壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第九話 挽回の晩餐
これは、シグリッドとアイリスが付き合い始めて半年が経過しようとしていた頃の話し。
シグリッドが、ノアトーン王国から休暇で故郷のリジンへ戻って来る日の夕刻、アイリスは、彼の祖母ジネットが営む芳ばし工房を訪れていた。
「ジネットおばあ様!今夜はキッチンをお借りします!」
ある話しをシグリッドから聞いたのを切っ掛けに、アイリスは今夜、彼に手料理を振る舞おうと決めていた。
洋服の袖を捲り上げ、意気込む彼女がキッチンへ向かう姿を、微笑ましく見ていたジネットが口を開く。
「はいよ、アイリスちゃんの手料理が食べられるなんて、うちの馬鹿孫は幸せもんだねぇ。きっと、泣いて喜ぶだろうよ」
「はい!泣いて喜んで貰えるように、頑張りますッ!」
まるで何か勝負にでも出るような真剣な面持ちでキッチンに向かったアイリスは、付き合い始めてから知り得た彼の過去を思い出しつつ、料理を始めた。
―――――その彼の過去というのは…
「シグリッド、晩飯一緒にどうだ?たまには酒場で一杯やりながらさ」
「俺も行く行く!酒場のお姉ちゃん、可愛い娘が最近入ったって言ってたし!」
「お前はそっちが目的かよ」
これは、シグリッドが、後に最愛の妻となるアイリスと出逢うよりも、少し前の話し。
ノアトーン王国騎士団の詰め所で、同僚の騎士達がシグリッドを食事に誘おうと声を掛けた所だった。
しかし、彼はといえば、困ったような笑みを浮かべて、申し訳なさそうに答えた。
「悪い、一緒に行きたいのはやまやまなんだが、今日はちょっと…」
「なんだ?用でもあるのか?」
同僚の一人が問い掛けた所で、直ぐに何かを察した別の者が、にやりとした笑みを浮かべて口を開いた。
「おいおい、察してやれよ。シグリッドには付き合って三年にもなる美人の彼女がいるだろ?」
「あー…成る程ねー。うちの紅一点と、ラブラブデートですか。それよりも付き合いの長い俺達を差し置いて、女を優先ってか?こらー」
同僚達の冷やかしを受けて、シグリッドは、照れ臭そうな表情で頬を掻いた。
「いや、今晩の事は、前々から約束してたんだ。ほら、普段から俺達、デートらしいデートなんかしてねぇだろ?殆ど毎日顔合わせてるし、たまには仕事抜きで楽しもうかって…」
「確かに、お前ら一緒にいる時間長ぇけど、鍛練してる事の方が多いもんなー。フローリカも負けず嫌いだから、お前と手合わせになるとむきになるし。恋人っていうよりは、同志っていうか、なんというかー…」
「それ、言えてる、好敵手的な?」
「おい、それ禁句だぞ。フローリカのヤツ、あれで結構そういう事気にしてんだから」
「えー…マジかよ、アイツ意外と乙女なのな」
同僚達が好き放題言う中、その内の一人がシグリッドに詰め寄るように問い掛けた。
「で?たまには恋人らしく、今日はどこで何をするつもりだ?ん?」
「べ、別に、大した事はしねぇよ。俺の仮住まいで、アイツが手料理振る舞ってくれるっつーから、それで…」
騎士になってからというもの、故郷に帰る機会は数える程度。
騎士団の詰め所にいるか、ノアトーンの城下町に借りている小さな借家にいるかの二択で生活しているシグリッドは、久しぶりに帰る仮住まいで、恋人と二人きりの時間を過ごせる今日を楽しみにしていた。
そんな胸の内を悟られまいと、目を逸らしたシグリッドを見て、これを突っ込まずしてどうするかと、また同僚達が次々に口を開いた。
「ぐはあー!家で手料理だとッ!?美人の手料理が食えるなんて、この幸せ者がッ!」
「さては、手料理食った後は、フローリカも食おうって魂胆か?このスケベシグリッド!」
図星なのかそうでないのか、シグリッドは眉間に皺を寄せると、照れ隠しに怒声を上げた。
「う、うるせぇなッ!お前らに関係ねぇだろ!」
