壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第十六話 存在理由
波乱で終わったタワーレースから約二週間後。
港町リジンの小さなパン屋、芳ばし工房では、シグリッドとアイリスのいつもの日常が戻っていた。
無事に戻って来た二人を迎え、港町リジンの孤児院では、マデリア院長とマザーソーニャ、そして、シスター達と子供達全員が集い、予定していた食事会が行われた。
親しい者達に囲まれて何気無い一時を夫婦で過ごす。
シグリッドは、最愛の妻の笑顔が隣にある事を改めて喜んだ。
―――――― そして、食事会の翌日、陽もすっかり落ちた頃。
いつものように芳ばし工房でのんびり営業を終えたシグリッドは、昨日とは打って変わって不機嫌な様子で、ダイニング席に腰掛けていた。
何故なら、そこには、妻のアイリスと、もう一人シグリッドにとっては招かれざる客の姿があったからだ。
向かい席に座る招かれざる客を前に、テーブルの外へ投げ出した足を組み、頬杖を着いたシグリッドが眉間に皺を寄せたまま口を開く。
「なんで俺が、自分の妻を誘拐した張本人をもてなさなきゃならねぇんだ」
そう、招かれざる客とは、シグリッドが先日タワーレースに出るきっかけを作った、ノアトーン第二剣騎士団のゲール・レーンだった。
妻アイリスを突然誘拐し、ホープタワーという魔物の巣窟に連れ去った相手を、元同僚とはいえ絶対に許せるものではなく、シグリッドの表情は至って険しいものだった。
これに、ゲールは苦笑いを浮かべるしかなく…
「その詫びをする為にこうして来たんだが、まさか、俺も食事をもてなして貰えるとは思ってもみなかったよ」
「俺は、もてなすつもりはさらさらねぇし、できれば食わずにさっさと帰って貰いたいもんだがな」
テーブルには、アイリスが用意した温かい夕食が並べられ、中央には本日売れ残ったパンが少し篭に盛られている。
困った顔のゲールを見たアイリスは、ふてぶてしく言い放つシグリッドの眉間に、勢いよく人差し指を伸ばして、ぐりぐりと突いた。
「ぐはッ!な、何すんだよ、アイリス!」
「あら、あなたがずっと眉間に皺を寄せて怖い顔してるから、ここに深い皺が残らないように、ほぐしてあげてるのよー」
「お前なあ!コイツに何されたか忘れた訳じゃねぇだろ?何で平然と飯を振る舞ってんだよッ!」
「貴方も私も無事だったんだし、ゲールさんだって、こんなに反省しているんだから、もう良いじゃない、悪気があった訳でもないんだし、ね?」
至ってにこやかな笑みを浮かべる妻に、シグリッドは呆れて半眼を向けた。
「結果的に大事には至らなかったが、そうじゃなかったかもしれない。俺は結果を言ってるんじゃねぇんだよ!その過程の事を言ってるんだッ!うぶッ!」
「ほーらー、しーわー」
また勢い良くアイリスの指に眉間を突かれたシグリッド。
そんな二人を見たゲールが控え目に笑う。
「フフ…本当に仲が良いんだな、お前達は。二人のそんな姿を見ると、シグリッドの怒りも当然だと思う。奥方、この度は恐ろしい思いをさせて、本当に申し訳なかった」
ここでゲールが深く頭を下げると、アイリスは困ったように眉を下げて笑った。
「ゲールさん、頭を上げて下さい。私は怒ったりしてませんから。今度から、シグリッドと何か勝負をする時は、もっと安全な勝負にして下さいね?」
妻の口から出た「安全な勝負」とは、と、シグリッドは頬杖を着いたまま、アイリスに相変わらず呆れたような視線を向けて問い掛けた。
「コイツと勝負なんて二度とごめんだが、一応聞いておこうか。安全な勝負って、どんな勝負をすればいいと思ってるんだ?お前は」
「あー、それ、フローリカさんにも同じような事を聞かれたわ」
「ふーん、それで?お前は、なんて答えたんだよ?」
「レモンスカッシュ一気飲みとか、パン食い競争とか」
それを聞いたシグリッドの表情は、不機嫌なそれから引き攣った笑みへと変わる。
「はあ…平和っつーか、なんつーか…男同士の勝負にそれはねぇだろ。町内の催しじゃねぇんだから…」
妻のアイリスは、そう言われて首を捻ると、思い付く限りのアイデアを上げて見せた。
