壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①

第二話 ノアトーン騎士団



ここは、ノアトーン王国城下町。
この日、行列を成した、王子と騎士団の数部隊が馬に(またが)り、南方の地から城下へと戻って来た。

赤い(よろい)で身を包み、金色の髪を(なび)かせる若き王子は、行商の馬車や人の群れを割き、悠々と城を目指す。その周りには、王子の御身(おんみ)を守らんと守備を固める騎士達の姿。
そんな彼らを見て、町の人々は凱旋(がいせん)を祝う者と、怪訝(けげん)な顔で(ささや)く者と様々だった。

「見て、ノアトーンの第二王子、フォラス様よ」
「お若いのに、もう国の(まつりごと)を任されていらっしゃるんですってねぇ」
「フォラス様が積極的に行動していらっしゃるから、この国の領土も徐々に拡がっているって話しじゃない?貿易や行商が益々盛んになって、お国も発展の一途(いっと)辿(たど)る一方だわ」
「何言ってんだか、そう言えば聞こえは良いが、実際どんな風に方々の領主へ声を掛けてんのか分かったもんじゃねぇぞ」
「ああ、力づくだとか(おど)しだとか、良い(うわさ)は聞かねぇからな」
「我が(わがまま)王子が。騎士団を思いのままに操って、良いご身分だぜ、まったく」

そんな(ささや)きが聞こえて、後列を行く一人の若い騎士が(まゆ)を下げる。
少しの乱れもなく、騎士団が王子を(まも)って城までの道程(みちのり)を進む中、そこで、人垣の向こうから女性の悲鳴が聞こえて来た。

「きゃああッ!泥棒!誰か!その男を捕まえて!」
「ッ!」

女性の荷物を奪い取って逃げる男の姿が若い騎士の目に映れば、彼は(ぞく)を追おうと馬の手綱(たづな)を引いた。しかし、その直後に、(そば)にいた分隊長が冷静な声音で彼に言った。

「エリアン、隊列を乱すな」
「隊長…しかし!すぐそこに賊が…」

エリアンと呼ばれた若い騎士は、その間にも遠ざかっていく賊の背を険しく見詰めたまま分隊長の言葉に耳を傾ける。

「ここでお前が隊列を乱し、何者かの襲撃を受けて王子にもしもの事があったなら、貴様はどう責任を取るつもりだ?」
「そ、それは…」
「お前一人の首では足りぬ罪を負う事になるぞ。お前にも家族がいよう?家族の幸せを考えるならば、余計な事に目を向けるな」
「…」

エリアンは悔しげに歯噛(はが)みすると、駆け出そうと(ひづめ)を鳴らす馬を(なだ)めて、大人しく列に戻った。

「騎士団も、ただの犬っころに成り下がっちまったな」
「先代王はあの世で(なげ)いていらっしゃるでしょうね…」

そんな民衆の(さげす)む声がエリアンの耳に触れる。

「くッ…」

彼は何も出来ない己に怒りを覚え、(にぎ)った手綱(たづな)に力を込めた。

「誰か!誰か、助けて下さいッ!」

女性の悲鳴が響く中、騎士団は誰一人として動かない一方で、町人が賊を追いかけて奮闘する声が聞こえてくる。
遠ざかっていく民衆のその声を耳に、エリアンは北に(そび)える城を(にら)むように見詰めた。





――――生臭い血の匂いと、()げて(くず)れ落ちる家屋の匂い。無惨に殺された(むくろ)が無数に転がる中、怪我を負って動けない男を腕に抱いた女性が涙を流しながら声を上げる。

『誰か!誰か、助けて下さい!主人を助けてッ!』

(よろい)(まと)ったシグリッドが、ゆっくり(まぶた)を上げて、その瞳の先に(とら)えたのは、火の海に囲まれる夫婦の姿と、かつて己が(つか)えた王と、そして、王を護るように囲う騎士達の姿だった。
どこからともなく現れた(ぞく)が夫婦の元へ迫るのを見たシグリッドは、槍を握り締め駆けだそうと一歩踏み込む。

