壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第十四話 暑くて甘い夏のビーチ
これは、とある夏の日の事。
港町リジンから、馬で数キロ西へ走った先の静かなビーチ。
シグリッドとアイリスは、この場所を見付けてからというもの、涼を求めて毎年ここを訪れていた。
流行りのビーチへの利用客が多いせいか、ここは人も疎らで、各々が十分なスペースを確保できる点も魅力の一つだった。
「はあ…潮風が気持ちいいぜー。喧騒にまみれた街中とは違って、やっぱり海は開放的でいいな」
カーキ色の海水着にサンダル、白い薄手のパーカーを素肌の上から羽織ったシグリッドは、砂浜に立てたビーチパラソルとレジャーシート、そして、己の愛槍と妻手作りの昼食が入ったランチバスケットを置き、大きく背伸びをしながら呟いた。
眼前に広がるのは、空と海を分ける水平線。
潮の香りを含んだ風が髪を撫でれば、シグリッドはその心地好さに目を細める。
そして、ビーチといえば当然のようにある、太陽とは別の眩しい景色。
水着姿の若い女性達が、ボール遊びをしたり、水を掛け合ってはしゃぐ様を遠巻きに見ては、思わず鼻の下を伸ばしてしまうのは男の性というもので…
「ほんっと、開放的だよなー…」
シグリッドが機嫌よく独り言を呟いた所で、聞き慣れた声が彼に喝を入れた。
「こら、あなた!ぼーっとして、どこ見てるのー!」
「ッ!」
恨めしそうな目でシグリッドを見遣る妻アイリスが、両手にソーダ色とチョコレート色のソフトクリームを持って氷菓屋から戻って来た。これに苦笑いを浮かべたシグリッドは、頭を掻きながら慌てて取り繕った。
「い、いや、あはは…ああ、そうそう!お前が妙な男にナンパでもされてないかと心配して、お前の姿を探してたんだよ、うん!」
少々苦しい言い訳だったかと、シグリッドは内心思いながら顔を引き攣らせる。
しかし、そんな夫の懸念とは逆に、素直に言葉を受け取った妻は、感激した様子で瞳を潤ませた。
「まあ、あなたったら…そんなに私の事を…嬉しいぃいッ!」
「ぶばぁあッ!」
恥ずかしげに頬を染めたアイリスは、込み上げて来る嬉しさを留めておけず、勢い余って夫に体当たりをお見舞い。
それがあまりの衝撃で、仰向けに倒れた夫にも気付いていない妻は、未だ体を揺らしながら、興奮気味に何か呟いている。
シグリッドは、余所見していた天罰が下ったのだと一人涙を溢した。
「い、痛ぇ…」
そして、気を取り直したシグリッドが上体を起こして胡座をかくと、アイリスは身を屈め、持っていたソーダ色のソフトクリームを夫に差し出して微笑んだ。
「はい、あなたのご要望通り、ソーダ味のソフトクリームよ」
「おう、サンキュー」
妻からそれを受け取ると、シグリッドは、太陽の光を背にして立つアイリスの姿を今一度 眺めて、少々熱くなって来た体を冷ますように、ソフトクリームを一口食べた。
「あー…そういえば、水着、去年と違うな」
淡い桃色のビキニを着た妻の姿に、思わず見惚れてしまったシグリッドが呟くように言うと、アイリスはまた恨めしそうな瞳を夫に向けた。
「だって、去年あなたが、このビーチでビキニの女の子ばっかり見て鼻の下伸ばしてたから、今年は私も対抗してビキニよ!」
「な、成る程…」
何とも反論し難い事を言われ、苦笑いを浮かべたシグリッドに対し、妻は、先程とは打って変わって満面の笑みを浮かべると、その場で一回転し水着姿を披露しながら問い掛けた。
「どうかしら?似合ってる?」
括れた腰に、白い谷間、暑さで僅かに肌が汗ばんでいるのが何とも色気を漂わせる。
そんな姿を見詰めるシグリッドは、顎に手を添えて、無駄に凛とした顔を作ると、立ち上がって妻に顔を近付けた。
「うん、似合ってる。人の目に触れさせるのも惜しいくらい」
「まあ!このままどこかに閉じ込めて独占したい程、似合い過ぎて眩しいだなんてー!あなたったら言い過ぎよー」
「んー、それは確かに言い過ぎだなー」
一人盛り上がり、いつものように妄想がエスカレートする妻に突っ込みを入れたシグリッド。
