃ…」
「おっと!」
槍を放って咄嗟に手を伸ばし、彼女が倒れる前にその体を支えてやったシグリッド。肩を寄せられる形になってしまったアイリスは頬を染めて俯いた。
「ご、ごめんなさい!危ないって言われていたのに…」
「いや、謝らなくていいよ、それより足を挫いたりはしてないか?」
「はい…」
「良かった」
安堵して細く息を吐いたシグリッドの顔がこんなにも間近にある。それを意識したアイリスは、余計に熱を持った頬を軽く両手で叩き、彼から少し体を離して肩を竦めた。
「あの…シグリッドさん…」
「うん?」
控えめに問い掛けられたシグリッドは、落ちた槍を拾い上げながら、やはりどこか怪我をさせてしまったかと、不安げに彼女の言葉の続きを待った。
「シグリッドさんは…今…」
「え?」
「今…い、いま…」
「いま?」
今、お付き合いしている女性はいらっしゃるのですか?たったそれだけの言葉が素直に出てこないアイリスは、自分の意とは反して、別の質問を投げかけていた。
「いま…い、イマジクラットワインはお好きですか!?」
このタイミングで何を言い出したのかと目を瞬かせたシグリッドだったが、これが彼女の面白い所だと小さく笑い、とりあえずは怪我もなさそうな様子を見て答えた。
「イマジクラットワイン?ああ、酒はそれなりに飲めるし嫌いじゃないけど、それはちょっとクセがあるから好んでは飲まないかな。イマジクラットワインなんて、珍しい名前のワインを知ってるんだな、アイリスさんは好きなの?」
「いえ、あの…私は、お酒は得意じゃなくて…」
「うん?そうなんだ」
「そういう事を聞きたいんじゃなくて…その…」
「え?」
「うふふ…な、何でもないです」
結局言いたい事は言えず終い。笑ってその場を誤魔化したアイリスが、人知れず肩を落とした後も、二人は、他愛ない話しをしつつ森の中を進んだ。
そして、程なくして、並んで歩くシグリッドが木々のトンネルの先に光の差す場所を見つけて指を差した。
「お、見えて来た。あそこだよ」
「!」
二人が森を抜けると、それは眼前を白に染めた。
「まあ、真っ白な花が一面に!」
風に揺れる白い可憐な花。
それが辺り一面を覆う様はまさに絶景で、アイリスは無意識に胸元で両手を合わせ目を瞬かせていた。
シグリッドも、久しぶりに見るその景色を前に柔らかな笑みを浮かべると、その場に腰を落として花弁にそっと触れた。
「春に咲く花で、アネモネっていうらしい。俺も花には詳しくないんだが、一輪ばあさんに摘んで帰った事があって、その時に教えて貰ったんだ。他にも数種、色があるみたいだけど、何故かこのエリア一面、初めて来た時から白一色で覆いつくされてたんだよな。手入れをしている人の影は、俺がここに来るようになってから一度も見たことないんだけど、毎年ちゃんとこうやって花を咲かせてる」
「そうなんですか…アネモネ…とても綺麗なお花ですね…」
穢れのない純白の花弁。アイリスも彼を真似るように、その場に腰を落とすと指先で花弁に触れてみる。
ふと、シグリッドを見上げると、どこか憂いのある瞳で花を見詰める彼の横顔から視線を外せなくなり、また頬を僅かに染めたアイリスは、次こそは己の言いたかった事を告げようと胸に決めた。
圧巻の景色を楽しんだ後、暫く周辺の散策を楽しんだ二人は、アネモネの花畑が眺められる場所に腰を下ろし、アイリスの作って来たランチを食べながら、とりとめのない話にも花を咲かせた。
「うん、美味いッ!やっぱ、女の子の手料理っていいな」
「お口に合うか心配だったんですけど…良かった」
彼女がスポーツマンシップに乗っ取って彩りよく詰めたランチボックス。おかずを美味しそうに頬張ってくれるシグリッドの姿を見て安心したアイリスが胸を撫で下ろすと、ここでシグリッドは、背負って来た革鞄の中から小さなペーパーバッグに入った何かを取り出し、アイリスへと差し出した。
「ランチのお返しと言えるものになるかどうかは分からないけど、これ、良かったら」
「?」
アイリスはバッグを受け取ると、まさかお返しが貰えるなど思ってもおらず、嬉しそうに表情を綻ばせ中身を取り出した。それは、アイリスの両手に収まるくらいの大きさをした、帯を結んだような形のパンだった。
「まあ、可愛い形のパンですね」
「クノーテンって言うんだ。昨日、久々にばあさんの工房を借りて作ってみたんだよ」
「え?シグリッドさんも、パン作りをなさるの?」
騎士団の副団長をしている武闘派の彼が、料理も得意だとは意外な一面を垣間見たようで、アイリスは目を瞬かせた。
「あー…ガキの頃は、よく手伝わされてたから。騎士団に入団してからは、そういう事も無くなっちまったけどね。たまには懐かしい事をやってみるのもいいものだな」
そう言いながら照れ臭そうに頭を掻いたシグリッド。
彼が、アイリスと会う今日の日にクノーテンを作ったのには理由があった。
クノーテンとは異国の言葉で『結び目』の意味を持つ。そのパンを作る事で、彼女との縁が切れずにいるようにと願っての事だったのだ。