同僚の一人は大きく項垂れて溜め息混じりにこう続けた。
「あーあー…俺も可愛い彼女が欲しい…」
「諦めろ。お前みたいな女たらしに、恋人なんてできるか」
と、シグリッドが冷たく半眼で突っ込むも、対シグリッドの同僚達は、冷やかしを続けた。
「おうおう!言ってくれるね!恋人のいる野郎は言う事が違うわー」
「副団長様は女の扱いも一流なのね」
「シグリッド!手料理の感想聞かせろよ!それから、フローリカの感想もな!」
「なんだよ、フローリカの感想ってッ!阿呆かッ!」
シグリッドが最後に突っ込みを入れると、同僚達は騒ぎながら詰め所を出て行った。
からかわれるだけからかわれて、漸く解放されたシグリッドは大きな溜め息を吐き、帰り支度を始める。
―――――そして、その後。
約束通りにシグリッドの家を訪れたフローリカは、シェフ顔負けのディナーを作り、テーブルに並べていった。
「おお、美味そう…」
「お口に合えばいいけど」
第二槍騎士団の紅一点であるフローリカは、美人でスタイルも良く頭も切れる。
その上、槍術の腕前も、他の団員に引けを取らない才色兼備。更に、料理も上手いと来ては、恋人としては申し分ない。
シグリッドは、並んだ料理を見て感心し、息を漏らした。
「意外…お前、料理出来たのな」
「はあ?失礼ね、私が槍術しか取り柄のない女だと思ってた?」
「い、いやいや、つーか、三年付き合って、手料理振る舞われたのは今日が初めてだろ?料理してる姿も見た事ねぇし、そういうイメージがお前から湧かないっていうか…」
「あら、おあいにく様、私、これでも料理には自信があるの。過去に付き合った人も、料理の腕前で結婚を意識したと言っていたくらいですからね」
彼女と付き合っている身としては、前の男の話しをされるのは面白くないもので、シグリッドは少々不機嫌そうに半眼で問い掛けた。
「ふーん…で?結局、その結婚はなんで実らなかったんだ?」
「私に結婚する気が無かったからよ。彼は、結婚したら女性は家庭に入るものだって考えの人でね、私が騎士であり続ける事を望まなかったの。貴方も知ってるでしょう?彼、第二剣騎士団のゲール」
「ああ、アイツか。時期団長って有望視されてなかったっけ?」
「そんな話しもあったけど、下から、彼よりも長けてる子が続々出て来たものだから見送り。私も彼と合同訓練の時に初めて手合わせをして一本取っちゃってね、そこで冷めてしまったって訳」
「はあ…ゲールに同情するわ」
フローリカは第二槍騎士団の中でも引けを取らない実力の持ち主。
そんな彼女と手合わせしたのでは、並みの男では打ち負かす事は出来ないだろうと、実際、彼女と幾度となく手合わせをして来たシグリッドだからこそ分かるもので、元彼氏のゲールを少し気の毒に思わないでもなかった。
シグリッドがそんな事を考えているとも知らず、フローリカは頬杖をつき、目の前の恋人を見て僅かに頬を染めると、呟くように言った。
「でも、私がどうしても越えられない貴方なら…結婚…考えてもいいかも…」
彼女の呟きがよく聞き取れず、シグリッドは目を瞬かせて聞き返した。
「え?なんだって?」
「いいえ、何でもないわ!ほら、冷めない内に食べましょう?まずは、それ、ビーフシチュー食べてみて?これは特に自信があるの」
と、彼女に勧められるも、湯気の立つそれを一瞥し、シグリッドは苦笑いを浮かべて、ナイフとフォークを手に取った。
「あ、ああ…シチューは、ちょっと冷ましながら食わせてもらうよ」
「はあ…そういえば、貴方、猫舌だったわね」
少し呆れたように息を吐いたフローリカは、彼が猫舌だった事を思い出した。
シグリッドが他の料理に手を着けようとしていた所で、フローリカは少し艶のある笑みを浮かべる。
「ねえ、たまには恋人らしい事、してみない?」
「ん?」
負けず嫌いの彼女。普段なら男の中で気丈に振る舞うのだが、二人きりの時に時折見せる女性らしい甘えた様は、シグリッドにとって、いつでも魅力的に映る。
