壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第十二話 幼馴染の集い
ある日の港町リジン。
いつものように芳ばし工房を開店し、そして、のんびりとパンを販売し終えたシグリッドとアイリスは、この日の夜、商店街A地区の酒場を訪れていた。
「おー…今日も大盛況だな」
「本当、ここはいつ来ても賑やか」
酒場の開店から少々時間が過ぎただけだというのに、フロアは既に満席だった。
シグリッドが店内の人混みを見回す一歩後ろで、アイリスが感心したように頷くと、幾つものビールジョッキを両手に持った女性が、にこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃい!シグリッドさん、アイリス!」
彼女は酒場の看板娘、エルミーヌ。
彼女とアイリスは付き合いの長い友人で、昔からシスターのランと、もう一人を含め、恋愛小説や演劇等、趣味の話しでいつも盛り上がる仲だった。シグリッドはといえば、商店通りでは慕われていた祖母の影響で、古くから酒場の店主とは顔見知り。当然、その娘エルミーヌの事も、妻の友人だと知る前から存在を知り得ていた為、彼女は夫婦共通の友人の一人でもあった。
「よう、エルミーヌ!看板娘の切り盛りのおかげで商売繁盛だな。オヤジさんも優秀な娘を持って鼻が高いだろう」
シグリッドがそう言うと、エルミーヌは各テーブル席にビールジョッキを運びながら、眉を潜めて厨房の父親を見遣った。
「ああー、父さんはこれでもまだ要領が悪いって悪態ついてるわよ。本当、自分の思い通りにならないと、すぐ文句言うんだから。自分勝手が過ぎるから、母さんにだって逃げられるのよ!」
溜め息を吐きながらそう答えたエルミーヌの声は、カウンター奥の厨房に詰める強面の父親に聞こえており、彼は大きな鉄鍋を持ったまま顔を覗かせた。
「エルミーヌッ!つまんねぇ事言ってねぇで働けッ!口ばっか達者になりやがって、そりゃ嫁の貰い手もねぇわなッ!」
「うるっさいわねー!この頑固オヤジー!」
そんな親子のやり取りに微苦笑を浮かべたシグリッドの隣で、アイリスは手に持っていた何かをエルミーヌに差し出した。
「エルミーヌ、これ、ありがとう!騎士団団長と許されない恋に落ちた、レジスタンスの女頭目の物語!とっても素敵だったわー…なんと言ってもユーリエ団長の包容力が素晴らしくて…」
うっとりした様子のアイリスが、借りていた恋愛小説の感想を述べると、エルミーヌも本を受け取って胸に抱き、先程、悪態を吐いていたとは思えない程しおらしい様で何度も頷いた。
「分かる、分かるー!本当、ユーリエ団長のように全てを包み込んで下さるような優しい人と巡り会いたい…。ああ、私の運命のお相手はどこに!」
アイリスとエルミーヌが恍惚な表情を浮かべる傍で、シグリッドは引き攣った笑みを浮かべた。
「エルミーヌは、選り好みしなけりゃ直ぐにでも恋人が出来そうだけどな」
「あら、シグリッドさん、私は選り好みなんかしていないわ?許容範囲の最低ラインに達した男性にお会いできないだけよ」
「いや、君のその最低ラインが高いからお会いできないだけじゃないか?」
「そうかしら?そんな事はないと思うけど、聞いて下さる?私の最低ライン。まず、顔は野性的かつ端麗で、背丈は百七十五センチ以上、髪はブロンドで、程好く焼けた肌、年齢は私の三つ上、まあ、プラスマイナスニくらいの年齢差は良しとするわ。後は、なんと言っても腕っぷしの強い人!そう!百戦錬磨のユーリエ団長のように!ね?そんなに無理言ってないでしょう?」
「いや、結構無理言ってると思うけど?」
と、半眼で、ぼそり突っ込んだシグリッドの声は、妄想に耽るエルミーヌには届いていなかった。
そこで親友とも呼べる彼女をフォローするように口を開いたのはアイリスだった。
「あなた、エルミーヌは妥協しないタイプなの。いつでも自分に正直な子なのよ。一途に理想を追い求めるなんて、健気で可愛いでしょう?」
「理想と現実がかけ離れていると、何事も上手くいかないもんだよ」
妻にも視線を落として呆れたように突っ込んだシグリッド。
そんな夫婦の姿を見たエルミーヌは、アイリスを羨望の眼差しで見遣った。
「はあ…アイリスは良いわね、こんな素敵な人と巡りあって結ばれて。二枚目で優しくて、背だって高いし、おまけに元槍騎士団の副団長様で槍術にも長けてて、シグリッドさんのその逞しい腕に抱かれる日々を過ごしてるなんて…あーあ…本当、羨ましい」
友人に言われてアイリスが夫と目を合わせると、急に気恥ずかしくなった妻は、僅かに染まった頬を両手で包み、恥ずかしそうに体を揺らした。