しかし、そんな意味があるとも知らず、アイリスはシグリッドの作ったパンを満足そうに食べていった。
「んー!美味しい!中に練り込まれてるレーズンが程好い酸味と甘味を加えてて、とても食べやすいです!」
「そっか、良かった」
「シグリッドさん、今度、私にもパン作りを教えて下さらない?」
「うん?ああ、それは構わないけど」
「約束ですよ?」
そう言って、アイリスは小指を差し出した。シグリッドは満面の笑みを浮かべた彼女の細い小指を見て口許に弧を描けば、そっと己の小指を絡ませる。
「ああ、約束だ」
互いに微笑みあった所で、無意識だったとはいえ、つい触れるような事をしてしまったと顔を赤くさせたアイリスが咄嗟に指を離して肩を竦めると、シグリッドは何かを決めたような顔で口を開いた。
「アイリスさん」
「は、はい?」
「君に聞きたい事があるんだ」
「えっと、な、何でしょう…?」
シグリッドが改まって言うもので、アイリスは、己が何かおかしな事でもやってしまったかと、恐る恐る彼を見上げた。
「アイリスさんは、今、付き合ってる人は、いるのかな」
「付き合ってる…人?」
「そう、恋人」
恋人など、己の身の上では聞きなれない言葉に、何を聞かれたのか理解が出来ずにいたアイリスは、もしや、それは己が先程からシグリッドに問い掛けたかった言葉と同じものではと、漸く追い付いて来た思考に意味を理解して声を上げた。
「こ、恋人ッ!?い、いません、いませんッ!そんな人ッ!」
「本当に?君みたいな魅力的な子なら、男が放っておかないと思ったんだけど、いないのか…良かった」
「え?」
どこか安堵した顔のシグリッドを見て、アイリスは胸を高鳴らせた。そして、真っ直ぐに見詰めて来るシグリッドのその瞳から、彼女も目を逸らせなくなってしまう。
「こんな事を言って、君を困らせるだけかもしれないけど、俺、君の事を…アイリスさんの事をもっと良く知りたいと思ってる」
「…」
微かな風が擽るようにシグリッドとアイリスの前髪を揺らす。情熱的なシグリッドの瞳を受けて、アイリスの胸の鼓動は煩くなるばかりだった。
「良かったら、俺と付き合って貰えないか。俺は騎士団に詰めてるから、そう頻繁には会えないけど、こうして君との時間をこれからも重ねて行きたい。そして、俺の事をもっと知って欲しいし、君の事ももっと教えて欲しい」
「シグリッドさん…」
アイリスは突然の事に頭の中を整理出来ずにいた。
付き合って貰えないか、などという言葉を意中の男性から聞いたのは初めてで、生まれて初めての経験に困惑していた。
「そ、それは…あの…つまり…えーと…」
俯いたアイリスが動揺して目をさ迷わせていると、シグリッドは小さく吹き出して続けた。
「恋人になって欲しいっていう意味だよ」
「ッ!」
追い打ちをかけるように、今度ははっきりと告げられた言葉。
アイリスは半ば放心状態で、両想いだとは露とも思っていないシグリッドは、彼女の様子から真意を分かりかねていた。
「あー…嫌なら気を遣わずに断って欲しい。無理強いをするつもりはないから、俺の勝手な気持ちを君に押し付ける事はできないし…」
「あわわわわわ、わた、わたし…ッ!」
と、ここでアイリスが一際大きな声を上げると、それに驚いたシグリッドは、思わず素頓狂な声を上げた。
「へ?」
「私もッ!私も…あの…そう、思っていました…」
このチャンスを逃したら、一生後悔する。アイリスは己の中に湧いた羞恥に構っている暇などないと、今にも泣き出しそうな顔を上げ、真っ直ぐにシグリッドを見詰めた。
「シグリッドさんの事、もっと良く知りたい…」
彼女の口から望んでいた答えが聞けたシグリッドは、今日、何度目かの安堵をし、ふっと笑みを浮かべる。
「本当に?」
「は、はいッ!」
「オッケーだって受け取るぞ?」
「願ったり叶ったりでございます!」
そう言って何度も首を縦に振るアイリスの顔は真剣そのもので、それが嘘を吐いているようにも、世辞やその場限りの取り繕いにも見えなかったシグリッドは満足そうに微笑んだ。
「はは、思いきって告げて良かった」
こうして、シグリッドとアイリスは、この日を境に恋仲となり、度々、逢瀬を繰り返すようになったのである。
そして、二人が恋仲になって一年半が経過する頃。
ノアトーン騎士団は、アルト派の騎士が辞職して数を減らす中、ブール派の騎士が着実に数を増やしていた。
徐々に団員が減っていく為に、シグリッドも休暇を取れる状態では無くなり、リジンの町へ戻る回数も月に一度あるかないかという現状になってしまった。
それでも、シグリッドとアイリスは、会えば会う程に、互いを知れば知る程に惹かれ、ゆっくりと愛を育んでいた。
しかし、二人が恋仲になって二年。
愛せば愛す程、シグリッドに会えない日々を辛いと感じるようになったアイリスは、良からぬ不安を抱くようにもなっていた。
「アイリスちゃん、すまないねぇ…迷惑をかけて…」
