壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第一話 ようこそ、芳ばし工房へ
朝陽が水平線の向こうから顔を出し始めるよりも少し前。
日中は行商の馬車や大勢の人が行き交う港町リジンの大通りも、まだ商人達が仕度の為にちらほらと姿を見せる程度の人影しかない。
そんな大通りから少し外れた場所に店を構える小さなパン屋、『芳ばし工房』からは、その名の通り、焼き立てパンの芳ばしい香りが漂っていた。
「よし、ジャムとコロネ、クロワッサンはオッケーだな。石窯の方はー…後、もう二、三分か」
店主のシグリッド・ジャンメールは、石窯の覗き窓から中の様子を確認しつつ、今し方、オーブンで焼けたばかりのパンを篭の中へと入れていく。
それらを手に取ると、彼は厨房を出て店先へと向かった。
「…って、おい!アイリス!お前、何やってんだ!」
と、声を上げたシグリッドの目には、何枚もの白い皿をバランス悪そうに抱える妻の姿が映ったもので、彼は持っていたものをカウンターテーブルに置きながら、慌てて彼女に駆け寄った。
「あら、おはよう、あなたー」
今にも崩れ落ちそうな皿の山を抱えたアイリスが、呑気に緩い笑みを浮かべると、それを見たシグリッドは目を丸くし、山が崩れたなら受け止めるつもりで身構えた。
「いやいや、おはようじゃねぇよ!こんなに高く皿を積んで、お前はどこへ向かうつもりだ!」
「もう…朝から大きな声を出して、まだ暗いのに、お隣のニワトリが目を覚ましたらどうするのよ」
「いや、お前のその姿に目が覚めるというか何というか…」
引き攣った笑みを浮かべる夫の言葉を聞いて、何故か妻は嬉しそうに頬を染めた。
「まあ、あなたったら!私の姿でどんな想像をして目を覚ましたっていうの?いやらしい!」
「この光景から、いやらしい想像は誰もできねぇだろ…」
という、シグリッドの小さな突っ込みに気付いていない妻が、恥じらって体を左右に揺らすと、絶妙にバランスを保っていた皿はかたかたと音を立て、それに焦ったシグリッドが悲鳴を上げた。
「ぎゃあ!落ちるッ!動くな、アイリス!」
妻の両肩に手を添えて、皿の揺れが収まるのを待てば、シグリッドは安堵の息を漏らした。
「ふ、ふう…」
「ありがとう、シグリッド!このお皿、そこのテーブルまで運ぼうと思っていたの。ほら、使っていないお皿を整理して、孤児院に寄付しようって、あなたが」
シグリッドは、積み上がった皿を落とさないように、少しづつ手に取りながら答えた。
「それは、昨夜そんな話もしたけど、何も、朝っぱらからやらなくたって良いだろ?店の方の準備もあるし」
「うん…でも、院長先生が、新しく五人の子供達を受け入れたって先週言っていた事を話したじゃない?その子達の分も、早く用意してあげたいし…ね、直ぐに終わるから、良いでしょう?」
アイリスは、運び終えた皿を一枚ずつ両手に取ると、夫に懇願するような瞳を向ける。
そんな妻に、困ったような笑みを浮かべたシグリッドは、慌てた商売でもない事から、快く頷いた。
「分かった、分かった、皿を整理したら、店先へ焼き上がったパンを並べてくれよ?」
「ええ、勿論!がってんしょうちのすけよッ!」
「なんなの、その返事」
ぱっと表情を明るくさせたアイリスは、どの子にどんな皿が良いかと、早速、真剣な顔付きで品定めを始める。そんな妻の姿を見て、シグリッドは柔らかく微笑んだ。
「自分も幼い頃から世話になってた孤児院の事だもんな。早く持って行ってやりたい気持ちも分かるよ」
彼の言う通り、アイリスは訳あって、幼い時分にこの町の孤児院に引き取られ育った。
それゆえに、同じように身寄りのない子供達の為を思う妻の気持ちが分からなくもないシグリッドは、皿選びを彼女に任せて、己は開店準備を始めようと、その場から立ち去った。
そして、それから約一時間後の事…。
「アイリス、フィセルとチーズクッペも焼き上がったから、そろそろ…」
日の出も始まり、隣家の小屋から鶏の鳴き声が聞こえる頃、パンの乗ったトレーを手にしたシグリッドは、未だ皿とにらめっこをしている妻の姿を見付けて、呆れたように半眼を向けた。
そんな夫の姿に気付いたアイリスは、助けを求めるような瞳を向け、両手にそれぞれ柄の違う皿を取り上げて見せた。
「ねえ、あなた、こっちの花柄のお皿と、こっちのチェック柄のお皿、孤児院の子供達、どっちが好きだと思う?」
「まだ選んでたのかよ…まあ、そんな事だろうとは思ってたけどね」
店頭の篭に並べられていないパンを一瞥すると、シグリッドは、妻の性格上、予測はついていたと微苦笑し、特に慌てた様子もなく、返答を待つ妻の元へ歩み寄った。