『どこへ行く、シグリッド、陣を乱すなッ!』

そう言って騎士達が止めるも、その制止を聞かず民を護ろうと駆け出したシグリッドの足は、突然何かに(つか)まれて動けなくなってしまった。地面から飛び出した無数の人の手は、まるで(つた)のように彼の足を絡めとり、引き摺って夫婦から遠ざけた。直後、賊の剣が女性とその夫を裂いた光景が目に飛び込み、(たま)らずシグリッドが手を伸ばすと、白い光がこちらへ迫って来る。
あまりの(まぶ)しさに腕で顔を覆うと、その光は直ぐに消え、足枷(あしかせ)は無くなった。
シグリッドは再び駆け出そうと一歩を踏み出したが、彼の眼前にあったのは、夫婦の姿ではなく、血を流した王が騎士達に囲まれ息を引き取った姿だった。

『貴様が陣を乱したせいで王は致命傷を受けられたッ!貴様が王を殺したも同然だッ!』

騎士達の白い目が己を見据(みす)える。敬愛して来た王も、そして助けを求めていた民も護れなかったシグリッドの手から、力なく槍が(こぼ)れ落ちた。

『貴様には何も守れはしないッ!身の程を知れ、シグリッドッ!』
「ッ!」

そう叫ばれた所で、シグリッドは目を見開いた。

「はあ…はあ…ッ…」

 暗がりの中、ベッド上で上体を起こしたシグリッドは、目眩(めまい)を覚えて目頭(めがしら)を押さえた。
何も(まと)わない引き締まった体を汗が伝う。額からも流れるそれを腕で(ぬぐ)い、シグリッドは細く息を吐くと、(そば)に妻の姿を見て、悪夢が覚めた事に安堵(あんど)した。

「シグ?」

ふと目を覚まし、夫の様子がおかしい事に気付いたアイリスは、素肌にシーツを寄せて上体を起こした。そんな妻に苦笑いを浮かべたシグリッドは、(かす)れた声音で答える。

「…アイリス、すまない、起こしちまったな」
「んーん、私の事はいいの、気にしないで。それより、(ひど)い汗だわ、今タオルとお水を持って来るから」

ベッドを降りようと身じろいだアイリスだったが、シグリッドにその手首を(つか)まれて引き留められる。夫の手が(わず)かに震えているのに気付いたアイリスは動きを止め、彼に寄り添うと、その頭を己の胸へと優しく導いた。

「大丈夫…シグリッド、もう、悪い夢は終わったのよ」

柔らかな声音でそう言ったアイリスの鼓動を聞きながら、シグリッドは睫毛(まつげ)を伏せる。妻の手がシグリッドの髪を()でれば、彼の手の震えは徐々に治まった。

悪い夢は終わったのだ…そう己も心の中で繰り返しながら、シグリッドはアイリスの体を強く抱き締めた。



――――陽が昇り、港町リジンでも行商の馬車が活動を始めた頃、シグリッドとアイリスは、南東へ向かって馬を走らせていた。

「ねえ、あなた、平気?」
「うん?」

アイリスは、己を包むように背から手綱(たづな)(にぎ)るシグリッドに顔を横向け、心配そうに(まゆ)を下げた。
問い掛けられたシグリッドは、何の事かと目を(またた)かせるも、今朝方の事を言っているのだと気付くなり、にこやかな笑みを浮かべて答えた。

「ああ、平気だよ」
「本当に?寝不足じゃない?気分悪くない?食欲はある?お熱はない?」
「俺はガキかよ。大丈夫だって、病気じゃあるまいし、夢見が悪くてぶっ倒れるようなヤワな男じゃないさ。大袈裟(おおげさ)だぞ、アイリス」
「もう!大袈裟なんかじゃありません!あなたはすぐそう言って無茶するんだから!油断大敵って言葉をご存じかしら!?」