「そんな、謝らないで下さい、ジネットおばあ様。迷惑だなんて少しも思っていませんから。私も孤児院の子供達も、皆、おばあ様には沢山お世話になっているんです、このくらいの事では、なんの恩返しにもならないくらい」
初夏のある日、今夜は土砂降りの雨で、生憎の天気だった。
この頃、シグリッドの祖母ジネットは、持病が悪化し床に臥せる事が多くなり、アイリスはシグリッドに代わってジネットの介抱に日々通っていた。
「ただいまッ!」
裏口から聞き慣れた声が聞こえ、アイリスは表情を綻ばせた。このような悪天候では帰郷するのは無理だろうと、シグリッドが帰って来るのを半ば諦めていたベッド上の祖母も、孫の声を聞いて安堵の笑みを浮かべる。
「おや、あの子、帰ってきたようだね」
「はい!きっと雨で濡れているだろうから、タオルを準備して来ます」
アイリスは、一月ぶりに会う恋人を出迎えに、タオルを手に取って裏口へと駆けた。
「シグリッド、お帰りなさ…い…」
慕って病まない相手の胸へと飛び込みたい。そう思っていたアイリスの目には、彼と、そして見覚えのない女性の姿が映った。
「こんな日和に、わざわざ見舞いなんて、悪いなフローリカ」
「いいえ、シグリッドのお祖母様にはお世話になったのだから、当然の事よ」
シグリッドは、既に手にしていたタオルを、フローリカと呼んだ女性に手渡してやった所だった。
親しげな様子で会話する二人を見たアイリスは、何となく声を発する事が出来ず、その場に立ち尽くしていたのだが、彼女の姿に気付いたシグリッドは、纏った撥水のローブを脱ぎながら笑みを浮かべた。
「アイリス!ただいま!来てくれてたのか。ばあさんの具合はどうだ?」
「ええ…今は落ち着いているわ」
アイリスが控え目な声音で答えると、シグリッドは、ほっと胸を撫で下ろした。
「そっか…良かった」
「あの…そちらは…」
必要無くなったタオルを傍の棚へそっと置くと、シグリッドの元へ歩み寄ったアイリスは、言い出し難そうに問いかけ、フローリカに目を向けた。
ここで、シグリッドは、アイリスと彼女が初対面だった事に気付き、隣に立つ美しい女性について紹介を始めた。
「ああ、彼女はフローリカ。騎士団で一緒に仕事をしている同僚だよ。フローリカ、彼女がアイリスだ」
フローリカは濡れた髪を拭いながらアイリスに微笑むと、軽く頭を下げてから続けた。
「初めまして、フローリカです。貴女の事は、シグリッドからよくお話しを聞いておりますわ」
「は、初めまして…」
男所帯の中でも同等に力を奮える女騎士。女性から見ても凛とした美しさを持つフローリカを前にして、己には何一つ勝てる所など無いと、アイリスは恥ずかし気に肩を竦めて会釈した。
彼女がそんな劣等感を湧かせているなど露知らず、シグリッドは、どこか申し訳なさそうな表情でアイリスに目を向ける。
「こうして俺の代わりに、ばあさんの面倒まで見てくれてる出来た女だ、俺には勿体無いくらいだよ」
それを聞いたフローリカは、何か思い出したのか眉間に僅か皺を刻み、呆れたように答えた。
「本当、人の手料理を吹き出すような、失礼な人には勿体無いくらい健気な女性だわ」
「うぐ…まだ根に持ってるのかよ、お前」
「あら、あの事、私一生忘れないから。死んでもあの世で言ってやるわ」
「あー、怖い怖い。しつこい女はもてねぇぞ」
「大きなお世話よ」
互いに負けじと言い合う二人の姿を前にして、アイリスは、ふと何かに気付いて眉を下げる。
彼との付き合いを重ねる内、少し知り得たシグリッドの元恋人の話しを思い出したアイリスは、このフローリカこそがその女性なのだと察してしまった。
沸々と湧き上がる嫉妬に囚われ、不安げな視線を向けるアイリスに気付く事なく、シグリッドとフローリカは話しを続けた。
「ペレス団長も言っていたように、お加減の良くないお祖母様の為にも、二、三日は傍にいて差し上げなさいね」
「ああ…出来るだけ早めに戻る」
「無理はするんじゃないわよ?貴方の、たった一人の家族なんだから」
取り繕うでもなく自然体でいられる関係。口喧嘩さえも楽し気に見えた二人を目の当たりにし、己といるよりも余程恋人らしいと思えたアイリスの心には、最早、焦燥と嫉妬しかなかった。
会いたい想いを胸に押し込める日々を送る己と比べてどうだろうか。
二人は騎士団内部で毎日のように顔を合わせ、誰よりも近くにいる。職務以外にも他愛ない時間を共に過ごすこともあるだろう。そんな日常の中で二人が微笑みあう姿を想像すれば、アイリスの胸はざわつくばかりだった。
――――その後、旧知の仲であるフローリカと久々の対面を果たしたジネットは、シグリッドを交えて暫し会話を楽しんだ。
己が居ては気を遣わせるだろうと、アイリスは静かに席を立ち、彼らの団欒を邪魔しないよう隣のリビングで終わるのを待っていた。
暫くの後、喋り疲れて眠ったジネットを残し、シグリッドとフローリカは部屋から出ると、街で一泊しようと帰り支度をするフローリカを、シグリッドが止めた。
「遠い所から来て貰ってんのに、このまま土砂降りの中を帰らせるわけにはいかねぇよ。部屋は空いてるから、泊まっていけばいいだろ」