フローリカが胸元にかかる髪を耳にかけ、ビーフシチューをスプーンで掬い、己の口許へ運ぶ仕種を目の当たりにしたシグリッドは、妙に彼女を意識してしまい、照れ臭くなって目を逸らした。
「な、なんだよ…」
「ここまでされて気付かない筈ないでしょう?私が、あーんして、食べさせてあげるわ」
「い、いや、熱そうだし…」
決して嫌な訳ではなく照れ隠しから来る拒否で、シグリッドは頬を僅かに染めると、困ったような笑みを彼女に向ける。
そんなシグリッドの顔を見て微笑んだフローリカは、差し出したスプーンを引っ込めず待った。
「ふふ、分かった、じゃあ、ちゃんと冷ましてあげるから、ね?」
「いいよ、ガキじゃあるまいし、一人で食えるって」
「いいじゃない、二人きりなんだから、ほら、あーんして?」
フローリカの甘えた声に胸を高鳴らせたシグリッドは、最早、断る事も出来ず、掬ったビーフシチューに息を吹き掛けて冷ますフローリカの姿を見て、大人しく口を開いた。
「あー…」
一滴、二滴と皿の上で滴ったビーフシチューは、再びフローリカの手でシグリッドの口許に運ばれる。
「残したら承知しないわ…よ」
と、彼の口に、冷ましきれていないそれが流れ込み…
「んぶぅううううううッ!」
ここで、あまりの熱さに堪らず、ビーフシチューはシグリッドの口から噴き出された。
「あっち!あっちぃいいいッ!」
そして悲劇は続いていた…、噴き出されたそれは、目の前のフローリカの顔へとぶちまけられていたのである。
「…」
ぽたり、ぽたり、と、彼女の顔からテーブルに滴り落ちるビーフシチュー。
それに気付いたシグリッドは、火傷した舌に涙目になりながら声を上げた。
「う、うおあッ!悪いッ!フローリカッ!わざとじゃな…ぶはぁああッ!」
シグリッドが言い訳するよりも早く、フローリカは彼の頬に思い切り平手をぶち込んだ。
「人が想いを込めて作った手料理を、こともあろうか作った本人の顔にぶちまけて…普通、噴き出すなんてしないでしょう…」
「いや!マジで!熱かったんだよ!マズイとか、そういうので噴き出した訳じゃねぇからッ!」
肩を震わせながら、布巾で顔を拭うフローリカに、どうにか弁解しようと慌てたシグリッドだったが、冷静さを失った彼女は聞く耳持たず、その怒りは激しさを増した。
「可愛い恋人の手料理よッ!熱いのくらい我慢して、口の中に押し込めておきなさいよッ!」
「はあッ!?無茶言うなッ!」
「これは…酷い屈辱だわ…本当、最低ッ!」
そう言って、フローリカは瞳に涙を滲ませた。
何でも完璧であろうとする、そして己に絶対の自信を持っている彼女は、時に冗談や失敗を受け入れる心のゆとりを無くしてしまう。
その後、フローリカは一度根に持ってしまったそれを許すことが出来ず、シグリッドと破局してしまった。
―――――…等という過去があり、シグリッドは彼女と別れて間もなくアイリスと出逢う。
そして、時は今。
「出来たわ、因縁のビーフシチュー…」
アイリスは、作った何品かの料理を眺めながら、出来上がったビーフシチューの鍋をかき混ぜて呟いた。
「シグリッド…食べてくれるかしら…」
そこへ、アイリスが帰りを心待ちにしていた人物がキッチンへと姿を現した。
「ただいま。アイリス」
「あ、お帰りなさい!シグリッド」
荷物を床に置きながら、シグリッドは、空腹を刺激する香りに目を細めて口を開く。
「いい匂いがするな。これはー…ビーフシチューか?」
「え、ええ…」
「さっき、ばあさんから聞いたぜ、アイリスが手料理を振る舞うって張り切ってるって。ばあさんが、店頭に残ったパンも持ってけって言うから、ほら」
「まあ、美味しそうなクロワッサン!」
篭に入ったパンをテーブルに置き、シグリッドはそのままダイニングテーブルに着いた。
「昼も食わずに飛ばして帰ったからさ、腹ぺこぺこだ。もう食えるのか?」