ただでさえ、肌の露出が多く刺激的な状況だというのに、ここで小さなハプニングも重なる。
「ああ、ほら、アイリス!ソフトクリームが溶けてるぞ!」
「えー?あらまあ、大変!」
と、溶けて手を伝うクリームを舐めとる妻の姿がどこか艶めかしくシグリッドの目に映り、彼は込み上げて来る欲を抑えようと、眉間に僅か皺を寄せて目を逸らした。
「おい、もう勘弁してくれよ。俺の理性を吹っ飛ばす気か…」
口許に手を当てて呟いたシグリッドの声は妻に聞こえておらず、アイリスは不思議そうに目を瞬かせながら夫の顔を覗き込んだ。
「あなた?何て言ったの?」
「いーや、何でもないよ。それより、日陰でソフトクリームを食っちまおう。ここにいたら陽射しが強いから、すぐに溶けちまうぞ」
二人並んでパラソルの下に腰を下ろすと、膝を立てて座ったアイリスが、チョコレート味のソフトクリームを溶けない内にと一生懸命食べていく。
そんな妻の姿を微笑ましく見て、隣で胡座をかいたシグリッドも、ソーダ味のソフトクリームを食べながら、水平線を眺めた。
「夏の海は、他の季節よりもずっと深くて青いから、なんか好きなんだよな。いつも見てる海が、もっと広く見えるっていうかさ」
果てしなく広がる海に心洗われるような気分で浸っていたシグリッドが、ふと手元に視線を落とすと、アイリスが己のソフトクリームを舐めようと顔を寄せた所だった。
それを見たシグリッドは、呆れたような、それでいて優しい笑みを浮かべ、妻に問い掛ける。
「こら、人の話しを聞いてんのか?お前は」
見付かってしまったと肩を竦めた妻は、慌ててソーダ味を一口食べると、楽しげな笑みを浮かべて答えた。
「聞いてるわ、私も夏の海が好きよ」
「ふーん。じゃあ、お前は何で夏の海が好きなんだ?」
適当に答えたのであろう妻に、少し意地悪な笑みを浮かべてシグリッドが問い返せば、アイリスは取り繕うでもなく、当たり前のように答えた。
「だって、あなたが好きだって言ってるから」
屈託のない笑顔で、飾らない純粋な想いを告げる妻は、シグリッドの目にいつだって愛おしく映る。
柔和に微笑んだアイリスに、シグリッドも同じように微笑むと、また妻の手を溶けて伝うクリームを指差した。
「ほーら、溶けてる溶けてる、人のを食う前に自分のを食っちまえよ、まったく…」
「違う味も、冒険してみたかったのよー」
困ったように眉を下げたアイリスがそう答えると、シグリッドは、ソフトクリームを持つ妻の手を唐突に掴んで続けた。
「そうかい?だったら、俺にも冒険させてくれよ」
そう言うなり、シグリッドは、クリームが伝う妻の手首に舌を這わせる。
「ひゃ…ん…ッ!」
アイリスは、ざらりとした舌の感触に僅か身動ぐと、思わず声を漏らして顔を上気させた。
夫の舌が指先へ到達し、そのままチョコレート味のクリームをひと口食べる様を見ては、どこか色っぽさを覚えて視線を逸らす。
しかし、逸らした視線の先には夫の逞しい胸板や首筋ばかりがやけに目について、それに目眩を覚えたアイリスが困ったように眉を下げると、そんな妻の胸の内に気付いているのかいないのか、シグリッドは、にやりとした笑みを浮かべた。
「変な声出してくれるなよ、アイリス。我満できなくなるだろ?」
「だ、だ、だって…あなたが、手を…な、舐めるからー…」
「はは、他のところも舐めてやったっていいんだぞー?例えばこことか、美味そうだ」
「へ!?」
己の欲に辛坊堪らなくなったシグリッドは妻に顔を近付けると、噛みつくように唇を重ねた。
突然の事に驚いたアイリスが目を閉じる間もなく、シグリッドはそっと離れて、にんまりとした笑みを作る。
「うん、チョコレート味も、なかなかいけるな」
周りは人も疎らとはいえ、こんなにも堂々とキスを交わすなんてと、羞恥で顔を真っ赤にさせた妻は、怒ったように声を上げた。
「あ…あ、あ、シ、シグリッドったら酷い!もう頭がぼーっとして熱いわ!ソフトクリームを食べたら今の思い出すから、だめ!これ、あなたが食べて下さいな!」