「気持ちだけ、ありがたく受け取るわ。早朝ノアトーンへ向けて発つから、おばあ様を起こしてはいけないし、それに…」
そう言いながら撥水ローブを羽織り、フローリカは立ち尽くしたアイリスを一瞥すると、身を屈めてブーツの紐を締めた。
「彼女をあまり待たせない方が良いんじゃない?」
「え?あ、ああ…悪いな気を遣わせちまって」
ここで、シグリッドはアイリスに目をやると、どこか不安そうな顔で己を見詰める彼女に気付き眉を潜める。
そして、降りしきる雨の中、裏庭から馬に跨り去って行くフローリカを見送ったシグリッドとアイリスは、いつもと違い、何となく居心地の悪い雰囲気の中、黙ったままその場に留まった。
庇の下で、やけに大きく響く雨音を聞いていたシグリッドは、気を取り直してアイリスに視線を落とす。
「アイリス、今日もありがとうな。お前がいてくれて、ばあさんも安心だって言ってたよ」
「うん…」
俯いたまま顔を上げないアイリスを見て、やはり様子がおかしいと感じたシグリッドは、彼女が祖母の介抱で疲れているのだと思い、とにかく休ませてやるのが先決かと口を開いた。
「そろそろ送って行こうか?孤児院の皆も、お前の帰りが遅いと心配するだろ」
ただ、彼女の身を案じただけの言葉だった。他意のない筈のシグリッドのその言葉は、嫉妬に支配されたアイリスにとって、まるで己を遠ざけるかのようにしか聞こえてはいなかった。
「…私がいると邪魔?」
アイリスが目を合わせないままそう言うと、彼女の口から思いもよらない答えを返されたシグリッドは、僅か怪訝な表情を浮かべた。
「何言ってんだよ、邪魔な訳ないだろ?」
「フローリカさんと、もう少し一緒に居たかったんじゃない?無理にでも、お引き留めしたら良かったのに…」
「アイリス?」
彼女の真意が分からず、目を合わせようとシグリッドがアイリスの肩に手を伸ばした、その時、募った醜い感情を押しとどめておけなくなったアイリスは、ここで漸く彼と目を合わせ声を上げた。
「フローリカさんでしょう?シグリッドと、三年お付きあいしていた女性って…。お互いの事、よく知ってるみたいだった。騎士団では毎日一緒にいられるんだもの、自分の事をよく知って、理解してくれる人がいつも傍にいてくれて良いわね!」
「アイリス、お前何言ってんだ…」
何故、咎められているのか理解できないシグリッドが眉間に皺を寄せてそう言うと、アイリスの瞳からは堪らず涙が溢れた。彼女の白い頬を伝って流れるそれを見て、シグリッドはここで、彼女の抱く嫉妬心に気付き眉を下げる。
「アイリス…」
彼女を泣かせているのは誰でもない己なのだと、罪悪感を抱いたシグリッドは彼女の頬に手を伸ばした。だが、アイリスはその手を拒んで顔を背けた。
「ごめんなさい、私、何言ってるんだろう…。ジネットおばあ様、ぐっすり眠っているみたいだから、今夜はこれで帰ります」
「おい!」
強くなり始めた雨の中、庇の下から飛び出したアイリスの後を追い、シグリッドは彼女の手を掴んで引き留めた。
「アイリス!」
「ッ!」
そして、そのままアイリスを胸に引き寄せたシグリッドは、不甲斐なさそうに唇を噛み締め、彼女の体を強く抱いた。
「ごめんな、アイリス。寂しい思いをさせてるのは分かってる…不安にさせてるのも分かってる。だけど、信じて欲しい。俺がお前を愛してるって事…この想いに偽りはない事…」
「シグリッド…」
愛しい想いが溢れて止まらない。強い嫉妬に支配され、口を吐いて出てしまった言葉を後悔しながら、アイリスは涙を溢した。
「私、馬鹿みたい…シグリッドを困らせるような事、したくないのに…私…私ッ…」
「良いんだ、アイリス…」
シグリッドは、肩を小さく震わせて泣くアイリスを抱きしめ、雨に打たれながら瞳を閉じた。
――――その後も、雨は止みそうになく、シグリッドはアイリスを家へと招き入れ、ずぶ濡れになってしまった衣服を着替えさせてやった。
「俺のシャツじゃ大きいだろうが、洋服が乾くまで、そいつで我慢してくれ」
リビングのソファに彼女と並んで腰掛けたシグリッドは、そう言ってアイリスに微笑む。
その暖かな眼差しを受け、少し心を落ち着けたアイリスは、泣き腫らした目を閉じると、彼の匂いがするシャツの袖に頬を寄せる。そこで、ふわりと彼女の頭を大きなタオルが包み込み、シグリッドが優しく濡れた髪を拭った。
「ほら、ちゃんと拭かないと、風邪ひいちまうぞ」
包み込むような大きな手に目を細めたアイリスは、武骨で男らしい、しかし、優しいその指は、いつでも己に安らぎを与えてくれるのだと、小さく呟くように告げた。
「シグリッドの大きな手…安心するの。このまま、離れないで…」
そう言ったアイリスと見詰めあったシグリッドは、彼女の肩にタオルを掛けてやると、何かを決意した瞳で口を開いた。
「アイリス…聞いて欲しい事がある」
「え?」
己がつまらない嫉妬をしたばかりに、別れでも告げられてしまうのだろうか。そんな嫌な予感を覚えてアイリスが不安げに眉を下げる。