「うん、直ぐに準備するから、少し待ってて」
そうして、アイリスは作った料理をテーブルに並べていった。
「おお、美味そう!」
「ルーナチキンの唐揚げは昨日から下味をつけていたから、スパイスが効きすぎていないか少し心配だけど、ビーフシチューは、上手に出来た方かな…」
アイリスは、そう言いながら彼の向かいの席に腰かけると、意を決したように声を上げた。
「さあ、たーんと召し上がって下さいましッ!」
そう言い終えると、アイリスは、きゅっと口を結んで、目を固く瞑り、何故か身構えた。
そんな彼女の姿を見て、一体何の真似かと、シグリッドは半眼で問い掛ける。
「召し上がって下さいまし、で、何でそんなに身構えてるんだ」
「私はいつだって、ぶちまけられて平気よ!寧ろ、ぶちまけられて、それに堪えられる事を証明したい!」
「はい?」
「私は、あなたが手料理を噴き出したって、嫌いになったりしないからッ!」
「…」
強く言い切ったアイリスに目を瞬かせたシグリッドは、己の過去を知った彼女が気にしてくれているのだと気付き、思わず違う意味で噴き出してしまった。
「ぶッ……ぶはははッ!」
「シグリッド?」
急に笑い始めたシグリッドに、アイリスはゆっくり目を開いて眉を下げた。
「はははッ!ふふ…悪い、お前があんまり真剣に言うから、ふふふ…あははッ!」
「そんなに、おかしい事言ってるかしら…私…」
恥ずかしそうに肩を竦めたアイリスを見て、シグリッドは、愛らしいやら嬉しいやら、込み上げてくる笑いを堪えて答えた。
「いや、嬉しいよ。成る程、俺の過去の失態を挽回させてくれるって話しか?それで、ビーフシチューなんだな?」
「あなたが、ビーフシチューに良い想い出が無いんじゃないかと、そう思って…」
やはり可笑しなことをしているだろうかと思ったアイリスが眉を下げると、シグリッドは、にんまりとした笑みを浮かべた。
「そうかもな、けど、これでビーフシチューが好きになりそうだ」
「本当?」
「ああ」
良かったと、アイリスは胸元で両手を合わせ、嬉しそうに笑った。
そんな彼女の笑顔を見て、シグリッドは、己の口許を指差し微笑む。
「食わせてくれよ、お前がその手で。そうすれば、もっと好きになる」
「分かったわ、ちゃんと冷ましてあげるから、少し待ってて?」
ビーフシチューを木製のスプーンで掬い、アイリスは念入りに息を吹き掛けた。
そんな彼女を酷く愛おしく思ったシグリッドは席を立ち上がり、少し身を乗り出すと、アイリスに向けて手を伸ばした。
「アイリス」
「?」
呼ばれて彼女が顔を上げると、シグリッドはテーブルに手を着き、アイリスの顎を上向かせて唇を重ねた。
「ん…」
突然、触れた優しい感触に、アイリスは思わず頬を染める。
それは、あまりに深く味わうように重なるもので、アイリスは苦しげに息を漏らした。
「はあ…シ、シグリッド…」
漸く解放された唇。アイリスが、ぼーっとする頭で彼を見詰めると、シグリッドは彼女の手で掬われたビーフシチューに視線を落として微笑んだ。
「これで、ちゃんと冷めただろ?」
「そ、そうね…」
未だ、甘い口付けの感触が残っているアイリスは気を取り直し、すっかり冷めてしまったシチューを、シグリッドの口許に運んだ。
「はい、あーんして?」
「あー…」
シグリッドは口を開き、差し出されたスプーンを、ぱくり、と咥える。
「ん…」
シグリッドの反応を恐る恐る窺うように、アイリスは眉を下げて見詰めた。
そして、ビーフシチューをごくりと喉に、今度こそ噴き出さず流し込んだシグリッドは、にんまりと笑みを浮かべる。
「うん、美味いッ!」
「良かった!」
シグリッドの口から聞きたかった、「美味い」の一言が聞けて、満足そうに微笑むアイリスと、あの日の失態を忘れられそうな程、ビーフシチューの想い出が良いものに変化したシグリッド。
二人は他愛ない話しをしながら、恋人同士の食卓を楽しんだ。