そう言って顔を逸らしたアイリスが溶けかけのソフトクリームを差し出すと、シグリッドはそれを受け取り、楽しげに笑って両手のアイスを食べ始めた。
「はは!はいはい、じゃあ俺が責任持って両方食いますよ、奥様」
「うう…シグのバカ!意地悪!あんな風にキスするなんて、ずるいわ!」
先程の情熱的な口付けを思い出せば、顔は益々 上気するばかりで、膝を抱えて顔を俯せたアイリスの耳は赤く染まっていた。
シグリッドは、そんな妻の様子を見遣りながら上機嫌でソフトクリームを食べ終える。
「耳まで真っ赤になっちゃって、本当、可愛いヤツだな、お前は」
「もーう!やだやだ!これ以上、耳元で低い声出さないで!」
両手で耳を塞ぐアイリスを見て、シグリッドは悪戯な笑みを浮かべると、追い討ちをかけるように妻の耳元で囁いた。
「あんまり可愛い事やってると、ここで押し倒しちまうぞー?」
「あああああああああああーん、わーたーしー、なーんにも聞こえてませーん!」
羞恥心を拭い去る為か、はたまた夫の声を遮る為か、恐らくはそのどちらともの理由から、アイリスは相変わらず耳を塞いだままで声を上げる。
「ぶはは!そういうのが可愛いんだって言ってんの」
シグリッドは、そんな妻の様子に吹き出して笑うと、彼女の両手を掴んでレジャーシートの上へ組強いた。
「きゃあッ!や、やめて、あなた!こんなとこで、だめー!」
まさか、本当に押し倒されるとは思わず、アイリスが足をばたつかせて抵抗すると、その口許に人差し指を当てたシグリッドが、妻を落ち着かせようと優しい声音で告げた。
「いきなり取って食ったりしねぇから、ちょっとだけ、お前の赤くなった可愛い顔を眺めさせてくれよ」
「うう…」
見詰める夫の表情があまりにも優しく、やはり恥ずかしさを拭えないアイリスが腕を持ち上げると、シグリッドはその手首を掴んで顔を近付けた。
「こーら、隠してると、もっと恥ずかしい事するぞ?」
「も、もっと恥ずかしい事って?」
「それを俺に聞いていいのかー?」
問われたシグリッドは、アイリスに覆い被さるような姿勢のまま、彼女の太腿から、ゆっくりと胸元まで指先を這わせた。
「こうして、お前の体に触れて、唇を奪う。その先は、分かるよな?アイリス」
シグリッドの指先が、水着に隠れた妻の膨らみの頂きに触れると、アイリスは思わず小さく声を漏らした。
「や…ん」
「お前だって、そんな顔でいやらしい声出して、ずるいんじゃねぇの?」
「そ、そんな声、出してません!」
相変わらず頬の熱が収まらないアイリスは拗ねたような顔で夫を見上げる。このままでは流石にまずいと感じたシグリッドは、妻から離れようと身動いだ。
「フフ、これ以上からかうと、冗談じゃなくなっちまいそうだから止めておこう」
起き上がって胡座をかいたシグリッドの後に続いて、ゆっくり上体を起こしたアイリスは、今度は夫が離れてしまった事に何だか寂しさを覚えて眉を下げる。
「さーてと、身体も熱くなって来たし、ちょっと泳ぎに行こうか、アイリス」
大きく伸びをして振り向いたシグリッドに、アイリスは向き合うようにして正座すると、頬を染めたまま口を開いた。
「シグ」
そう夫の名を呼んだアイリスが、目を閉じて顎を少し上げると、シグリッドはふっと笑みを浮かべて妻に顔を近付けた。
「物欲しそうな顔するなよ、アイリス」
そして、そっと重なる唇。角度を変えて何度も優しく重なる唇に、アイリスは夢中で応えた。
少し顔を離したシグリッドは微苦笑すると、妻の頬を包むように手で触れながら続ける。
「ッたく…涼を求めてやって来たのに、お前のせいで余計熱くなっちまったよ」
そう言った夫に、アイリスは小さく肩を揺らして笑うと、浜辺の氷菓屋を指差して答えた。
「じゃあ、もう一度ソフトクリームを買って来ましょうか?」
「いーや、折角暑い季節なんだから、もうちょっと熱さも楽しもうか」
二人が互いに微笑み会うと、再び唇が重なる。
強い日射しを遮るビーチパラソルが、微かな潮風に揺れる下、シグリッドとアイリスは、暫く体を寄せあった。