「迷うくらいなら、両方やれよ。子供が多いんだから、食器は多くても困らないだろ?」
「え?」
真剣に悩んでいた己とは逆に、あっさりとした回答だと、アイリスは目を瞬かせた。
「でも、この食器は、シグリッドのお祖母様が残したものでしょう?」
今は亡き祖母の物。シグリッドにとって思い入れのあるものだからこそ迷っていたアイリスだったが、当のシグリッドは、それほど気にしてもいなかったのか、至って軽い様子で答えた。
「構わないよ。ばあさんも、棚で寝かせているよりは、チビどもに使って貰った方が喜ぶさ。だから、その二枚と言わず、もっと持って行ってやるといい」
「あなた…」
アイリスは、胸元で両手を祈るように組んで夫を見詰めると、感極まって彼に飛び付いた。
「ありがとう!あなたって本当に優しいのね!」
「おい、こらこら、そんなに引っ付くなって、誰か来たら…」
持っていたトレーを頭上に上げてパンが落ちるのを回避したシグリッドは、困ったような笑みを浮かべる一方、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうで、抱き着く妻を引き離すことはしなかった。
そこで、間が良いのか悪いのか、店の玄関扉がドアベルを、からん、と鳴らして開いた。
「おはようございます!ご注文頂いていたバターをお届けにあがりまし…」
両手で抱える程の大きな缶に入ったバター。いつもシグリッドが商品を注文している業者の青年は、にこやかに挨拶をするも、仲睦まじい夫婦が朝から誰もいない店内で引っ付いていたのでは、良からぬ想像をしてしまうもので…。
「うわ、すみません!お取り込み中に!出直します!」
「いや、違うから!取り込んでないから!」
青年から慌ててバターを受け取り、出て行くのを見送ったシグリッドが小さく息を吐いて振り返ると、アイリスは皿を大事そうに胸元に抱えて微笑んだ。
「ふふ、院長先生も子供達も、きっと喜んでくれるわ」
そんな妻の姿を見て優しく微笑み返したシグリッドは、壁掛け時計を一瞥して、パンの乗ったトレーを妻に差し出した。
「ほら、時間だ。パンを並べて!開店するぞ」
「はい!」
アイリスは頷くと、皿を一旦工房に収め、夫が焼いたパンを慣れた手付きで店先に並べて行く。
それから数分の後に、再び店の玄関扉が開けば、数人の客が芳ばしいパンの香りにつられてやって来た。
客層は、常連であったり、この街を訪れた通りすがりの旅人であったりと様々で、パン以外にも、スープや珈琲などの提供もしている事から、店内奥の窓際に設けられた小さなカフェスペースで、食事を取る客も少なくない。
朝一番は多少忙しいが、開店から一時間もすれば客足は徐々に減っていく。
落ち着いた頃に、シグリッドは店内を妻に任せて、再び工房へパンの追加を作りに行くのだが、その時間、ほぼ毎日と言って良いほど、店頭に顔を覗かせる人物がいた。
「アイリスちゃん、明後日は食パンを二斤準備しておいて貰えるかい?孫が大勢来るからサンドイッチでも拵えてやろうと思ってね。うちの孫達、ここのパンが大好きだから」
「はい!ありがとうございます!明後日の何時頃にお越しです?焼き立てをご用意しますから、お時間を…」
老婆から注文を取るアイリスの姿を、店の窓外から遠巻きに見詰める男の姿。
不審者感丸出しのその男こそ、先程述べた、ほぼ毎日店頭に来る人物で、シグリッドは工房の奥で作業をしながら、その人物の姿を捉えると、呆れたように溜め息を吐いた。
そして、店内を最後に出て行った老婆と入れ違いに、窓からアイリスを眺めていた男が、無駄に凛々しい顔を作って入店してきた。
「あら、コルサさん、いらっしゃいませ」
にこやかに迎えたアイリスに、コルサと呼ばれた小肥りの男は頬を染め、トレーとトングを手に、クロワッサンを数個取りながら微笑む。
「おはよう、アイリスちゃん、今日も笑顔が眩しいね!」
「まあ、お花屋のご主人は、いつもお世辞がお上手」
小さく肩を揺らして笑うアイリスの可憐な姿に、コルサは益々頬を染めた。
「いやいや!世辞なんかじゃないよ!芳ばし工房のクロワッサンを買って、アイリスちゃんの笑顔を見てから、俺の一日は始まるんだから!」
ずい、と体を寄せて来るコルサに、一歩引いたアイリスが苦笑いを浮かべると、そこへ、腕を組んだシグリッドが現れ、半眼を彼に向けた。
「おい、コルサ、人の嫁ばっか口説いてねぇで、買うもの買ったらさっさと帰れよ。こんな所で油売ってたら、またお袋さんにぶん殴られるぞ」
「何だよ、シグリッド!テメェばっか、なんで昔から女にモテるんだよ!ずりぃぞ!こんな可愛い嫁貰ってッ!ずりぃぞーッ!」