そう言って語気を強めた妻が本気で怒っているのだと察すれば、シグリッドは苦笑いを浮かべて謝った。

「怒るなって、悪かったよ。心配してくれてありがとうな。でも、本当に大丈夫だから」

本当に本当なのね?と念入りに妻に確認されたシグリッドが微苦笑(びくしょう)して頭を()くと、(ようや)く納得したアイリスが前方に向き直る。
小さく息を吐いたシグリッドは、昨夜見た夢を振り返りながら口を開いた。

「それにしても、我ながら情けない、今更、昔の夢を見て(うな)されるなんてさ。(しばら)く見なかったんだけどな…あんな夢」

久しぶりに見た悪夢。シグリッドの表情が(うれ)いたものに変わると、アイリスは眼前に小さく見えて来た城に眉を下げる。

「仕方ないわ、だって…城下町へ行くんですもの。思い出したくない事だって、思い出してしまうわよ…」

そう、彼らが向かっているのは、ノアトーン王国の城下町だった。

先代王アルトは、かつて、シグリッドが敬愛し(つか)えていた主君であったが、戦火の中で命を落とし、以来、第一王子のブールが現王となっている。
ブール王が国を治めるようになってから五年。国の財政は潤って来たが、騎士団は領土を増やす為の戦や、第二王子フォラスを中心に、財源確保の為の金鉱山の発掘、はたまた古代遺跡の探索に駆り出されるなど、まるで騎士としての誇りなき行動が増え、国や町の治安などには目もくれない日々が続いていた。
そこで、民はそれぞれの街で自警団を結成し、自ら身を護る手段を選んだのだが、治安は悪くなる一方。
それでも騎士団は王族の命にしか従わず、民に手を差し伸べる事はなかった。
シグリッドと同じように、それに不満を(いだ)く騎士も勿論いるのだが、王の政策に逆らえずにいるというのが現実であった。

「何も、変わっていないんだろうな…」

シグリッドは、昨日、芳ばし工房へとやって来た依頼人とのやり取りを思い出しながらノアトーンの方角を見据(みす)える。

白いアネモネの描かれたカードを差し出した人物は、『クノーテン』と『紅茶』を注文した。




――――「君が注文したクノーテンは見ての通り(おび)を結んだような形でできているパンだ。それは、『結び目』を意味している。そして、紅茶は『貴族』を。上流層の人物と何かの契約を結ぶ仕事か、それとも、誰かと引き合わせる仕事か…」

シグリッドは、閉店後の静かな店内に依頼人を招き入れると、注文の品を差し出し、いつものように仕事内容を確認していった。
パンに意味を持たせ、その暗示する言葉を繋ぎ合わせる事で依頼内容を粗方推測している事実を話して聞かせると、やはり依頼人は意外そうな顔で受け入れる。
そこには、これまで居合わせた事のなかった妻の姿もあり、彼女は真剣な表情でシグリッドと依頼人のやり取りに耳を傾けていた。

「そこまで推測していらっしゃるのならお話しは早いですわ。私と、ある人を引き合わせて欲しい。そして…私達をこの国の外へ逃がして欲しいのです」

そう願ったのは、美しい顔立ちをした年若い女性だった。

「ある人というのは?」

シグリッドが問い掛けると、女性はテーブルの上に用意されたティーカップの紅茶に視線を落として答えた。

「私の婚約者です。彼は貴族の出ですが、今はノアトーン騎士団で、弓騎士の一員として務めています」
「ノアトーンの…」

そう小さく口にしたアイリスは、シグリッドの古巣に関わる事、彼にとって辛い仕事になるのではないかと懸念(けねん)し、眉を下げて夫の横顔を見詰めた。
そんな妻の思いに気付いているのかいないのか、シグリッドは続く依頼人の話に険しい表情で耳を傾けた。