シグリッドは、そんな顔をしたアイリスの両肩に触れて言葉を継いだ。
「俺が、騎士になった理由…話した事あるよな?」
何度も繰り返して来た逢瀬の中で、アイリスはシグリッドが騎士を目指した理由も聞いていた。
「ええ『民を守る剣』になりたいと…」
「その言葉は、ノアトーン王国先代王アルト王のお言葉なんだ。俺は、ガキの頃に騎士を率いる王の姿を見て憧れた。民を守る剣…俺も、そうなりたいと強く思ったから、騎士になる事を望み、これまで力を付けて来た。俺が今日まで騎士で在り続けられたのは、王の存在があったからこそ…。だから、俺は、アルト王が存命な限り、騎士団を去る事はできない」
己がいつも傍にいる事は、やはり叶わない。分かっていた事だが、改めてはっきりと告げられたアイリスは寂しげに俯いた。
そんな彼女の心情も察しているシグリッドは、ここで、けじめをつけるべきだと、アイリスと出逢ってからも続いた騎士団での生活を思い返しながら続けた。
「騎士としての誇りも、お前も、両方失いたくないなんてムシのいい話しだっていうのは解ってるし、これからも、お前に辛い思いをさせるのは目に見えてる。アイリス、お前が幸せだと思えないまま、関係を続けるのは俺も辛い。だから…お前に選択を迫るのは卑怯だと分かってて委ねるよ。今ここで、どちらか選んで欲しい」
「え?」
困惑するアイリスを前に、シグリッドは、懐から小さな箱を取り出し、差し出した。
「シグリッド…?」
アイリスが視線を落とした先、シグリッドが小箱の蓋を開いたそこには、銀色に輝く指輪があった。
「お前がこの先も俺と共にいてくれるなら、この指輪を受け取って欲しい。結婚しよう。だが、俺と離れて別の幸せを望むなら、はっきりとここで別れを告げて欲しい」
真っ直ぐで、力強くも優しいシグリッドの瞳に見詰められ、アイリスは口許を手で覆うと大粒の涙を溢した。
こんなにも己は想われていたのに、何故、つまらない嫉妬を燃やし、彼を傷付けてしまったのかと…
「シグ…」
「俺は、お前がどちらを選んでも、お前を愛した事を後悔しないよ」
これまで彼と過ごしてきた日々が脳裏に蘇る。
泣きたいほど愛しい相手からのプロポーズを受けて、己の中に選択肢などあるものか。
この先どれほど待つ事になっても、彼に寄り添い続けたい。
そう強く思ったアイリスは、何迷う事なく、そっと小箱に手を伸ばした。
「シグリッドと一緒にいたい…私は、心から、あなたを愛しているから。あなたと離れても、あなたを忘れる事なんて、きっと出来ない…」
「アイリス」
「シグリッド…大好きよ…」
そう言ってアイリスは、涙を溢しながら柔らかい笑みを浮かべた。
彼女から己の望んでいた答えを貰えたシグリッドは、指輪を手にし、アイリスの左手を取ると、その細く白い薬指に契りの輪を飾ってやった。
「好きだ…愛してるよ、アイリス」
「シグ…」
繋いだ手は離さない。
どんなに遠くに離れていようとも、必ず添い遂げると胸に誓った二人は、強く抱き締めあい、深い口付けを交わし、こうして結ばれた。
そして、祖母ジネットは、二人が結婚の約束を交わしたこの数日後に、彼らが結ばれる事を喜びながら息を引き取ったのである。
その後、祖母が営んでいた芳ばし工房は、常連客や町の人々に惜しまれながら閉店し、シグリッドとアイリスは、祖母の住まっていたこの家を新居とした。
しかし、この頃から、ブール王の暴挙は激しさを増し、財政確保という名目の下、誰かの手を汚す真似もするようになっていた。
敬愛するアルト王が、懸命に築いてきたものがいよいよ壊されようとしている。
そんな状況を目の当たりに、シグリッドは、相変わらず騎士団に詰める日々を送り、アイリスとの新婚生活はままならないままに一年が過ぎようとしていた。
―――――そして、この日、シグリッドが騎士を辞める切っ掛けとなった出来事が起きる。
「ペレス団長、シグリッドが別部隊で派遣されたってのは本当ですか!?」
ノアトーン騎士団の詰め所では、出動命令もないまま二の足を踏んでいた、第二槍騎士団の面々が、一人別部隊に招かれたシグリッドを心配していた。
問われたペレスは、険しい表情で小さく頷いた。
「ああ、シグリッドに目をつけたブール派の第一槍騎士団団長が、ブール王への忠誠心を図るという名目で、南東の集落への視察に同行させている。無茶をしなければ良いのだが…」
ブール派の騎士達相手にシグリッドが冷静でいられるかどうか、そう懸念していたペレスが言い終えると同時、突然、部屋の扉が開き、慌てて飛び込んできた騎士が声を上げた。
「ペレス団長ッ!」
ペレスと部屋にいた団員達が一斉にそちらへ振り返ると、どこか焦りの色を浮かべた騎士は胸に拳を当てて敬礼し告げた。
「だ、第一王女ジーニアス様が、直々にペレス団長にお話ししたい事があると、すぐそこまでお見えになられております!」
「何?ジーニアス様が?」
アルト王の実子にして、ブール王、フォラス王子の妹姫に当たる第一王女。