シグリッドとコルサは、同じこの街出身で幼馴染みの仲。片や既婚者で、片や恋人いない歴何十年。仲の良い幼馴染達の中で、唯一独身の彼は、嫉妬で目を吊り上げる。そんなコルサが放った言葉に、アイリスは、僅かに染まった己の頬を包むように手を添えて恥じらいだ。
「可愛いだなんて、そんなー…分かりました、コルサさん。これは褒めて下さったお礼です、二つおまけします!」
「おお、アイリスちゃん、天使!女神様!そんな君が好きだ!」
クロワッサンをトングで掴んで、コルサの持つトレーに二つ追加した妻を横目に、シグリッドは面白くなさそうに口を開いた。
「こら、お前も調子に乗っておまけなんかしてんなよ」
「ふふ!」
いつもそこにある他愛もない風景。愛する人と、のんびりパン屋を営む何気無い日常の中で、アイリスは酷く幸せだった。
しかし、その幸せな日常の中にも、不穏は突如としてやって来る…。
カフェスペースを利用するカップルと、店内のパンを選ぶ二人程の客の中、正装をした初老の貴族の男が、シルクハットを目深に入店して来た。
上流層の貴族が下層に降りて来るのは、この町では珍しくない光景なのだが、服装など、やはり気品の違いもあり周りの目は向いてしまう。彼を迎えたアイリスは、何か察したような顔で男に歩み寄った。
「いらっしゃいませ…」
挨拶を受けた男は、シルクハットを取ると、懐に手を伸ばし何かを探りながら口を開いた。
「失礼、麗しいご婦人、シグリッド様とは、この店の店主かな?」
「はい、そうですが…」
アイリスが頷いた直後、男は、表に白いアネモネが描かれたカードを彼女の前に差し出した。
「これを、ご主人にお渡し願いたい」
「ッ!」
察していた事は間違いではなかったと、アイリスは眉を下げて、カードをそっと受け取った。
「ご注文は、『スフォリアテッラ』と『チキンクリームシチュー』ですね?」
カードの裏面に書かれた品名を見て確認すると、何迷う事なく頷いた男を一瞥し、アイリスは、彼を店奥のカフェスペースへと案内した。
「こちらのお席で、お掛けになってお待ち下さい」
張り付けたような笑顔で軽く頭を下げたアイリスは、受け取ったカードを手に工房へと向かう。
そして、近付いて来る妻の足音に気付いたシグリッドは、作業をしながら口を開いた。
「アイリス、窓際テーブルのカップルが注文したマフィン、もうすぐ焼き上がるから、珈琲の準備を頼む」
シグリッドの傍に歩み寄ったアイリスが俯いて肩を竦ませると、シグリッドは怪訝な表情で問いかけた。
「アイリス?」
「あなたに…これを…」
妻の手から、すっと出された白いアネモネのカード。シグリッドは表情を僅かに変えると、それを受け取り、裏面に視線を落とした。
そんな夫の横顔を見て、アイリスはどこか不安げな顔で小さく告げる。
「スフォリアテッラとチキンクリームシチューをご注文なさったわ」
「そっか。やれやれ、最近多いな」
そう言って一度作業の手を止めたシグリッドが、ズボンのポケットからペンを出して、カードに何か文字を書いて行く姿を見詰めたまま、アイリスは黙って眉を下げた。
程無く、貴族の男が注文した商品をトレーに乗せて、アイリスは店内へと戻る。
「お待たせしました、ご注文頂いた、スフォリアテッラとチキンクリームシチューです」
「どうも…」
皿に乗ったスフォリアテッラという、貝殻のような形をしたパンの下には、先程、男が出したアネモネのカードが敷かれていた。
彼は、然り気無くそれを手に取ると、そこに書かれた文字に目を向ける。
「19:30に裏口へ」と、一言書かれたカードを確認すると、男はそれを懐に仕舞い込んだ。
そして、普通に食事を取り、最後に珈琲を注文してゆっくり飲み干した男は、ハットを深く被り、アイリスに頭を下げると店を出て行った。
「ありがとうございました。また、お越し下さいませ」
そう言って客を見送ったアイリスの表情は、どこか浮かないものだった。
――――陽も沈んだ頃、店を閉めて直ぐに、今朝選んだ皿を持って孤児院へと出掛けた妻を見送って、シグリッドは、時計の針が19:30を指す前に裏口へと向かった。
裏庭には石窯に使う薪を収める納屋と薪割りのスペース、そして、備品倉庫と愛馬一頭が住まう馬小屋があり、後は子供が駆け回って遊べる程の広場がある。シグリッドが裏口のドアを開くと、木製の柵に囲われた庭へ、昼間、店頭に来た男の姿があった。
「ようこそ、芳ばし工房へ…」
眉を潜めたシグリッドは、そう言って男を招き入れると、しんと静まり返った店内のカフェスペースにあるテーブル席へと通した。
「どうぞ、お掛け下さい」
「では、失礼します」