「やだわ、エルミーヌったら!そんなに褒められると照れるじゃない」
「はは、お前が褒められてる訳じゃないけどな」
シグリッドはエルミーヌがあまりに誉めちぎるもので、照れ臭そうに頭を掻きながら妻に突っ込みを入れる。
そこで、エルミーヌは、恥じらうアイリスの肩を叩いた。
「アイリス、アンタのリアルで幸せな夫婦生活もいいけど、今度は小さな村の幼馴染同士が恋に落ちる小説を見付けたの!結果的にそれぞれ別の人と結ばれるっていう悲恋のお話しなんだけど、読んでみない?」
「まあ!悲恋だなんて、読んでいて胸が痛みそう…」
そう言って眉を下げたアイリス。このままでは、また妻が小説にのめり込み一芝居始めそうだと懸念したシグリッドは、苦笑いを浮かべて問いかけた。
「あー…胸を痛めながら読む必要は無いんじゃないか?」
「いえ、読みます!色んな愛の形をこの目で確かめるの!これは愛の伝道師に対する試練だわ!」
「なんのこっちゃ…」
愛の伝道師とは…と、結局、読む気満々な妻に、シグリッドが微苦笑したまま呟くと、ここでエルミーヌが思い出したように口を開いた。
「あ、幼馴染で思い出した。既に他の方はお揃いですよ、シグリッドさん!奥の小部屋へどうぞ!同窓会、楽しんで下さいね!」
そう、彼らが酒場を訪れた本来の目的は同窓会。
シグリッド含め、幼少期から馴染みのある顔だけが集い、近況や昔話に花を咲かせる、一年に一度の恒例行事となっている事もあって、場所は決まってこの酒場の数少ない個室なのだ。
アイリスに、また小説を届けると話をつけたエルミーヌが、二人を伴って個室に案内すると、そこにはいつもの顔触れがあった。
「お疲れ、シグリッド、アイリスさん」
一番に、にこやかな笑みを浮かべて声をかけたのは、宿屋の店主ルシアンだった。
ゆったりと寛げるソファが、背の低いテーブルを囲うように置かれた室内。
二人の到着を待っていた一同が同じように振り返り、夫婦を快く迎え入れた。
「遅くなって悪い、明日の準備に手間取っちまって。先に始めてくれてても良かったんだぜ?」
シグリッドが困ったような笑みを浮かべて頭を掻くと、ルシアンは首を左右に振って答えた。
「何言ってるんだ。この会は、いつだって全員揃ってから始めてるだろ。誰が欠けてもダメなんだよ」
彼の言葉に集った皆が同意すると、ここでシグリッドの隣に立ったアイリスが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、皆さん。幼馴染の集いに今年も呼んで頂けて、私、感謝感激雨嵐です」
「それを言うなら雨霰だろ」
シグリッドが妻に対して、ぼそっと突っ込みを入れた直後、花屋の店主コルサが歓喜の声を上げた。
「何を言っちゃってるんだよッ!この可愛いアンチクショーはッ!アイリスちゃんは、もう俺らA地区同窓会の正式なるメンバーじゃないかッ!何も遠慮する事はないんだよッ!」
「まあ、嬉しい!」
アイリスは、己もこの集いの一員と認められているのだと思えば素直に嬉しくて、満面の笑みを咲かせた。
いつでも感情をストレートに表す、そんな彼女の無邪気の姿を見て、コルサが鼻の下をだらしなく伸ばせば、シグリッドは呆れて溜め息を吐いた。
ここで、彼と同じようにコルサの振る舞いを見て、眉を潜めた女性が諭すように告げる。
「やれやれ、相変わらずだね、コルサは。人様の嫁ばかり見てないで、いい加減自分のフィアンセを探したらどうだい。男の独り身は、後々大変だよ?世話を焼いてくれる娘がいないとさ」
ルシアンの隣、ソファに深く腰掛け、すらりと伸びる足を組んだその女性は、商店街A地区でアンティークショップの店主をしているミラルダだった。
色気を持ちながら、それでいて竹を割ったような、さっぱりした性格の彼女。
アイリスやエルミーヌのような年下の娘達からは姉のように慕われ、たった一人で店を切り盛りしているその気概も、皆から尊敬される理由の一つだった。
そんな彼女の言葉に、コルサが口を尖らせていると、その隣に腰かけていた、一見、頑固そうな強面の男が、腕を組んでミラルダに告げる。
「そういうお前も独り身だろう。歳を取った時の事を、そろそろ考えたらどうだ?」
目線は合わせず、瞼を閉じたままで憎まれ口を叩いたのは、同じくA地区で雑貨屋の店主をしているロバートだった。
「はいはい、アンタは良いよねぇ、長年連れ添った可愛い奥さんがいるんだから、老後も安泰だろうよ」
と、不貞腐れて言い返したミラルダと、その言い種に眉を潜めたロバートが互いに顔を背ける。