彼女が自ら騎士団の詰め所に来るなど、これまでに有り得なかった事で、その場に緊張が走った。
部屋の外では、王女を止めようとする従者の声が響く。
「ジーニアス様!なりません!このような男所帯の中へ入られては…」
「構いません、緊急事態にそのような悠長な事を言っている場合ではございませんわ」
従者の制止になど聞く耳も持たず、ペレス達の前に現れた聡明で美しい顔立ちの王女ジーニアスは、険しい表情で騎士達を見詰める。
その場に居合わせた皆は、一様にその場に跪き頭を垂れると、王女から継がれる言葉を待った。
「ペレス、今すぐに部隊を率いて南東の集落へ向かいなさい」
「ッ!?それは、何ゆえでございますか、ジーニアス様」
騎士団に命令を下せるのはアルト王とその直系の子ではあるが、軍事に関してこれまで首を突っ込むことのなかった王女からの命令に驚いて、顔を上げたペレスは眉を潜める。僅かに困惑する彼を一瞥し、ジーニアスはその疑問に答えようと口を開いた。
「ブールお兄様は、南東の集落に視察へ向かったのではありません。裏で賊と共謀し、あの地の集落を襲わせ、騎士団は賊を退治するという大義名分の元、その集落を完全崩壊させるつもりですわ」
「ッ!」
それを聞き、団員達も驚き顔を上げると俄かにざわめき立った。
そこで、ジーニアスが軽く手を上げると、彼女の傍にいた近衛騎士が、縛り上げた一人の男をペレス達の前へ突き飛ばした。
ジーニアスは、その男を蔑むような目で見遣り話しを続ける。
「南東の集落があるのは、どの国にも属さない独立領土です。兄は、その地を手に入れようと領主に掛け合ったようですが、思い通りの返事を頂けなかった。そこで諦めなかった兄は、脅迫の為、手始めに集落を落とす算段でおりますわ。国の領土を拡げたいという愚かな謀。このジーニアスが、良からぬ悪事を働くお兄様の側近を問い詰め暴きました。お父様も病に蝕まれたお体を引き摺って先程お出になられたわ。貴殿方も早急に向かいなさい」
「はッ!」
騎士達は皆立ち上がり王女に敬礼すると、ペレスの指揮の下、直ぐ様南東の集落へと向かった。
一方、第一槍騎士団と共に集落へ到着したシグリッドは、目の前に広がる信じがたい光景に驚愕していた。
「これは、一体…何が起こってるんだ…」
無残にも転がった人々の死体、生臭い血の匂いと、焦げて崩れ落ちる家屋。
完全に火の海と化したそこは、最早、集落であった形など無くなりかけていた。
魔物の襲撃でもあったのだろうか、まだ生き残りがいるかもしれないと、シグリッドが馬を降り、周囲を見回していた所で、先に状況を確認に出た騎士が馬の手綱を引き、第一槍騎士団団長の元で止まった。
「団長、報告です!どうやら、賊が集落を襲った模様!第一剣騎士団と共にいらっしゃるブール王様自らも討伐に参戦していらっしゃるとの事。そして、先程、アルト先代王も、この地にご到着なされたとの事です!」
「アルト様がッ!?病が進行され、動ける状態ではないと聞いているぞッ!」
シグリッドが声を上げて問い掛けるも、団員はそれに目もくれる事なく報告を続けた。
「ブール王から、我々はアルト様の部隊と合流し、先代王の御身をお守りするようにと仰せつかって参りました!報告、以上です!」
「そうか…」
団員からの報告を受けた団長は、然程この現状に驚きもしておらず、淡々と言葉を放った。
まるで、こうなる事を予測していたかのように。
その様子に違和感を覚えたシグリッドが険しい表情で拳を握ると、団長は、馬の上からシグリッドを睨みつけるように見下ろした。
「という訳だ。我々は、アルト先代王の元へ向かう。陣を乱さず、先代の御身を護る盾となるのだ。くれぐれも勝手な真似はするでないぞ、シグリッド」
射貫くようにシグリッドを見遣った団長は馬の腹を軽く蹴り、アルト先代王のいる場所を知る報告者の後に続いた。
シグリッドは、直ぐにでも生存者を探しに駆け出したい思いを抑え込み、再び馬に跨ると、最後尾から後に続いた。
程無く、賊の襲撃を躱しながら息絶え絶えに戦うアルト先代王と合流したシグリッドは、数年ぶりに顔を合わせ、その体を支え気遣った。
「アルト様ッ!お体の加減が宜しくないのでは!」
「おお、シグリッドか…ここで、お主に会えるとは、思ってもおらなんだ」
シグリッドが、かつて幼い頃に見た広く逞しい背をした王の姿はない。
病魔に犯された体はこんなにも痩せ細り、か弱く小さくなっていた。
だが、その目に宿った騎士道を重んじる光は消えてはおらず、アルトはシグリッドを真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「シグリッド…この集落を貶めたのは我が子ブールの謀略によるものなのだ」
「やはり…そうでしたか…」
道理でブール派の連中がこの状況に驚いていない筈だと、ここで辻褄があった事に納得したシグリッドは、険しい表情でアルトの話しに耳を傾けた。