「彼にとって、幼い頃からずっと憧れていた騎士は、『民を守る剣』だったのです。騎士団に入団した二年前は、心から騎士になれた事を喜んでいました。でも、この二年の間、騎士団で現実を知る度に、彼は己の思い描いていたものとはかけ離れた日々に幻滅していった。民に手を差し伸べられない生活…ただ、王と国の体裁(ていさい)を守る、こんな事の為に騎士になったのではないと…。そこで、(しび)れを切らした彼が騎士を辞めようと、直属の長に話したそうなのですが…手切れとして、利き腕を差し出すよう、それが騎士を辞職できる条件だと突き付けられたと聞いています」
「腕を!?そんな(ひど)い…」

アイリスが両手で口許(くちもと)を押さえて驚くと、シグリッドは知っていた様子で腕を組み口を開いた。

「現王のブールは、騎士団を去る者が後に己に刃を向ける存在にならないよう、離団する代わりに、武器を持つ利き腕を斬る…そういう(おきて)を作ったと聞いている」

依頼人の女性は小さく(うなず)いて続けた。

「このままでは、私達に安寧(あんねい)の暮らしは望めません。彼がそんな馬鹿げた掟の為に腕を無くしてしまうのも嫌なのです!どうか、お願いします!私達を…助けて下さい」

震える手を(にぎ)り締める女性を一瞥(いちべつ)して、シグリッドは目を閉じる。

「密かに出国する事が、どれだけ重い罪になるか、君は解ってるのか?見つかってしまえば他国の間諜(かんちょう)と見なされ即死刑…。恐らくは、君達の家族も出国者の縁者として地位の剥奪(はくだつ)と辛い思いをする事になるだろう。それに、この国を出た後の事は考えているのかい?魔物が徘徊(はいかい)する大地を進み、受け入れて貰えるかどうかも分からない地を訪れる…その覚悟が君達にはあるのか?」
「…」

女性はシグリッドの言葉に(うつむ)いて黙ってしまった。
しかし、決意した表情で顔を上げると、彼女は真っ直ぐにシグリッドを見詰め答えた。

「家族には申し訳ない事をすると思っています。ですが、私も彼も互いに話し合って決めた事ですから。例え、その先に辛い事が待っていようと、彼と二人なら乗り越えられると信じています」

彼女の瞳から揺るぎないものを感じ取ったシグリッドは、静かに(うなず)いて答えた。

「…解った、引き受けよう」
「あなた…」

アイリスが不安げな顔で見守る中、シグリッドは話しを続けた。

(ただ)し、俺が手伝えるのは国境を越えるルートの途中までだ。出国の手助けをした者も勿論、罪に問われるからね。俺にも家族がいる…この国に居られなくなるような無茶は出来ない事を了承しておいて欲しい」

シグリッドがそう言いながらアイリスに柔らかな瞳を向けると、依頼人の女性は(うなず)いた。

「勿論ですわ!ありがとうございます!ジャンメールさん」
「シグリッドでいいよ、こっちは妻のアイリスだ」
「ア、アイリスです…えっと…」

アイリスが相手の名を知らない事に気付いて口ごもっていると、女性はにこやかな笑みを浮かべて答えた。

「私はミュゼ、そして彼の名前はエリアンです」

二人と握手を交わしたミュゼは、ここで、困ったような表情で控え目に口を開いた。

「あの…報酬は先にお渡ししておきます。この国を出てしまったら、二度と会えないかもしれませんし…。シグリッドさんの言い値に合わせますわ。今は持ち合わせがございませんが、明日の朝までには必ずご用意致します」

シグリッドはその言葉を聞いて首を左右に振った。

「報酬なら、もう貰ってるよ」
「え?」

ミュゼが不思議そうに目を(またた)かせる。

「注文を貰った時に頂いた商品代。そして、依頼人の覚悟が報酬です。うちはパン屋だから、これまでもこれからも、(こう)ばし工房は商品代以外の金は受け取りませんよ」

そう言って微笑んだシグリッドに、ミュゼは感謝しながら深く頭を下げた。

そして、翌日の今、シグリッドとアイリスは、ある人物と落ち合うべく、ノアトーン城下町を目指していたのだ。



――――途中休憩を挟みつつ馬を走らせること一日半、(ようや)く城下町の入り口へと辿り着いたシグリッド達は、馬を引いて、変わらず忙しない街中を行き、とある場所を訪れる。