昔から、口喧嘩が多かったこの二人。エスカレートしてくると手が付けられなくなるもので、シグリッドとルシアンは顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
そこで、なんだかんだ言ってムードメーカーのコルサが席を立ちあがり、二人を宥めるように口を開いた。
「まあまあ!二人とも落ち着けって!今回は、新婚ルシアンの奥さんも参加してんだから、みっともないとこ見せるなよ!」
そう言って、コルサはルシアンの隣に腰掛けた妻、イライダに目を向ける。
初めて主人の幼馴染との交流に参加する事になった彼女は、上品で控え目な微笑みを携えて答えた。
「ふふ、今日は皆さんのいつもの風景を見せて頂きたいですから、どうぞ、お気遣いなく」
そんなイライダの美しい笑顔に頬を染めたのは、またもコルサで、彼は恨めしそうにルシアンとシグリッドを見遣った。
「ちぇッ…お前ら、可愛い嫁さんに恵まれて、本当ムカつくわー…マジでムカつくわー…」
「その刺すような目で見るのはやめろ、コルサ」
コルサの視線を躱すように、シグリッドが苦笑いを浮かべながらソファに歩み寄ると、その後に続くアイリスに向け、先程の視線とは程遠い、愛おしそうなそれを引っ提げて、コルサは己の隣席を叩きながら、満面の笑みを浮かべた。
「ほーら!アイリスちゃん!俺の隣においでよー!楽しくお話ししましょーねー!」
と、彼女を腕に抱きしめようとでもいうのか、両手を広げたコルサが楽し気に言い切った所で、そこへ腰を下ろしたのはシグリッドだった。
シグリッドは、にんまりした笑みを浮かべてコルサを見遣る。
「おう、楽しくお話ししましょーねぇ、コルサくん!」
「うげぇ、なんで両手にむさい男なんだよ!お前ら変われよ!女の子と変われーッ!」
コルサの両隣はシグリッドと、先程から物静かに目を閉じているロバートで、この席順に納得いく筈もないコルサが目を吊り上げる。
そんな彼を余所に、アイリスはシグリッドの隣に腰を下ろして、ルシアンの妻イライダと挨拶を交わすと、早速、他愛ない話しを始めた。
妻同士が会話している姿を微笑ましく見遣ったルシアンは、ここでシグリッドに飲み物が書かれたメニュー表を差し出した。
「料理はエルミーヌに言って適当に作って貰うよう言っておいた。まずはビールで乾杯といくか?」
「ああ、そうだな、アイリスには百パーセントのオレンジジュースを…」
と、メニュー表を受け取りながら答えるシグリッドの言葉を遮って、アイリスは挙手して口を開いた。
「はい!あなた、私もビールで乾杯します」
「ダメだ。お前は去年もビール半分くらい飲んで、へろへろになってただろ。却下」
「そんなー…皆さんがビールのジョッキを前にしているのに、私だけジュースだなんて恥ずかしいでしょう?妻に対して酷い仕打ちだわ!」
「酷い仕打ちを受けるのは、お前が酔っ払った後の俺なの!」
「あなたー…」
眉を下げたアイリスが肩を竦め、恨めしそうな視線を向ける。その視線にいたたまれなくなったシグリッドは、仕方なさそうに溜め息を吐いた。
「分かった、分かったよ、一杯目は注文してやるけど、乾杯してひと口飲んだら俺に寄越せ、いいな?」
「まあ、あなたったら、私と間接キスがしたいんでしょう?そうでしょう?もう、仕方ないわねー」
「お前の為を思って言ってるんだけど?」
何を盛大に勘違いしているのか、僅かに染まった頬に手を添え、ほう、と嬉しげな息を吐くアイリスに、シグリッドが半眼で突っ込むと、聞き捨てならんと声を上げたのはコルサだった。
「ぐはあッ!シグリッドッ!貴様ぁあッ!俺の目の前で、アイリスちゃんと、か、か、間接キスをしようなどとは、いい度胸だなッ!屈辱だッ!俺の、俺のアイリスちゃんとぉおおおッ!」
「頼む、突っ込み所が多くて先に進まねぇから、もう口を閉じてくれ」
まるでアイリスが自分の物のように言ってのけるコルサに、シグリッドは最早疲れた様子で肩を落とした。
程無く、数品の料理を持ってやって来たエルミーヌに酒を注文し、全員がその手にビールジョッキを持った所で、いつも代表して音頭を取るコルサが席を立ち上がった。
「えー、シグリッドがノアトーンに戻って来たのを切っ掛けに、毎年恒例になったこの幼馴染の会も、今日で三回目です!ガキの頃には考えもしなかったけど、お互いに一軒の店を持つ店主となった訳で、これからも助け合い、支え合い、共にリジンの商店街を盛り上げていきまっしょうー!では、カンパーイッ!」
乾杯の声と共に、皆が笑顔でグラスを合わせる。
隣に最愛の妻がいて、幼い頃、共に過ごした仲間がいて…こんな何気無い平穏な風景の中に己がいられるなど、三年程前まで想像もできなかったシグリッドは、皆の楽しげな様子を見て、どこか感慨深そうに笑みを浮かべた。