ギンガムチェックの清潔なクロスが敷かれたテーブル。男が腰掛けると、シグリッドも遅れて向かいの席に腰を下ろし握手を求めた。
「今更、自己紹介する必要もなさそうですが、シグリッド・ジャンメールです」
「私は、ローデン・フラットニー。お見知り置きを」
ローデンと名乗った男と握手を交わした所で、シグリッドは、挨拶もそこそこに本題に入った。
「それで、護衛の対象者は今どこに?」
「ッ!何故、護衛の仕事だと…」
ローデンが驚いて目を見開くと、シグリッドは、さも当たり前のように答えた。
「ノアトーン第二槍騎士団団長…ペレスから、スフォリアテッラとチキンクリームシチューを注文するように言われたんでしょう?」
「え、ええ…」
「うちは、注文されたもので仕事の内容を粗方読めるようにしています。貝殻の形をしたスフォリアテッラは、何かを固く守護する意味を持ち、チキンクリームシチューは、白色、つまり、身の潔白が証明されている人物を意味している。何か、謂れのない罪で追われている人物の護衛といった所…ですか?」
「成る程、そういう仕組みだったのですね…そこまで察しておられるのなら話しは早い」
ローデンは悲痛な表情を浮かべて俯くと、膝の上で固く拳を握った。
「護衛をして頂きたいのは、私の友人です。私は、しがない商人でしてね、それでも、人道を外れた商売はせず、真っ当にやって来たつもりでした。しかし、先の取り引きで、奴隷商人と繋がる仕事に関わってしまいまして…荷運びの仕事と聞いて引き受けましたが、まさか…」
ローデンは、知らなかったとはいえ、悪徳商人に手を貸してしまった事を悔い、その罪を償うつもりで、捕らわれていた子供達を逃がし、その友人に預けたのだという。
「暫し、隠し通して来ましたが、相手も商品を取り返そうと必死で、私や、私の周囲にも、彼が雇う賊の危険が及ぶようになりました。そして、とうとう子供達を匿っている友人の事までも知られてしまい、何の謂われもない彼にも危険が及び始めた。困り果てていた私は、ある筋の知人から、ノアトーン王国騎士団と秘密裏に繋りを持つ『特別な場所』がある事を知らされました。そこでは、騎士団や自警団に請け負って貰えないような仕事を受けて貰えると…。結果ペレス団長を頼り、ここを紹介されたという訳です…」
「そうですか…貴方もご友人も、災難でしたね…」
友人の救助も去ることながら、悪徳商人などと繋がりを持った事が公に知られては、今後の商売にも支障を来す。
彼が、ここを頼った理由を知り納得したシグリッドが悲痛な思いで眉を下げると、焦りを募らせるローデンは声を上げた。
「このままでは友人ばかりか、孤児院の子供達にも被害が及び兼ねない!どうか、彼らを守ってやっては頂けませんか!」
「ッ!」
ここで、孤児院という言葉を聞いたシグリッドは、驚いて目を見開いた。
「孤児院ッ!?孤児院というのは、ひょっとして、この町の?」
「ええ、そうです、リジンの町外れにある孤児院。私の友人は、院長のマデリア・グリーンです」
「ッ!」
それを聞いたシグリッドが険しい顔で席を立ち上がると、ローデンは何事かと不安げに問いかけた。
「あの…シグリッド様、この依頼、引き受けて下さるのか…」
「引き受けない理由はありません。マデリア院長とは、俺も、そして俺の妻も親しい仲です。それに…今、その妻が孤児院にいる」
「何ですと!」
ローデンが青ざめた顔で声を上げる。シグリッドは妻の身を案じつつ、急いで身支度を整えると、最後に、騎士の時分から己が得意とする槍を手に取った。ローデンにここで待つようにと告げたが、彼がそれを拒否して手助けを申し出ると、二人は、足早にリジンの孤児院を目指した。
一方、こちらはリジンの町外れにある古びた孤児院。
昼間は草原に囲まれた、子供達がのびのびと暮らせる閑静な場所なのだが、それが仇となった。街灯もろくにない暗闇の中、町の中心部からは離れている為、多少の声や物音が民家に届く事はない。
院内には、数少ないランタンの明かりに灯されただけの薄暗い部屋の中央に、怯える子供達と、若いシスター二人、そしてアイリスの姿を囲う複数の賊の影があった。
「あーあー…可哀想になあ、マデリア院長が、たった五人のクソガキを出し渋った為に、結局、孤児院のガキ全員とシスター二人…そして…」
床に尻を着いて背中合わせに座る一同を一瞥し、ナイフを持った男は、どこか楽しそうにアイリスの傍に腰を落とした。
「たまたま居合わせちゃった気の毒な女一人が、奴隷として売り飛ばされる事になっちまうなんてよー。しかも、この老い耄れシスターと院長二人は、この後、孤児院と一緒に燃やされちゃうっていう悲劇ッ!あー…憐れだねぇ」