「だったら、駆けっことか、借り物競争とかー…そうだわ!砂のお城対決はどうかしら!早くて、よりリアルなお城を作った方を勝ちにするの!時間もかかるし、けっこう手先の器用さが求められると思うのよねー」
「孤児院でチビどもがやってる遊びを並べてるだけだな、これは…」
シグリッドが再び呆れた顔で突っ込むと、図星だったのか、アイリスは手を扇ぐように振りながら慌てて否定した。
「そ、そんな事ないわ!大人の遊びよ!当然よ!」
「勝負じゃなくて、もう遊びって言っちゃってるし」
にやりと笑みを浮かべたシグリッドがアイリスをからかうように指摘すると、妻はふいと顔を逸らして答えた。
「と、とにかく!怪我をするような勝負じゃなければ良いの!それは、少しくらいのやんちゃは、男の子だから仕方ないとは思うけど…」
アイリスの慌てぶりを見て小さく笑うゲールが、シグリッドを横目に口を開いた。
「フフ、可憐な奥方だ。シグリッドが夢中になるのも頷けるよ」
「やれやれ、コイツが絡むと怒ってた事も馬鹿馬鹿しくなるようで、調子が狂うよ、まったく…」
額に手を当てて溜め息混じりに答えると、シグリッドは仕方なさそうにゲールへと食事を勧めた。
「折角、妻が作った温かい飯だ。覚めちまう前に食えよ、ゲール」
「ありがとう、シグリッド。では、頂くとしよう」
こうして、どこかぎこちない様子で食事を始めたシグリッドとゲールだったが、ここへアイリスが加わった事で、いつの間にか雰囲気は多少 和やかさを見せていた。
スプーンに掬った温かいスープを冷ましつつ、シグリッドはここで、ゲールに聞きたい事を単刀直入に言ってのける。
「それで?お前、フローリカとはどうなったんだ?」
その場に一瞬の沈黙が降り、ゲールが苦笑いを浮かべると、アイリスは、隠しきれない期待の眼差しとは逆に、夫を責めるような言葉で続けた。
「まあ、あなたったら!そんな不躾に、ストレートに、ずばっとデリケートな部分を聞くなんて、本当、無神経ねー!」
「待ってましたと言わんばかりの顔をしたお前に言われたくないんだけど」
ゲールとフローリカの恋の行方が気になる。そんな妻の内心は読めていると、シグリッドが半眼で突っ込めば、ゲールは食事の手を止めて、有りのままを告げた。
「はは、勝負は勝負。シグリッドに負けた事に変わりはないんだから、当然フローリカと寄りを戻すなんて話しは無くなったよ。だけど、俺は諦めるつもりはない。フローリカへの気持ちは、そんなに簡単に諦めきれるものではないからね。彼女が俺だけを見詰めてくれる、その日が来るまで、俺は、俺自身を鍛え上げる事を誓った。いつか、お前を上回れるように」
ゲールの瞳はライバルを見るそれで、シグリッドが困ったように頭を掻いていると、ここで恍惚な表情をしたアイリスが、両手を祈るように胸元で組み口を開いた。
「好きな女性を振り向かせる為に、剣の技を磨く…ああ、まるでライバルの騎士から彼女を振り向かせようと躍起になる、傭兵の青年リチャードと、美しい女性騎士セレーンの恋のよう…」
うっとりとした顔で口走るアイリスを見て、まさか、恋愛小説の登場人物だとは思ってもみないゲールは、誰の事だろうかと僅かに首を傾けた。
「リチャードとセレーン?」
「ああ、気にしないでくれ、実在する人物じゃねぇから」
と、お決まりのように答えたシグリッド。
そうして、一同が他愛ない会話と食事を一頻り楽しんだ後、食後の飲み物を用意したアイリスが、壁の時計に目をやって口を開いた。
「ねえ、あなた、もう夜も遅いし、今夜はゲールさんに泊まって頂いたら?」
「いえ、奥方、食事をもてなして頂いた上、ベッドまでお借りする訳には…。町の宿を探しますのでお気遣いなく」
詫びの一言を告げる為だけに来たゲールは、こんなにももてなして貰えるとは思わず、恐縮した様子で首を左右に振った。しかし、シグリッドは面倒そうな顔とは裏腹に、妻の言葉に同意するように答えた。
「夏場のリジンは旅人や観光客が多いから、今から宿を探した所で、寝床にありつけない可能性は大だ。不本意だが、一晩くらいなら部屋を貸してやっても構わん」
そう言って眉を潜めたシグリッドが視線を逸らすと、アイリスとゲールは互いに顔を見合わせて口を開いた。
「ふふ、素直じゃないんだから」
「シグリッド…助かるよ」