その隣では、妻のアイリスがビールジョッキを両手で持ち、恐る恐る口に運ぼうとする姿があり…
「では、いただきます」
そう言って妻が一口飲み込んだのを見ると、シグリッドも喉を刺激する爽やかな炭酸の感覚を楽しみながら半分を飲み干し、一息吐くと同時に、妻の手からジョッキを取り上げた。
「はい、おしまい。後は俺が責任持って飲むから、お前はこっち」
シグリッドは妻が飲んだビールジョッキを己の前へ置くと、同時に注文していた果汁百パーセントのオレンジジュースを差し出してやった。これに不服そうな顔で妻が声を上げる。
「まあ!失礼ね!私だって子供じゃないんだから、もう少しくらい飲めるわ!ひっく…!」
僅かに頬を染めたアイリスの口から吃逆が出ると、彼女は口許を手で隠し、シグリッドに苦笑いを浮かべた。
夫は確信していたと言わんばかりの表情で口を開く。
「ほらみろ、お前の限界は俺の方がよく分かってるんだ」
「んー…この程度のお酒で、しゃっくりだなんて…まだまだ修行が足りないわ」
何の修行だ、とシグリッドに突っ込まれながら、アイリスは渋々ジュースのグラスを手に取った。
そんな二人のやり取りを微笑ましく見ていたルシアンが、何か思い出したように口を開く。
「うちのイライダも酒が強い方じゃなくてね、先日、従業員を労ってささやかなパーティーを開いたんだけど、その時に調子に乗って飲んだものだから、コイツ、目を回してしまって、その後の介抱が大変だったよ」
「も、もう!ルシアンったら、今その話ししなくても!」
恥ずかしそうに肩を竦めたイライダが恨めしそうな目でルシアンを見遣る。
何か言いたげなイライダを一瞥したシグリッドは、隣で料理を取り分けるアイリスに目を向けると、ルシアンに同意するよう笑って答えた。
「はは!分かるよ!介抱に時間取られて、結局自分は酒を飲めないんだよな」
「そうそう、だけど、あんなに酔ったイライダを見たのは初めてだったから、ちょっと驚いたよ」
イライダと言えば、お淑やかで上品な印象が先に立つ。そんな彼女が泥酔するまで酒を煽るようなタイプに見えないシグリッドは、意外そうな顔で続けた。
「俺、イライダさんの泥酔した姿が想像つかないんだけど」
「そうか?普段は物静かだけどね、酔うとよく喋るようになって、顔を青くさせた後に寝ちゃうんだ」
「ル、ルシアンッ!恥ずかしいから言わないで!」
酒で妻が変わる様をルシアンが少々 悪戯めいた表情で話すと、イライダは顔を上気させて目を吊り上げる。そんな妻の様子に気付き、ルシアンは苦笑いを浮かべると、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「おっと、これ以上言うと、本気で怒られそうだ」
「はは、じゃあ、この先は聞かないでおくよ、イライダさん」
シグリッドとルシアンが談笑する傍ら、一連の話しを聞いていたコルサが興奮した様子で呟くように言った。
「泥酔して乱れる美人妻…イライダさん…なんて艶めかしいんだ。いやいや待て、アイリスちゃんが泥酔して可愛く乱れる様も…」
「コルサ、ぶん殴られる前に、その妄想をやめろ」
良からぬ想像を脳内で膨らませるコルサを横目に、シグリッドが額に青筋を浮かせて突っ込んだ。
その後も、ルシアンとイライダの馴れ初めであったり、シグリッドとアイリスの恋愛時代の話しであったりと、夫婦への質問が絶えず続き、更には幼馴染ならではの幼少期の話しにもなって、一同はこうして酒と料理ととりとめのない話しを楽しみながら、暫しの時を過ごした。
「それでね、アイリスちゃん、シグリッドったらさ、学校で一番頭の良いヤツに、運動しか取り柄のないヤツめって喧嘩売られてね?こいつ、負けるかーってテストで張り合ったは良いけど、結局撃沈しちゃってさー!膝抱えて、項垂れてるシグリッドの姿、今でも忘れられないわー!」
「いや、そんな事あったか…?つーか、笑い過ぎだろ、ミラルダ。」
酒も入り、気分よく昔話をするミラルダに、シグリッドが少し拗ねたような顔で突っ込む。そんな夫の幼少期を聞いたアイリスは、小さく肩を揺らして笑った。
「膝を抱えて?ふふ、今のあなたで想像したら、なんだか可愛い!」
「おいこら、今の俺で想像するなよ」
シグリッドが半眼で妻に突っ込むと、それにコルサが面白くなさそうに続いて口を開いた。
「学校といえば、校内でも、モテてた奴らの中にシグリッドとルシアンもいてさー、頭が良い男子が好みか、運動神経が良い男子が好みかで、きゃーきゃー言う女子の毛色も違ってたなー」
「ああ、一番モテていたのはナバールか?中等部の頃には、女を取っ替え引っ替え、まあ酷い有様だった」