恐らく賊の頭であろう男がそう言って、床に横たわる傷ついた神父と老いたシスターを見遣ると、アイリスは、恐怖と怒りに震えながら声を上げた。
「こ、こんな酷い事をして、このまま逃げられるとでも思っているのですかッ!?」
「はははッ!さっきまで、これは、なんのサプライズですかー?なんて言ってた、すっとぼけ姉ちゃんが、吠えるじゃねぇか!」
男はアイリスの顎を乱暴に掴んで上向かせると、持っていたナイフを彼女の頬に当てながら舌舐めずりする。
「なかなかの上玉だし、売り飛ばす前に俺が味見してやっても良いんだぜ?」
「ッ!」
アイリスが男の手を振り切って顔を逸らした直後、彼女の傍に居た一人の少年が、勢いよく男に飛び掛かった。
「この野郎ッ!アイリス姉ちゃんに触るなッ!」
「チッ…鬱陶しいクソガキがッ!」
「うわあッ!」
腕にしがみついて来た少年を簡単に振り払った男は、床にもんどり打って倒れた彼にナイフを振り翳した。
「リュークッ!」
アイリスが少年リュークを庇おうと覆い被されば、手負いの神父が声を上げる。
「み、皆に手を出すのは、おやめなさい!」
「おやおや?院長さんは、まだテメェの置かれた立場がお分かりじゃないようだなッ!」
抵抗しようとする院長を睨み付けた男は、横たわった彼の腹部をその足で蹴りあげた。
「ぐふッ!」
「ああ…院長先生ッ!」
リュークを胸に抱いたままのアイリスを含め、他の子供達を守ろうと抱きしめるシスター二人も悲鳴を上げる。
いい加減、耳障りな声に苛立った男は、懐から懐中時計を取り出し時間を確かめると、周囲に散る賊達に告げた。
「おい、そこのガキどもを縛ったら裏口から連れて行け!西の港に、そろそろ船が到着してる筈だ」
「へい!お頭!」
命令された通りに動き出した男達が、逃げようと暴れる子供達を押さえ付けロープで縛っていく。
「やだ!離せッ!」
「うわあああん!やだよー!こわいよー!」
「助けて!院長せんせー!」
泣きわめく子供達を守ろうと、シスターとアイリスは必死で抵抗を見せるも虚しく、彼女達も手足を縛られ、子供達は無理矢理裏口の方へと連れて行かれた。
その姿を尻目に、賊の頭は、別の部下に指を差して面倒そうに口を開いた。
「おい、オメーら二人は孤児院の周りに油を撒いて来い、さっさと済ませろよ」
「へい!行くぞ!」
「おう!」
油の入った缶を抱え、男二人が部屋を出て行くと、賊の頭は厭らしい笑みを浮かべ、残った女性達に歩み寄った。
「よし、ガキを連れ出したら次はシスター二人と女だ」
そう言って残った部下達に目配せすれば、男達は下卑た笑みを浮かべ、シスター達の元へ腰を落として手を伸ばした。
「触らないでッ!汚らわしい!」
「あなた方には必ず天罰が下るわ!」
舌舐めずりする賊達が、執拗にシスターの体を触ると、小さく悲鳴を上げる彼女達を見て、愉快そうに笑う賊の頭は、ここでアイリスに手を出した。
「さあ、お姉ちゃんも大人しくしてな?」
「いや!近寄らないでッ!」
このままでは皆殺されてしまうと、焦ったアイリスは声を上げ、伸びて来た男の手に強く噛み付いた。
「うがッ!いてぇえええ!このアマァアアッ!」
ぱん、と頬を叩かれたアイリスは手足を縛られたまま身動き出来ず床に転がった。
「死にたくなけりゃ大人しくしてやがれッ!」
噛み付かれた手を擦りながら、忌々しげにアイリスを見て男が怒声を上げる。
そして、持っていたナイフを翳しアイリスに向けた直後、暗闇から突如現れた槍の切っ先が男のナイフを弾き落とした。
「そうだな、抵抗しない方が身の為だ」
そう声が聞こえると、次に振り回された槍の柄頭が男の腹部に鈍い音をたてて埋まる。
「ぐふぅうッ!」
呼吸も出来ず、くの字に体を曲げた男は、その場に膝を着いて踞った。
「な、なんだ…テメェは…一体どこから…」
前屈みのままに顔を上げた男が掠れた声を出すと、横たわったアイリスは、影から姿を現した人物の顔を見るなり、安堵で涙を滲ませた。
「あなたッ!」
「大丈夫か、アイリス」
シグリッドは、妻の傍に腰を落とし、彼女を縛る縄を解いてやると、ゆっくりと体を起こしてやった。
「院長先生が!マザーが!子供達がッ!」
困惑した様子で声を上げる妻を見て、シグリッドは彼女の口許に人差し指を立てると、安心させるように柔らかな声音で告げた。
「しッ…分かってる、もう何も心配しなくていい、アイリス」
「え?」
アイリスの頬を伝う涙を拭ってやると、シグリッドは妻に優しく微笑んだ。
この状況を前に困惑しているのは賊の頭も同じで、先程まで余裕の笑みを浮かべていた彼の表情は一変し、焦りが見えていた。
「おいッ!誰だ!この野郎を中へ入れたのは!」
周りにいる筈の部下達に向けて声を上げるも、返事は一向に帰って来ない。その代わりに答えたのはシグリッドだった。