そして、お茶を飲み終えた後、シグリッドが明日の仕込みの為に工房へ行くと、アイリスは早速、ゲールを部屋へ案内した。
「こちらのお部屋をお使い下さい。ここはシグリッドの祖母が使っていたお部屋で、お客様が来た時には、いつでも使って頂けるように整えていますから」
「お気遣い、痛み入ります」
「浴室はリビングの奥に。着替えはシグリッドの物ですが、宜しければお使い下さい。必要な物があれば、ご遠慮なく申し付けて下さいね」
着替えをゲールに手渡したアイリスは柔らかな笑みを浮かべる。そんな彼女の笑顔を見る度に、ゲールは胸を痛めた。
「奥方」
「はい?」
去って行こうとするアイリスを引き留めたゲールは、憂いた瞳で彼女を見詰めた。
「何故、酷い事をした俺に、そのような笑顔を向けられるのですか」
「え?」
「シグリッドが言うように、危険がまったく無い訳では無かった。貴女が…シグリッドが、命を落としていた可能性だって十分に考えられる。それなのに、貴女は温かく俺を、この家へ迎え入れてくれた…それは、何故ですか」
目を瞬かせていたアイリスは、ふっと口許に弧を描くと、彼の問い掛けに答えた。
「シグリッドが、もし命を落としていたなら、私は、私自身も、貴方の事も許せなかったと思います。でも、シグリッドは無事で、私も無事だったんです。ゲールさんのフローリカさんに対する強い想いを聞いたら、愛する人の為に一生懸命な貴方を責める事なんてできないなって。それに…シグリッドの存在の大きさを、改めて感じられましたから」
己にとってシグリッドがどれほど大切な人なのか、そして、多くの走者を助けた夫が、目の前の命を守る為に強くあろうとする姿を間近に見れたのは、今回の一件があったからこそで、そう思っていたアイリスには、始まりこそ不穏なものだったが、純粋に感謝の気持ちがあった。
「だから、私もゲールさんに、ありがとうを言わせて下さい」
「アイリスさん…」
よもや礼を言われるなど思っていなかったゲールは、面食らった顔を見せる。
しかし、アイリスの優しさがじわりと胸に染みたのを覚えると、ゲールは、シグリッドが騎士を辞めても、その誇りや強さを失わない理由を改めて知った気がして、ふっと笑みを溢した。
―――――― 夜も更けた頃。
ゲールが湯浴みを済ませ部屋へ戻ろうとリビングを歩んでいると、彼は、ふと窓の外に影が動いたのを見て立ち止まった。
月明りの下、裏庭で槍を片手に、藁を束ねて作った数体の人形を相手にするシグリッドの姿が見える。ゲールは、彼の素早い動きを目で追うも、その全てを読みきる事は出来なかった。
気が付けばゲールは、シグリッドのいる裏庭へと歩を進め、その様子を眺めていた。
「フッ!」
静かな呼吸、ひゅん、と、空を切る音、そして、僅かに聞こえる藁を裂く音。鍛え上げられた肉体に振るわれる槍は、シグリッドが薙ぐ度に鋭い一閃を見せる。
こんな風景を、彼が騎士団にいた頃も見ていたと、ゲールは、真剣に技を磨くシグリッドの姿をその目に映した。
「ふう…」
動きを止めて一息吐いたシグリッドは、着ていた黒いシャツの裾をたくしあげ、顎を伝う汗を拭きながらゲールに振り返った。
「まだ眠ってなかったのか」
彼が見ている事に気付いていたシグリッドが声をかけると、ゲールは感心したように頷いて、シグリッドに歩み寄った。
「ああ、ここにお前の姿が見えたものでな、少し様子を見せて貰った。騎士団を去ったというのに、団にいた頃と変わらない鍛練をしているんだな」
「いいや、そうでもねぇよ。騎士団にいた頃は、もっと鍛練に明け暮れてた。今は、槍を振るよりも、パン生地を捏ねてる時間の方が長いくらいだし」
「ハハ、それなのに、タワーレースであれ程の実力差を見せ付けられたのでは、現役騎士の名折れだよ」
藁の人形は、寸分 違わぬ箇所に傷が入っている。それは、その動きの正確さを物語っているもので、ゲールは己を情けなく思うと同時に、今の彼には勝てないだろうと、敗北を認めて続けた。
「タワーレースで、お前を見ていて思った事がある。『民を守る剣』でありたいと、そう言っていたお前は、その言葉通り、目の前で傷つけられようとしている走者を助け、先へ進んだ。本来の騎士の務めを、騎士を引退したお前が一番果たしているではないかと、今も騎士でいる俺としては、目先の勝利ばかりに囚われて恥ずかしい限りだった。そして、その騎士道精神を失わずに、お前が強くあれる理由を、今日改めて知ったよ」