「領主がここを我が国の領地とする事を拒んだゆえに、ブールは暴挙に出た。最早、我が子を止めるには遅すぎたのだ…。国の繁栄を重んじるあまり、民を守る事を忘れ、金銀に目を眩ませておる。騎士の誇りなど、あれは端から持ち合わせていなかったのだろう…。そのような者に王位を継承した私が、このノアトーン王国を衰退させてしまった」
「アルト様…」
アルトは心底悔いているようだった。痩せて弱々しくなってしまったのは、病魔だけのせいではないのかもしれない。
己を責めて、責めて、心労も祟ったせいだろうと、いたたまれなくなったシグリッドは、アルトを支える手に僅か力を込めた。
「シグリッド、この場を離れ、賊の討伐へ向かえ。そして、生存者を救うのだ」
「しかしッ…」
シグリッドの肩を掴み、アルトは力強い瞳で彼を見詰めた。
アルトの言葉通り、本当は今すぐにでも駆けだしたい。しかし、ブール派の事である、事故を装ってアルトにさえも手を下しかねない、そう思ったシグリッドは、今、彼の傍を離れては良くない気がして、迷ったように先代王から目を逸らした。
そんな彼の心中を察しているのか、アルトは厳しい口調で告げた。
「私を守る為の布陣を敷くなどもっての外!目の前に救うべき命が他にあるであろう!シグリッド!」
かつての王はシグリッドの肩を強く叩いてこう言葉を継いだ。
それは、シグリッドが騎士に憧れ、目指すきっかけとなった言葉だった。
「騎士よ、『民を守る剣』となれッ!」
厳しく叱咤するような先代王の声音に押され、シグリッドは迷いを打ち消し、抑え込んでいた感情を解放させると、力強く頷いた。
民を守る、それこそが今の己に課せられた役目なのだと改めて認識すると、彼は槍を握りしめた。
その時、程近い場所で、人の悲鳴が響いた。
「誰か!誰か助けて下さい!主人を助けてッ!」
そこは火の海。無惨に殺された骸が無数に転がる中、怪我を負って動けない男を腕に抱いた女性が涙を流しながら声を上げていた。
シグリッドと顔を見会わせたアルトが小さく頷くと、シグリッドは頭を下げてその場から駆け出した。
「どこへ行く、シグリッド、陣を乱すなッ!」
アルト王を囲うように布陣を始めた第一槍騎士団とその団長が声を上げる。シグリッドは、王の身を案じながらも、その目に救うべき命を映した。
「俺は、民を守る剣になるッ!」
賊が夫婦の元へ迫るのを見たシグリッドは、槍を握り締め地を蹴った。
その直後、背後から騎士達の悲鳴にも似た声が聞こえ、シグリッドは一瞬振り返ってしまった。
「ッ!」
賊の襲撃で矢をその身に受けたアルト先代王の姿が目に飛び込む。
しかし、王は彼の背を押すように声を上げた。
「行けッ!シグリッドォオオッ!」
アルトが最後に声を振り絞って叫ぶと、シグリッドは堪えるように、ぎり、と奥歯を噛み締め、その足を再び民の方へと向けた。
「うぉああぁああああッ!」
その手に持った槍を振るい、次々に襲って来る賊をものともせず蹴散らして行ったシグリッドは、周囲に敵の影が無くなったのを見ると、若い夫婦の元へと歩み寄った。
そこには、重なるように倒れた夫婦の姿。
その傍に力なく跪いたシグリッドは、右手から槍を溢し、両手を地に着いて、血が滲む程固く拳を握った。
「俺は…俺には、何も救えないのか…」
若い夫婦は既に事切れていた。アルト王が強く背を押してくれたというのに、一瞬振り返った、あの瞬間がなければ救えていたかもしれない。シグリッドは、激しい後悔の念に駆られた。
「シグリッドッ!」
炎の中で、彼が項垂れる姿を見つけたのは、少し遅れて到着したペレスだった。
放心したままのシグリッドを守りながら、ペレスの部隊は賊の襲撃を抑え、そして、多大なる犠牲と共に、集落での賊の討伐は終わった。
――――その後、ノアトーンへと帰還した騎士達は、翌日、アルト王の葬儀に参列する事となった。
『貴様が陣を乱したせいで王は致命傷を受けられたッ!貴様が王を殺したも同然だッ!』
『貴様には何も守れはしないッ!身の程を知れ、シグリッドッ!』
シグリッドは、そんな言葉で責められ、ブール王を始め、騎士達の白い目を一手に引き受ける。
だが、そんな事はシグリッドにとって、どうという事はなかった。
ただ、王も民も守れなかった事への喪失感。彼は、失意のどん底にいた。
―――――今回の集落襲撃について、ブールの暴挙を証言できる者は、残念ながら、何者かの手によって殺されていた。
ジーニアスが兄を問い詰めようとも、知らぬ存ぜぬで取り合わない。父、アルトが無念の死を遂げたのは、すべて兄ブールのせいだと、ジーニアスは彼を憎んだ。
一方、先代王の命を危ぶんだ者として、ブール王はシグリッドを死刑にするよう求めたが、ジーニアス王女とペレス他、アルト派の騎士達からの口添えもあり、極刑は免れる事になった。
ブールは、己の近衛騎士として、その身を我が為に捧げると誓うならば騎士団に留まらせると話を持ち掛けて来たが、シグリッドには最早、この国の騎士団に留まる理由は無くなっていた。
「目の前で零れ落ちそうになっている命も救えないのなら、騎士である意味はない。俺は、俺の守りたいものをこの手で守る。だから、騎士を辞めます。二度と、失わない為に…」