と、静かに飲んでいたロバートが口を開くと、それに頷いたコルサは悔しげに拳を震わせる。
「あーそうだった!ナバールの野郎、バレンタインなんか腐る程チョコ貰って、よく自慢してたわ!俺に!」
「そいつはご愁傷様」
と、熱くなるコルサを慰めるように、シグリッドが彼の肩を叩く。ルシアンは、懐かしい人物の名前を聞いて、ビールを片手に問い掛けた。
「そういえば、ナバール、今どこにいるんだろうな?」
それに直ぐ様答えたのは、彼の所在を知っていたミラルダだった。
「ああ、アイツなら、南西のヴァナヘイル王国で、アンティークショップをしているらしいよ?奥さんと子供二人に囲まれて、上手くやってるみたい」
「へえ、女たらしで有名な、あのナバールが結婚ねぇ。アイツの事だから、一生独身だと思ってた。それに、店を持ってるとは思わなかったぜ」
シグリッドが意外そうに目を瞬かせると、ミラルダはグラスの酒を飲み干しながら答えた。
「ほら、アイツ、うちの旦那と仲良かったでしょう?将来は自分のアンティークショップを持つんだって、よくうちのに相談に来てたよ。三年前に漸く店を持てて、小さい店だけど家族で幸せにやってるって、つい先日も手紙貰ったばかりさ」
その話を聞いたシグリッドは憂いた笑みを浮かべると、小さな声音で続けた。
「そうか…そうだったな、マラットと仲良かったんだよな、ナバール」
マラットという人物の名を聞くと、ミラルダは睫毛を伏せ、どこか寂しげな様子で口許に弧を描いた。ここで、皆が俯き沈黙が訪れると、ミラルダの身の上話しを知っていたアイリスも眉を下げる。
一人状況が分からず困惑したのはイライダで、彼女は夫を見上げて首を僅かに傾けた。
「ルシアン?」
「ああ…いや…」
どう取り繕ったものかと、ルシアンが困ったような笑みを浮かべると、それを察したミラルダが、気を取り直したように口を開いた。
「良いんだよ、ルシアン。イライダさんだって、もうこの集会の一員なんだから、知っておいて貰っていいだろう?」
「ミラルダ」
ルシアンが申し訳なさそうな表情で俯くも、ミラルダは、どうという事はないと、快く話しを続けた。
「マラットは、私の旦那でね。私がやってる、この町のアンティークショップは、元々旦那が立ち上げた店なんだよ。店頭に置く品物を探して、あちこち馬を走らせてる内、ある街道で魔物に襲われちまってさ、私を逃がす為に犠牲になって…命を落としちまった」
「そんな…」
普段明るく振る舞う彼女に、こんなにも辛い過去があったのかと、イライダはそれを掘り返すような真似をしてしまった事に眉を下げた。
「アイツが亡くなって六年。皆の支えがあって、どうにか店を続けられてる。特に、ここにいる幼馴染達には感謝してるよ。一人になったばかりの頃、コルサとロバートには、時折店を手伝って貰ったし、ルシアンにはよく食事を差し入れて貰った、それに…」
ミラルダはシグリッドに目を向けて、柔らかく微笑んだ。
「シグリッドは、騎士団を率いて魔物を退治してくれた。今のノアトーン騎士団じゃ到底できない事だろうけどね。そのお陰で、あの街道も割りと魔物の徘徊が少なくなったんだよ」
その場の誰もが肩を落とし、何一つ言葉を発する事が出来ずにいると、ミラルダはこの重い雰囲気を和ませようと笑って見せた。
「あははは、ごめん、ごめん!辛気臭い話しになっちゃったね。もう過ぎた話しさ!私は一人で気儘にやってる今の生活も嫌いじゃないんだよ!ほら!飲み直し、飲み直しー!」
張り付けたような笑みを浮かべ、気丈に振る舞うミラルダを見て、ここで堪らず口を開いたのは、ずっと彼女の話しを聞きながら拳を握っていたロバートだった。
「だから、お前は馬鹿だって言うんだ」
「は?突然、何なのさ、ロバート」
ミラルダは、悪態吐いたロバートを怪訝な顔で見遣った。
睨みつけるようなミラルダの目を意にも介さず、ロバートは低い声音で答えた。
「寂しいくせに、いつまでも強がって。過ぎた話しと言うのなら、さっさと新しい伴侶でも見付けたらどうなんだ」
「おい、ロバート、それはミラルダが決める事だろ、お前が言う事じゃ…」
シグリッドがそう言って止めるも、ロバートは改めるどころか厳しい言葉をミラルダに浴びせた。
「いつまでも、居なくなったヤツの亡霊を見て生き続けるなんて、馬鹿としか言い様ないだろ」
ロバートの声が重くミラルダに響く。
ぎり、と奥歯を噛み締め、彼女は悔しげに声を上げた。
「アンタに何が分かるんだい。私はマラットとの想い出を大切にしたいだけさ!愛した人の姿を見続けて何が悪いッ!」
「それをマラットが望んでいるとでも言うのかよ!お前がいつまでも、過去から踏み出せずにいる事をッ!アイツが望んでいるって言うのかッ!」