「ここは…礼拝堂だわ?ここに、あなたのお知り合いが?」

町の片隅にある礼拝堂を見上げ、不思議そうに目を(またた)かせる妻に、シグリッドは愛馬を水飲み場の(さく)へ繋ぎ止めながら答えた。

「ああ、お前の事を紹介しておきたい」
「はあ…なんだか緊張してきた…。ねえ、私、お化粧崩れてない?あなたの妻として、恥ずかしい格好していない?」

アイリスは、初めて顔を合わせる夫の知人を思えば、己の身なりを整えながら問い掛けた。そんな慌てた風の妻を見て、少し悪戯(いたずら)な笑みを浮かべたシグリッドは、彼女の頭を軽く()でながら答える。

「はいはい、お前はいつも可愛いよ」

そう言って笑ったシグリッドにアイリスは頬を染めると、嬉し恥ずかし照れ隠しに、夫の腕を力一杯(たた)いた。

「もう、やだー!あなたったらー!」
「いてッ!いてーよ、アイリス!」

興奮冷めやらぬアイリスを見て、困ったような笑みを浮かべたシグリッドは、妻を伴い慣れた様子で礼拝堂の裏口へと回る。
そこで顔見知りの神父と挨拶を交わし、客室へと通された二人は、(よろい)に身を包んだ壮年(そうねん)の男の姿を認めた。

「久しぶりだな、シグリッド」

にこやかな笑みを浮かべるその人物に、シグリッドも同じように(こた)える。

「お久しぶりです、ペレス団長」

夫の口から聞き慣れた名が漏れれば、アイリスは目を(またた)かせて鎧の人物を見詰める。

「ペレス…団長…様?」

シグリッドが騎士団にいた頃から信頼を置いている団長のペレス。アイリスはこれまで話しには聞いていたが、実際に彼に会うのは初めての事で、緊張のあまり困惑した表情で目をさ迷わせた。同時にペレスも彼女に会うのは初めてで、まさか、かつての部下の妻がここにいようとは思わず問いかけた。

「シグリッド、そちらの美しいご婦人は?」
「はい、俺の妻、アイリスです」

心の準備もなく、突然シグリッドが紹介を始めるもので、肩を(すく)めていたアイリスは驚いて固く目を(つむ)り、大きく頭を下げた。

「あの…は、初めまして!シグリッドの妻、アイリスと申します!ペレス団長様、主人から貴方様のお話しはよく伺っております!とても屈強(くっきょう)で、お優しくて、騎士団は貴方様のような方が統べるべきだと、主人がいつも!」

ぺこり、ぺこり、と何度も頭を下げるアイリスに呆れたような半眼(はんめ)を向けるシグリッド。
それもその(はず)、妻が緊張のあまり気付かずに頭を下げていた方向にペレスはいなかった。

「アイリス、誰に向かって話してんだ、落ち着け」
「はは!これは、可憐(かれん)な奥方だ。シグリッドが()れて仕方無いというのも(うなず)ける」

愉快そうに笑ったペレスは、アイリスの元へ歩み寄り(ひざまず)くと、(うやうや)しく(こうべ)()れ、彼女の手を取りその甲に口付けた。

「奥方のお噂は予々(かねがね)、シグリッドから伺っておりました。私はノアトーン第二槍騎士団団長のペレスと申します。お見知り置きを」
「ま、まあ、ご丁寧にどうも!」

アイリスは真っ赤な顔で再び大きく頭を下げる。そんな妻の慌てぶりを見て、シグリッドは困ったような笑みを溢した。

そして、アイリスを交え、(しば)他愛(たあい)のない話を楽しんだ後、久しぶりの再会で積もる話もあるだろうと、少し散歩をしてくると言って去ったアイリスを見送り、ペレスとシグリッドは昔話に花を咲かせていたが、その表情はどこか(うれ)いていた。