「残念だが、アンタの声に答えるヤツは一人もいない」
「なにッ!?」
「表に二人、裏口に五人、そして、直ぐそこに三人、よーく眠ってるからな」
シグリッドが言うと、男は視線を巡らせて部下の姿を探す。そして、すぐに暗闇の向こうに倒れた人影を見つけると、額に汗を滲ませた。ゆっくりと近づいてくる得体の知れない人物を前に、賊の頭は上擦った声で問い掛けた。
「ひぃいいいッ!な、何者だぁああッ!」
「それに答えてやる義理もないッ!」
シグリッドは、低い声音で答えると、とん、と床を蹴り、一度にその間合いを詰める。そして、目にも止まらぬ早さで槍の切っ先を突き出し、男の左肩を貫いた。
「ギャアアッ!」
悲鳴を上げた男が、情けなく尻を着いて後退る様を睨むように見下ろし、シグリッドは、槍先で男の腰元を差す。
「どうした?その腰にぶら下げてる剣はお飾りか?」
そう挑発された男は、悔しさで歯噛みしながらゆっくり立ち上がると、血が溢れる左肩を押さえていたその右手で腰の剣を抜き身構えた。
「く…クソッタレェエエッ!」
半ば自棄になった男が剣を振り上げて襲い掛かってくると、その攻撃を流れるように躱したシグリッドは、槍を回転させて勢いをつけると、空を裂くように薙いだ。
「グハアアアッ!」
男はシグリッドの攻撃で剣を真中から折られ、胸に横一文字の傷をつけられると、更に振られた槍の柄頭に強い打撃を食らわされる。そして男は、そのまま飛ぶように孤児院の扉を突き破り、壁に背を強打して項垂れた。
そして、シグリッドの足音がゆっくり近づいて来ると、男は怯えた瞳で彼を見上げる。そんな情けない姿の男を一瞥し、シグリッドは身を屈めて折れた剣先を拾い上げると、今一度男を鋭く睨み付けた。
「忘れ物だ、受け取れ」
「ひいいいぃいいッ!」
シグリッドが振りかぶって、ひゅん、と飛ばした剣先が、男の頬を掠めて壁に突き立つと、堪え切れない恐怖に失禁した男は、そのまま気を失ってしまった。
「あなた!」
駆け寄って来た妻が不安げな顔で見上げると、シグリッドは恐ろしい目に遭ったであろう妻の肩に触れて眉を下げた。
「アイリス、怪我はないか?」
「私は平気よ、それよりも子供達が!」
先程、賊に連れて行かれてしまった子供達を心配するアイリスに向け、聞き慣れない声が程近い場所から発せられる。
「子供達の事なら心配いりません、ここに全員無事でいますよ」
声の方へ振り返ったアイリスは、そこに見覚えのある人物の姿を見て驚き目を瞬かせた。
「あ、貴方は、昼間にお店にいらした…」
その人物とは、シグリッドに言われて子供達を保護していたローデンだった。
まだ年端もいかない子供達はローデンの傍を離れて、アイリスの元へと一斉に駆け出した。
「アイリスねーちゃん!」
「おねーちゃーん!」
子供達と目線を合わせるように腰を落としたアイリスは、飛びついて来た彼らを抱きしめて安堵の息を漏らした。
「みんな!良かった、無事で!」
アイリスが涙ぐんで子供達の頭を撫でてやる一方、孤児院の中では一番年上の少年リュークが、どこか得意気な顔でシグリッドの傍に歩み寄った。
「オレは信じてたぜ!シグリッドがきっと来てくれるってさ!さすがは、オレが見込んだ男だ!」
「はは、相変わらず生意気言うな、リューク」
「へへ!」
リュークの頭をぽんと撫でるように叩いたシグリッドは、子供達に囲まれて微笑む妻の姿を見て、その無事を喜び、口許に柔らかな弧を描いた。
その後、駆け付けた自警団により賊の一味は捕縛されたが、彼らを雇った悪徳商人は、まんまと逃げ切り行方を眩ませたという。
――――そして、その翌日の事。
シグリッドとアイリスは、怪我を負った院長とマザーの見舞いへと、孤児院を訪れていた。
ベッドに横たわる年老いたシスター長に花と果物を届け、暫し会話を楽しんだ後、子供達に引っ張られて庭へと向かったアイリスを見送り、シグリッドは、別室で養生しているマデリアの元を訪れる。
「怪我の具合いはどうです?マデリア院長」
「ああ、順調だよ。君とローデンのお陰で事なきを得た。ありがとう、シグリッド」
孤児院の二階。自室のベッド上で横になっていた院長のマデリア神父は、申し訳なさそうに睫毛を伏せた。シグリッドは窓際に背を凭れると、どこか拗ねたような顔で口を開く。
「水臭いじゃないですか。問題を抱えてたなら、直接俺に言ってくれれば良かったのに」
「いや、この事は誰にも喋らないつもりでいたのだ。だが、事が大きくなり始めてね、子供達にまで害が及ぶと思い、ローデンとどうしたものかと思案していた。まさか、騎士団を嫌っていた彼が、その騎士団を頼るとは思わなかったがね」