睨みあう二人に一触即発の危機を感じて、その場に緊張が流れる。
ここで、折角の同窓会を壊すまいと、勇気を振り絞ったコルサが席を立った。
「お、落ち着けって、二人とも!また口喧嘩エスカレートさせるつもりかよ!一年に一度の集いだぞ!楽しくやろうぜ!」
コルサに続き、困ったような笑みを浮かべたアイリスも、共に二人を宥めようと口を開く。
「そそそ、そうです!ミラルダさん!ロバートさん!この激辛鶏団子を食べて、一旦落ち着きましょう!」
「いや、それ、とても落ち着ける食い物じゃないぞ、アイリス」
妻が激辛鶏団子なる料理が乗った皿を手に立ち上がると、シグリッドは半眼を向けて突っ込んだ。
必死に和ませようとするコルサとアイリスの努力も虚しく、ミラルダは席を立ち上がると、部屋の出入り口を目指して歩き出した。
「気分が悪い、すまないけど、私、今日はこれで帰るよ」
「おい、ミラルダ!」
ルシアンが立ち上がって彼女を引き留めようとした直後に、ロバートも同じく席を立ち、一歩踏み出す。
「俺も、帰らせて貰う」
「ええ!?ロバートまで!」
彼の隣にいたコルサがそう叫んで引き留めようとするも、二人は背を向けて部屋を出て行ってしまった。
とんでもない事になってしまったと、アイリスは困ったようにシグリッドを見上げる。
「あ、あなた…追いかけましょう?ミラルダさんもロバートさんもこのままじゃ良くないわ」
「ああ、そうだな」
頷いたシグリッドは席を立ち、ルシアン達をその場に残して、アイリスと共に二人を追いかけた。
――――すっかり夜も更け、人も疎らな大通り。
街灯の下をゆっくり歩くロバートの姿をその目に捉えて、シグリッドは声を上げた。
「ロバート!」
ミラルダの方をアイリスに任せ、シグリッドはロバートを追い掛けて引き留める。
彼の声に振り返り立ち止まったロバートが、訝しげな顔で問いかけた。
「シグリッド、どうした」
「どうしたじゃねぇだろ。ミラルダを刺激するような事ばかり言って、どういうつもりだ、お前」
「…」
問われたロバートは俯き、どこか苦しげな表情のまま睫毛を伏せる。
昔からロバートという男は口数も少なく仏頂面で近寄りがたい雰囲気を持っていた。
だが、その実、誰よりも仲間思いで周囲に気を配れる男なのだが、その本心が相手に伝わらない一面があった。
シグリッドは、そんな彼の性格を知っているからこそ問い掛けた。
「俺には、お前が何の考えも無しに、アイツにあんな事を言うなんて思えない。マラットが亡くなった時も、お前が一番ミラルダの傍にいたって事はルシアンから聞いてる。それを…」
「心配なだけさ、アイツの事が」
「え?」
ロバートは観念したように目を開くと、シグリッドとは視線を合わせないまま言葉を継いだ。
「マラットを失ってからこっち、アイツは今でも夫がいなくなった事実を受け入れられていない。人前では気丈に振る舞ってはいるが、一人になれば現実から逃れたいばかりに酒に溺れるような日々を過ごしてるんだ。そんなアイツの姿を、もう…見ていられない。シグリッド、俺は、自分で自分を最低な男だと思ってるよ。何を文句言うでもなく寄り添って来てくれた今の妻を…裏切ろうとしている」
「ロバート、お前…」
ここで漸くシグリッドに視線を合わせたロバートの瞳は、迷っているようなそれだった。
「アイツの傍にいてやりたい。お前も知っているだろう?俺が、昔、ミラルダに想いを寄せていた事を」
昔から口喧嘩が絶えない間柄の二人だったが、ロバートがミラルダに好意を寄せている事は、幼馴染みの男達は皆知っていた。
しかし、ミラルダとロバートが互いに他の誰かと結ばれた時に、彼のその想いは打ち消されたのだと思っていたシグリッドは、そうではなかったのだと、ここで初めて知る事となった。
悲痛な表情を浮かべるシグリッドを一瞥し、ロバートは募らせて来た思いの丈を隠す事無く口にした。
「マラットとミラルダが結婚して、俺は喪失感の中、アイツへの気持ちを忘れたい為に別の相手を探した。そして、今の妻と出会い結婚。勿論、妻に愛情がない訳じゃない。俺には勿体無い程に出来た嫁さ。だが、ミラルダがマラットを失った時、俺は、ミラルダの傍にいる己を思い描いてしまった。最低だろう?自分でもそう思っているのに、俺はミラルダへの思いを断ち切れずにいるんだ」
シグリッドは、今の妻と、かつて強い想いを寄せていたミラルダの間で心を揺らすロバートを見て、険しい表情を向けた。
「お前がミラルダを想う気持ちは分かった。だけど、契りを交わした妻の想いを蔑ろにするのは、絶対にやってはいけない事だ。もう一度よく考えろ、お前に、本当に必要な人が誰なのかを」