「うん?」
シグリッドが僅かに首を傾けると、ゲールはアイリスの姿を彼の隣に見て、口許に弧を描いた。
「アイリスさん…。彼女の存在自体が、お前を強くしているのだとな」
当たり前の事だが、はっきりとそれを言われて、どこか照れ臭くなってしまったシグリッドが頭を掻いていると、ゲールは、フローリカの胸の内も彼に話して聞かせた。
「シグリッド、フローリカにとって、お前は今でも憧れであり、心に残る大きな存在なんだ。他の女性と結ばれたお前を、今でも慕って病まない。俺がフローリカを諦めきれないのと同様に、フローリカもお前への想いを諦めきれないのだろう」
ゲールから勝負の理由を聞かされた時に知り得ていた元恋人の想い。
アイリスに心を奪われてからというもの、今更、他の女性に己の心が動かされる事は有り得ないと自負しているシグリッドは、ただ、一度は愛した人の幸せを願う事しか出来なかった。
「ッたく…別れてどれだけの年月が経ってると思ってんだ。いい加減、先へ進めと言ってやりたい所だが」
「惚れた相手を想うのに年月は関係ない。俺には、シグリッドが心変わりするなど、奥方とのやり取りを見ていて、最早寸分も感じられんが、フローリカにとっては、その心変わりを願って病まない面もあるのだ」
「いやー…願われてもな…」
苦笑いを浮かべて頬を掻くシグリッドに、ゲールは強い眼差しを向けた。
「だが、いずれ、フローリカの中からお前の存在を掻き消してみせよう。俺が、お前を超えて…」
「ゲール」
二人が互いに笑みを浮かべると、シグリッドは真剣な顔で答えた。
「アイリスを拐った事を全面的に許した訳じゃない。だが、お前の強い想いは尊重できる。フローリカの為にお前と手合わせをするつもりは毛頭ないが、純粋に腕試しというなら、いつでも挑戦は受けてたつぜ」
「ああ、望む所だ」
今も騎士として歩み戦う男、そして、騎士を辞めて愛する者と騎士の誇りを守る為に戦う男。
違った道を歩む二人だが、確固たる想いを貫かんとするその姿勢は同じもので、それは、二人が互いに同志と認めるには十分な理由となった。
――――そして、鍛練の後。
湯浴みを終えたシグリッドは、スタンドライトの明かりだけを頼りに読書していたアイリスの元へと向かった。
ベッド上で俯せに転がっていた妻に覆い被さるようにして、シグリッドが小説を覗き込む。
「今度は、どんな本を読んでるんだー?」
「ふふ、ランさんから借りた恋愛小説よ?漁師の青年と人成らざる者、人魚の娘との切ない恋を描いたお話しなの。あなたも読んでみる?私が朗読してあげましょうか?」
「いーや、結構。お前の朗読は小芝居に変わる事 必至だからな。ほら、読書はもうおしまい、明日も早ぇんだから寝るぞ」
と言って、シグリッドは妻から本を取り上げる。
「あーん!良いところなのにー」
不貞腐れた顔で手を伸ばす妻を遮って、ヘッドボードに本を置いたシグリッドが、彼女の体を抱き上げて仰向けに転がれば、アイリスは夫の上で体を起こし、逆に覆い被されるように体勢を変えると、恨めしそうな目を向けた。
そんな妻に、シグリッドは、にんまりとした笑みを浮かべる。
「読書に耽って、目の下にクマ作って売り場に立たれたんじゃ、普段ぼーっとしてるお前が、いつもにも増してぼーっとすんだろ?そうなると客も困るからな」
「もーう!酷いわ、あなた!」
「はは、そう怒るなって。小説の相手ばっかりしてねぇで、俺の相手もしてくれよ。寂しいだろ?」
怒れる妻を宥めるように優しく笑うシグリッド。
夫の本心を聞いて忽ち表情を変えたアイリスは、はにかんだ笑みを浮かべて答えた。
「ふふ、あなたったら、甘えん坊さんねー」
「怒ったり笑ったり忙しい奴だな、まったく」
やれやれと眉を下げて笑うシグリッドに、アイリスは突如、真面目な顔になり口を開いた。
「ね、あなた」
「ん?」
「ここだけのお話しがあるの。ゲールさんには内緒にしてて?」
「何だよ」
シグリッドが不思議そうに目を瞬かせると、アイリスは眉を下げて続けた。