ローデンだけでなく、今のこの国の騎士団を嫌う民は多い。シグリッドは、当たり前のようにそう思うと、小さく口を開いた。
「王の周りばかりに目を向け、城下に起こる問題は見て見ぬふりだ…そんな騎士団は嫌われて当然ですよ」
元々、その騎士団の一員として城に身を寄せていたシグリッドは、嫌という程に、現ノアトーン騎士団の理不尽さを知っていた。
思い出せば眉間に皺を刻むような事ばかり。そんな彼の横顔を見て、マデリアはどこか不安げな表情で問いかけた。
「シグリッド、最近、『裏の仕事』が増えて来たそうだね」
「え…?アイリスから、それを?」
問われたマデリアは小さく頷いた。
「あの子は、とても不安に思っている。君が、またどこか遠くへ行ってしまうのではないのかと…」
「…」
シグリッドは窓の外に目を向けると、庭で子供達と楽しげに笑い合う妻の姿を見付ける。その様子を憂いた瞳で見遣るシグリッドを一瞥し、マデリアは、切実な想いの丈を口に出して聞かせた。
「アイリスは、私やマザーにとって娘も同然。あの娘の幸せを何よりも願っている。幼少期には酷い思いしかして来なかったあの子が、君と結ばれてやっと手に入れた幸せだ。それを、壊して欲しくないのだよ…」
「マデリア院長…だから、今回の事も俺に黙って…」
危険な事からアイリスを遠ざけたい。そんな神父の想いがシグリッドに強く伝わった。
「シグリッド…どうか、あの子が…アイリスが笑顔でいられる場所を守ってやってくれないか…」
そう言って頭を下げた神父に、シグリッドは慌てて顔を上げるよう促すと、次いで窓の外に見える、はしゃぐ妻の姿に目を向け、僅か眉を下げた。
その後、見舞いついでに、壊れてしまった扉の修理や子供達との団欒を夕刻まで楽しんだシグリッドとアイリスは、孤児院からの帰り道、小川の流れる遊歩道を通って自宅を目指していた。
「孤児院を襲った悪者は皆、自警団の方々が連れて行ったって、これで安心できたわね」
「ああ、そうだな」
嬉しそうに微笑むアイリスに、シグリッドも柔らかな笑みを浮かべて答える。
「ね、あなた!お祖母様のお皿、子供達も院長先生達も皆気に入って下さったの!とても感謝していたわ!私が迷ってた花柄のお皿は、マリーとアンナが取り合って大変だったのよ?ふふ!チェック柄のお皿もジルがとても気に入って独り占めなんかして!あんなに喜んで貰えるなんて、本当に良かった」
そう話す妻の笑顔が、どこか張り付けられたようなそれである事に気付いていたシグリッドは、合わせていた歩幅を緩めて立ち止まった。
「シグ?」
突然立ち止まった夫に目を瞬かせたアイリスが振り向くと同時、シグリッドは彼女の右手をそっと掴《つか》んで口を開いた。
「アイリス、無理して笑わなくていい」
「え…?」
夫が何を言いたいのか察した妻は、握られた手に僅かな力を籠めると眉を下げた。
「不安な時は不安だと、そう口にしてくれればいい。俺達はもう、他人じゃないんだから」
「…」
己の心など見透かされている。そう思ったアイリスは、観念したように睫毛を伏せ、控え目に口を開いた。
「シグ…私は、あなたの足枷になってる?」
「足枷?」
そう言って眉を潜めたシグリッドを一瞥し、アイリスは両手でシグリッドの手を包むと、不安げな声音で告げた。
「あなたは、本当は騎士団を離れたくなかったのに、私が…私が、貴方の傍にいたいと願ったから…」
「いや、それは違う!」
シグリッドは、不安で震えるアイリスの声を遮って答えた。
「違うよ、アイリス。ノアトーン騎士団を去ったのは、紛れもない俺の意志だ。お前のせいじゃない」
どんなに力強い彼からの言葉を聞いても、これまでに夫が受けてきた『裏の仕事』を間近に見ていれば、アイリスが抱えた不安は晴れることは無かった。結ばれてからずっと秘めて来たそんな胸の内を、アイリスは小さな声音で続けた。
「不安なの…とても…。最近、騎士団からのお仕事が増えたから、貴方が、また遠くへ行ってしまうのではないかって。私、幸せよ?大好きな人と結ばれて、傍で何気無い日常を暮らせて、こんなに幸せなのは、きっと生まれて初めて。だから怖い…この幸せが壊れてしまわないか、凄く怖いの…」
「アイリス」
「でも、それ以上に怖いのは、私が貴方の重荷になる事。貴方を縛る鎖にはなりたくない…」
僅かに震えるアイリスの手を、今度はシグリッドの両手が包み込む。
「馬鹿だな、お前は…。結婚する時に約束しただろ?お前の傍を離れない、お前が笑顔でいられる場所を守ると。俺がお前に嘘を吐いた事があるか?」
シグリッドが優しい声音で問い掛けると、アイリスは握られた手の温もりに目を細め、ゆるく首を左右に振った。