そう厳しく言われたロバートの脳裏には、妻とミラルダの姿が浮かんでいた。
はっきりとしない己の感情に苛立ちすら覚えたロバートは拳を握り締め、苦しげに言葉を漏らした。
「そうだな…お前の言う通りだよ…シグリッド…」
一方で、ミラルダを引き留めたアイリスは、ロバートと和解させるべく説得し、夫の後を追いかけて来た所だった。
シグリッドとロバートが話している所へ出て行けず、街のそこかしこに配置された花壇の陰に身を隠し、声を立てまいと口許を両手で押えたまま、タイミングを窺っていたアイリスだったが、彼女と同じようにロバートの本心を聞いていたミラルダは、ふっと口許に弧を描き呟いた。
「本当、馬鹿な男だねぇ、ロバートってヤツは…」
直後、陰から立ち上がったミラルダは、険しい表情でロバートを見据えると、何も臆する事無く彼の元へ向かって歩を進めた。突然の事に驚いたアイリスは、慌ててミラルダの後を追いかけた。
「あ、ミラルダさん!待ってー!」
アイリスの制止も聞かず、ずかずかと男二人の元へ歩み寄って行くミラルダが声を上げる。
「あーあー!嫌だよ!黙って聞いてれば、勝手な事ばかり言ってくれるじゃないか、ロバート」
「ミラルダッ!?」
そこにあるとは思わなかったミラルダの姿に、ロバートが驚いて目を見開く。
ミラルダの後を追って駆けて来たアイリスは、眉を下げたままシグリッドの元へ駆け寄ると、不安げに夫と顔を見合わせて、ミラルダが継ぐ言葉に耳を傾けた。
「アンタに気にかけて貰わなくたって、私は一人でもやって行けてるよ!マラットとの想い出を胸にね」
「…」
ミラルダの目は、やはり今でも己ではなくマラットを映している。
どれだけ己が想いを告げようとも、亡くなった夫には勝てやしないのだと、ロバートはどこか敗北感を覚えていた。
そんな彼の胸の内を理解したのか、ミラルダはロバートの肩に軽く拳をぶつけて続けた。
「フィアンセ探しだって、この私が全くやっていないとでも?こう見えて、結構若い男と遊んだりもしてるし、チャンスがあれば再婚だって考えてるよ!大体、一度愛した女を簡単に手放そうなんて言ってる男、私はごめんだね!」
「ミラルダ…」
悲痛な瞳を向けるロバートに、ミラルダはぶつけた拳を下げると、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「帰りな、アンタの帰る場所は私の所じゃない。いつでもアンタに寄り添ってくれる健気で可愛い妻の所だろう?気持ちだけ、ありがたく貰っておくよ、ロバート。アンタとは、ずっと、口喧嘩できる友人でいたいんだ」
そうはっきり告げられたロバートは、それ以上何も言えずに俯いた。
一方、どこかすっきりしたような顔のミラルダは、アイリスに顔を向けて声音明るく告げる。
「いやー、悪かったね、アイリスちゃん。イライダさんにも詫びておいてよ。今度、今日の埋め合わせするからさ。女同士、食事にでも行こうじゃない」
「え?あ、はい!」
突然話を振られて目を瞬かせたアイリスが頷くと、ミラルダはシグリッドに軽く手を上げて、それを挨拶変わりにその場を去って行った。
肩を落としたロバートを一瞥したシグリッドは、彼に前を向いて欲しいと願いつつ、その背を優しく叩いてやった。
「ロバート、お前も、過去を清算する時じゃないのか?」
ロバートは去って行くミラルダの背を見詰めたまま、最早、否定する事なく頷いた。
「…ああ、そうだな」
こうして、この年の同窓会は終わった。
何とも切ないこの展開を、誰もが予想できずにいたが、過去の想いを引きずって来たロバートと、そして、未来へ向けて歩き出そうとしているミラルダ、二人がそれぞれ悔いのない人生を歩めるようにと、皆、願うばかりだった。
―――――そんな事があった翌週の事。
午後の客足が途絶えた芳ばし工房の店内で、レジカウンターに寄り掛かり、レシピを確認していたシグリッドは、何か言いたげに見て来る妻を一瞥し問いかけた。
「何だよ、アイリス。さっきからじろじろと」
「んー…聞こうか聞くまいか悩んでたんだけど…やっぱり、聞くことにする!」
「うん?」
「ねえ、その後、ロバートさんとミラルダさん、どうなっちゃったの?」
二人が仲直りしたのかそうでないのか、ロバートについては、彼と妻との関係まで気になっていたアイリスは、もやもやとした日々を過ごしていた。
だが、そんな不安げな妻とは逆に、シグリッドは相変わらずレシピに目を向けたまま、当たり前のように答えた。
「ああ、あの二人なら、相変わらずらしいぞ?」
「え?相変わらず?」
どういう意味かと、アイリスが首を傾げると、店の扉の向こうから、聞き慣れた声が響いて来た。