しめやかに行われた王の葬儀から数日後のノアトーン騎士団詰め所。
そう辞職の言葉を伝えに来たシグリッドに、ペレスは悲痛な表情で頷いた。
「お前という騎士を失うのは正直辛い。このノアトーンに、アルト派の騎士が後、どれ程残っているか…。このままでは、誇りを持たぬ者ばかりの烏合の衆に成り果てん。アルト王が築いた本来の騎士団への再生が、これから我々だけで出来るのかどうかも疑問だが、だからと言って、これ以上、お前を引き留めておく事はできんな」
ペレスは、シグリッドの決意を受け入れようと、柔らかな笑みを浮かべ言葉を継いだ。
「奥方を傍で守ると、そう決めたのだろうから」
「はい」
シグリッドは迷いなく頷いて答えると、憂いた表情で口を開いた。
「ですが、俺に、ペレス団長が願う騎士団再生への手伝いをさせて欲しいんです。このノアトーン騎士団が、かつての誇りを取り戻せるように…それが、救えなかった命への償いと、アルト王に対する俺なりの恩返しです」
かつては、民に住みよい暮らしを与えられるよう、魔物退治や各町への支援遠征を行っていたノアトーン騎士団。
王や城、ただ財政を守るための騎士ではなく、すべては民を守るための騎士だった筈。
民からの信頼も、その誇りをも失ってしまった今のノアトーンを、それでも、ペレスは再生したいと願っていた。
勿論、シグリッドや、ペレスと共にこれまでの道を歩んできたアルト派の騎士も同じ思いで、ノアトーンに留まる限り、尽力を尽くそうと誓っていた。
己の守りたいものを定めた今でも、騎士団再生に力を貸してくれようとするシグリッドの言葉は、ペレスにとって心強いものだった。
「シグリッド、それは、こちらとしても願いたい所だが、しかし、一体どうやって…」
「俺に考えがあります。妻とも話して、理解を得られたなら、また…」
「そうか…良い返事を期待している」
「はい…では、俺はこれで」
シグリッドが踵を返すと、いつの間にいたのか、フローリカを含む第二槍騎士団の団員達がずらりと並び道を作っていた。
「お前ら…」
その景色を見て目を瞬かせたシグリッドが呟くように言うと、ペレスは団員達に向けて声を上げる。
「シグリッド副団長に、敬礼ッ!」
ざっ、と音をたて、一同は左手に持った槍を立てると、左胸の前で右手の拳を握り姿勢を正した。
いつもは気さくな面々が真剣な表情で己を見詰める。シグリッドは、ふっと口許に笑みを浮かべると、同じように姿勢を正し右手の拳を左胸の前で握った。
「ありがとう、みんな」
こうして、シグリッドは団員達に見送られ、長年務めて来たノアトーン城を後にしたのである。
――――そして、数日後。
ノアトーン王国の北に位置する港町リジン。
シグリッドの帰りを待つアイリスに、近所の女性が通りすがりに声をかけて来た。
庭の花壇に花の種を植えていたアイリスは、にこやかな笑みを浮かべる。
「アイリスちゃん、こんにちは!」
「まあ、こんにちは!」
「随分と、お店のリフォームが進んだね!開店まで、もう少し?」
「はい!きっと、来月にはオープンできると思います」
「楽しみだねぇ、ジネットさんがやってた芳ばし工房が、復活してくれるなんて!アタシ、朝食は必ずパンだから、絶対足しげく通うからね!」
「ふふ!お待ちしてます!」
シグリッドは、騎士団を辞めると決めた時から、知人の大工に依頼し、少しずつ店の改築を進めていた。
祖母が営んでいたパン屋を、もう一度アイリスと共にのんびり営みたい。
そんなシグリッドの提案を受け入れたアイリスは、彼が戻るまでの間、一人、開店に向けての準備をしていたのだ。
花壇の整理を終えて店内に戻ったアイリスは、床のモップ掛けをしながら窓際に目を向ける。
「ジネットおばあ様、確か、この辺に小さなワゴンを置いていたわ。そこにあったメロンパンがいつも美味しくてー…」
と、芳ばし工房では人気の商品だった、こんがり焼けたメロンパンを想像しながら、表情を綻ばせていたアイリス。
そこで、誰もいない筈の店内に、いつもの突っ込みが響いた。
「よだれ出てますよ、お嬢さん?」
「ッ!」
突然の事で驚いたアイリスが振り返れば、そこには槍と荷物を持ったシグリッドが、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。
「シグリッド…」
騎士団を辞めて無事に帰ってきた夫の姿。
漸く、傍にいられる日々を過ごせるのだと思えば、アイリスは涙ぐみ、モップを放って勢いよく彼に飛び付いた。
「うおッ!いてて!こら!危ねぇだろ!」
「あなた!お帰りなさい!」
己の胸に頬を擦り寄せる妻に、仕方なさそうな、それでいて優しい笑みを浮かべたシグリッドは、彼女の肩を抱いて答えた。
「ただいま、アイリス」
こうして、シグリッドとアイリスは、祖母の芳ばし工房を受け継いだ。
そして、ノアトーン王国が再び騎士の誇りと信頼を取り戻せる日を夢見て、二人は、依頼人の為のパンを焼く事になったのである。