「私ね、ずっと、ずーっと言いたくて言いたくて我慢してたんだけど、でも、あなたにだけは、やっぱり話しておいた方が良いと思って」
「はは、だから何だよ」
「いーい?絶対にゲールさんには言わないで」
「わ、分かった、分かった」
妻の内緒話しは大抵大した話ではないのだが、あまりに妻が念を押すもので、多少緊張した面持ちでシグリッドは耳を傾けた。
アイリスは、きょろきょろと周囲を確認し警戒して見せると、そっと夫に顔を近付け、口許に手を添えれば小声で話し始める。
「実はね、私、この間のタワーレースの時、フローリカさんから衝撃的な事を聞いたの」
「衝撃的な事?」
「ええ、フローリカさんね、ゲールさん以外に想い人がいるんですって!」
それを聞いたシグリッドは、先程ゲールと話していた事を思い返して苦笑いを浮かべた。
「…はは、あー、そうなの?」
「そうなの!その人の存在が大きいから、フローリカさんにとって、今のゲールさんは同志でしかないって、そうはっきり言ったのよ!だけど、フローリカさんの口振りから、ゲールさんが今後、その人の存在を上回る事が出来たなら、寄りを戻せる可能性は有り得そうなのよね。だから、ゲールさんはフローリカさんの事、諦めてはダメ!それは…フローリカさんは想い人と結ばれるのが一番幸せなのかもしれないけれど…でも、私は、ゲールさんの恋を応援するわ!ね、だから、あなたも応援してあげて?」
そういえば、妻にはフローリカの想いを伏せて交渉したのだとゲールから聞かされていたシグリッドは、それは正解だったと人知れず安堵した。
もし、そうでなければ、こんなにも気持ちよく二人の恋路を応援しようなどとは、妻も思わなかったかもしれない。
フローリカの事に関しては、己の胸の内にしまっておこうと、シグリッドは苦笑いしか浮かばなかった。
「ああ、そうだな」
「ゲールさんの想いが、いつか、フローリカさんに届くといいわね」
アイリスはそう願いながら、夫の胸に頬を寄せて抱き着いた。
そんな妻の髪を撫でながら、シグリッドは、ゲールが強くなろうとする理由を思い返し、己自身にも言えた事だと、静かに口を開いた。
「届くさ。ゲールは、心からフローリカを愛している。その想いがあるから強くなろうと躍起になれるんだ。誰かの存在が自分を成長させてくれるなんて、こんなに幸せな事はないんだよな」
シグリッドは妻の肩を抱いて反応を待つも、彼女の口からは何も返っては来なかった。
「アイリス?」
少し顔を上げて妻の顔を覗いたシグリッドは、アイリスの穏やかな寝顔を見て、ふっと口許に弧を描く。
「今の今まで喋ってたのに、もう眠ってやんの」
驚く程 入眠の早い妻に微苦笑しながらも、シグリッドは妻らしいと笑い、その髪を優しく撫でた。
「おやすみ、アイリス」
小さく言ったシグリッドの手がスタンドライトの灯りを消せば、彼も睫毛を伏せ、妻の温もりを傍に感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
―――――よく晴れた翌朝。
芳ばし工房の開店前に、ゲールは身支度を整え馬を引くと、玄関先でシグリッド達と向き合っていた。
「一晩、ご迷惑をおかけした。ありがとう、シグリッド、アイリスさん」
シグリッドの隣に並んで立ったアイリスは、にこやかな表情で答えた。
「また遊びにいらして下さいね!ゲールさん」
「またって、今回も遊びに来た訳じゃねぇだろ…」
額に手を当て呆れたように言ったシグリッドを一瞥し、ゲールは穏やかな笑みを浮かべた。
「幸せにな、シグリッド」
似合いの夫婦と、その後ろにある小さなパン屋に視線を向けて言うと、ゲールは愛馬に跨り手綱を握る。
シグリッドは顔を上げてゲールと視線を合わせると、ふっと柔らかな笑みを溢した。
「ゲール、お前の想いが、フローリカに届く事を願ってるよ。アイリスも、俺も」
その言葉を聞いて、ゲールは力強く頷くと、馬の腹を軽く蹴って走り出した。
彼にも幸せが訪れるようにと、そんな風に願い、去って行くゲールの背を二人で見送ったシグリッドは、妻に視線を落とした。
「さてと、アイリス、開店準備だ!そろそろ窯のパンも焼けてる頃だろうからな」
「はい!」
今ここにある幸せを守りたい。シグリッドは、そう決意新たに、妻と二人、店内へと戻った。