「信じられないわ!アンタ、そんなのでよく結婚できたね!」
「放っておけ!こんな俺を良いと言ってくれる女もいるんだよッ!」
ドアベルを鳴らして扉が開くと、シグリッドは、ふっと笑みを溢し、本のように綴じてある羊皮紙のレシピ集をカウンターに置いて腕を組んだ。
「ほーら、来た」
そして、直ぐに店内に入って来た人物の姿を見て、アイリスが声を上げる。
「まあ!ロバートさん!ミラルダさん!」
先日の険悪なムードは、最早、皆無。
二人は至っていつも通りの二人だった。
「ちょっと聞いてよ、アイリスちゃん、コイツ、妻の誕生日祝いに何買って来たと思う?」
「え?奥様のお誕生日のお祝い?」
呆れて溜め息を吐きながら言うミラルダに、アイリスが不思議そうな顔をすると、彼女は眉を潜めたままロバートを指差して続けた。
「そう!誕生日プレゼントだよ?妻が生まれた日を祝う贈り物だよ?それなのに、コイツ、紐パンティ買ってんの!普通、贈るッ!?」
それを聞いて多少驚いたシグリッドが、意外そうな顔でロバートを見遣る。
「紐パン…ッ?ロバート、お前…意外とスケベだな」
「違うッ!何を贈ったら良いか迷っていたら、服飾店の店員がこれを薦めて来たんだよッ!」
顔を真っ赤にさせて答えたロバートは相変わらず仏頂面で、シグリッドとミラルダはそんな彼を半眼で見遣り、順に口を開いた。
「いやいや、薦められても普通買わねぇだろ」
「ああ、買わないよねー」
「お、お前ら、その蔑んだ目で見るのやめろッ!」
ロバートが二人を指差して目を吊り上げる。
馴染みの三人がそんなやり取りをしている中、アイリスは、何をそんなに狼狽えているのかと目を瞬かせた。
「私は…」
「?」
一斉に皆がアイリスに注目すると、彼女は満面の笑みを浮かべて、迷い無く告げた。
「私は、大好きな人が一生懸命に選んでくれた物なら、紐パンティであろうと紐ブラジャーであろうと、なんだって嬉しいですけど」
それを聞いた男二人が面食らった顔をする傍らで、ミラルダは感心したように息を吐き、アイリスを、ぎゅっと抱き締めた。
「この子…いい子だわー」
ミラルダがアイリスを愛でている中、シグリッドはといえば、妻の言葉を聞いて、何か良い事でも思いついたと言わんばかりに鼻の下を伸ばした。
「ああ、じゃあ、俺も一生懸命選んで来ようかなー、そういう下着」
「アンタはあからさまに下心見えてるよ!煩悩に忠実なヤツめ!」
と、ミラルダの冷ややかな突っ込み。シグリッドは緩んだ頬を叩いて真剣な顔を作ると、妻を見詰めて問いかけた。
「いや!俺だって一生懸命に選んでみせる!透けてるヤツとか、どうだ?アイリス」
「もう、やだー!あなたったら、変態ーッ!」
「いて!結構思いきりのいいパンチ飛ばさないで下さい、奥さん」
嫌だと言いながらも、どこか嬉しそうに頬を染めて、夫に拳をぶつける妻アイリス。
ミラルダはそんな夫婦のやり取りを尻目に、ロバートに、少し意地の悪い笑みを向けた。
「プレゼントはイマイチでも、せめて、食卓に並ぶパンくらいは、いい物にしないとねぇ、ロバート」
「放っておけ!というか、なんでお前までここに来てんだ!」
「あら、私は昼食のパンを調達に来たんだよー」
「ついて来るな!俺と時間をずらして来い!」
「なんだい、その言い種は、なんでアタシがアンタの予定に合わせて動かなきゃなんないんだよ!」
二人がまた口喧嘩を始めると、そこで、苦笑いを浮かべたシグリッドが、レジカウンター上に準備していた、篭盛りのパンを持ってロバートに差し出した。
「ほら、ロバート、注文貰ってたパン、出来てるぞ」
まるで薔薇のような形をしたパン。
リボンを添えた篭に敷き詰められたそれは、花束に見立てたもののようだった。
ここで、アイリスは口許で両手を合わせると、納得したように頷く。
「まあ、沢山のこの『ロゼッタ』は、ロバートさんがご注文して下さった商品だったのね?」
その問い掛けに、ロバートは照れ臭そうに頭を掻いて答えた。
「ああ、シグリッドが、このパンは薔薇を意味していると言うから…。妻に日頃の感謝を込めて…。花束なんて照れ臭いしな」
ロバートがそう言って目を逸らすと、シグリッドとミラルダは、にやりとした顔で順に口を開いた。
「俺は、紐パンティの方が、よっぽど照れ臭いと思うけど」
「それ、私も同感ー」
「黙れッお前らッ!」
顔を上気させるロバートを楽しげにからかうシグリッドとミラルダ。
そんな幼馴染達の姿を見て、己が懸念など抱く必要はなかったのだと、アイリスは微笑んだ。
一方のシグリッドも、終始いつものような口喧嘩を繰り広げる二人を見て、ロバートが本当に大切なものを見極めたのだと、優しい瞳でそのやり取りを見詰めた。