「んーん…一度だってないわ…」
「信じてくれ、アイリス。俺は、お前を一人になんてさせない。俺だって、折角手に入れた幸せを手離すのはごめんだ。お前と二人で、のんびりパン屋をやって暮らす日常は、何にも代え難いからな。確かに、最近『あっち』の仕事は増えて来たけど、だからって俺は、騎士団に戻るつもりはこれっぽっちもない。あそこへ戻ったからって、俺が望んだ騎士団は、そこには無ぇから…」
今のノアトーン騎士団は、民へ目を向けようとはしない。彼が憧れ志した騎士の姿はもうそこには無い。ゆえに、彼は様々な想いを胸に騎士団を去ったのだ。
夫が騎士団を去ったその理由を知り得ていたアイリスは、それを今一度思い出して静かに漏らした。
「でも、貴方と同じ志しを持つ騎士もまだ沢山いる。そんな彼らと貴方が今でも繋がっているのは、騎士団を変えたいからでしょう?そこがもし、貴方の望む場所になったなら…」
シグリッドが願って病まなかった騎士団になる。そうなったなら、彼は己の元から離れ、今のような暮らしはまた出来なくなってしまうのだろうか。そう考えると、アイリスの胸は痛んだ。
しかし、そんな妻の気持ちを察してか否か、シグリッドは、はっきりとこう答えた。
「もしそうなっても、俺は騎士団に戻るつもりはないよ」
「え?」
「騎士団へ戻ったなら、俺は、また大切なものをこの手から溢してしまうような気がする。だから、騎士を辞めた事に後悔は無い。これが、俺の正直な気持ちだよ。アイリスも、自分の想いを押し込めないで、どんな想いでも俺に伝えて欲しい。そうやって二人で、二人が一緒にいられる道を決めて行こう」
シグリッドは、迷いのない笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「お前と生きる…そう決めて、騎士をやめたんだから」
「シグ…」
見つめあった二人の視線は強く触れ、離れられなくなった。
己の頬に手を添えて微笑む夫の顔が酷く優しく目に留まったアイリスは、胸の内にあった幾ばくかの不安が軽くなったような気がして口許に弧を描く。
これからも彼が、騎士団を変える為に『裏の仕事』に携わる日々を変えないのであれば、己も、彼の傍で少しでもその役に立ちたい。
そんな風に思っていたアイリスは、ふと、何かを思い立ち、これは名案だと唐突に声を上げた。
「そうだわ、どうして今まで気付かなかったのかしら!そうよ!私、決めたわッ!」
「は、はい?」
妻が抱いた決意に何だか嫌な予感を覚えたシグリッドは、苦笑いを浮かべた。
「決めたって、何を?」
大抵、彼女の『決めたわ!』は、突拍子もない事だと解っているシグリッドが相変わらず苦笑いを浮かべて問い掛けると、アイリスはどこか自信に満ちた表情で答えた。
「これまでは、あなたに『裏のお仕事』には関わらないようにって言われていたから何もして来なかったけれど、ノアトーン騎士団が、あなたの望む騎士団になるよう、私も、微力ながらお手伝いします!」
「て、手伝うって?なにを…」
「決まっているでしょう?私も、裏のお仕事をお手伝いするのよ!」
「は…はぃいいッ!?」
これは今までで一番突拍子もない事だと、シグリッドは声を上げた。しかし、妻の決意は固そうで…
「止めても無駄よ、私、決めたんだもの!あなたのお役に立てるようになるわ!」
「いやいや!お前はパン屋を一緒に切り盛りしてくれてるだろ!それだけで、もう十分、俺のお役に立ってるから!」
「ああ、そうだわ!更に良い事を思い付いた!私も、あなたから槍の使い方を伝授して貰えばいいのよ!そうすれば、お手伝いできる事の幅がぐーんと広がるわ!ね?いいアイデアだと思わない?」
「もしもーし!奥さん、俺の話し聞いてる?話が噛み合ってないんだけど!」
「という訳で、一から槍の使い方を私に教えて下さいな!」
「教える訳ねぇだろ!」
深々と頭を下げたアイリスに、シグリッドがきっぱりと断りを入れる。これには、拗ねた顔で妻が声を上げた。
「まあ!酷いわ、あなた!端から私が出来ないと思ってるんでしょう!?あなた程の手練れなら、ひよっこの私にだって槍技の一つや二つ、教え込むなど造作もない筈よ!」
「お前、言ってる事めちゃくちゃだよッ!とにかく、ダメなものはダメッ!」
「えー!」
「えー、じゃないッ!」
この後、何度もしつこく妻にねだられ、根負けしたシグリッドは、己を支えたいというアイリスの切実な願いを受け入れて、『裏の仕事』では補助的な役割を担って貰うという事で話を落ち着けた。
アイリスは、この日からシグリッドと共に、特別なお客様へのパンを焼き、平凡な暮らしに非凡が入り混じる暮らしを始める事になったのである。