「もう三年か、早いな」
「はい…」
「お前が去ってからも、俺は何一つ騎士団を変えられてはいない。それどころか(ひど)くなる一方だ。片腕を差し出しても辞めたいと願う騎士もいる。今回、お前に依頼をしたミュゼ嬢の婚約者、エリアンもその内の一人だ」

ペレスは辛そうに睫毛(まつげ)を伏せて言葉を継いだ。

「俺と部隊は違えど、あれには本来持つべき騎士の素質が備わっていると見える。まるで、お前を見ているようでな…腕一本で、この腐った国の騎士団を辞められるならと言っていたが、ヤツはまだ若い。未来のある若き芽をここで摘んでしまうのはあまりに惜しいと思った」

シグリッドはペレスのその口ぶりから、彼が今回の依頼人ミュゼに、国の離脱を(すす)めたのだと察した。

「やはり、団長が出国を勧め、(こう)ばし工房を紹介したんですね…。突然、会いたいなんて俺に手紙を寄越(よこ)すから、そんな事だろうと思ってましたよ」
「すまんな、シグリッド。平穏に暮らしたい(はず)のお前に、最近は仕事を紹介する機会が増えている。これまで、現騎士の俺が離団したお前に直接依頼をするなど、繋りが上に知れてしまってはお前達に何をされるか分からぬゆえ、あってはならない事だったが、今回の事は、情に流された俺が、直接お前に依頼したと思ってくれて構わない。どのような罰も受けよう。だがエリアンとミュゼ嬢だけは、救ってやって欲しい…頼む、シグリッド」

ペレスはそう切に願うと、シグリッドに頭を下げた。

「ちょ、ペレス団長!俺なんかに頭を下げないで下さいッ!」

シグリッドは、慌ててペレスに顔を上げるよう(うなが)すと、同時に、どこか嬉しそうにも見える表情で言葉を継いだ。

「安心しましたよ、ペレス団長」
「うん?」
「ノアトーン騎士団は何も変わっていない。でも、ペレス団長も変わっていなかった。情に流される、そんな人間じみた一面が今の騎士団には無いんです。ペレス団長の出方次第で、俺は裏の仕事からも離れるつもりで来ました。でも、いらない心配だったようですね」
「シグリッド…」
「俺は、団長に頼まれたから動く訳じゃありませんよ。エリアンとミュゼさんの覚悟が俺を動かした。ただ、それだけです」

真っ直ぐな瞳で言い切るシグリッドを見て、ペレスはそっと睫毛(まつげ)を伏せる。

「お前も…変わらないな」

閉じた(まぶた)の裏に、シグリッドと過ごした騎士団での良き日々が(よみがえ)り、ペレスは口許(くちもと)に弧を描いた。

そうして、(しば)しの会合を終えたシグリッドは、散歩から戻って来た妻と共にペレスを見送り、街角の小さな宿へと向かう。

そこで、シグリッドはこれからの計画を練るべく、先刻会ったペレスとの会話を思い返していた。


――――『シグリッド、お前だけに出国の手助けをさせるつもりはない。俺にも協力させて欲しい。せめて、残される家族が今の生活を保持できるくらいには…』
『ですが、ペレス団長の立場が危ぶまれるような真似は…』
『心配はいらない、俺の他にも同じ志しを持った信頼できる部下はいる。下手な真似はしないさ。明日、早朝に東の遺跡探索の命が下されている。エリアンのいる部隊と俺の部隊、そして、他一部隊の三部隊で行くのだが、タイミングを見計らって、その探索中にエリアンは魔物を追う最中、(がけ)から足を踏み外し転落したと話を作る。俺がその目撃者としてエリアンの死を報告しよう。エリアンは国の為、立派に務めた騎士として(たた)えられるだろう、そうすれば、あれの家族も地位剥奪(はくだつ)から逃れられる。問題はミュゼ嬢だ、どう落ち合わせるか…』
『国境を越える手段と、ミュゼさんの方は俺に考えがあります。任せて貰えませんか?』

そうして、互いに納得し話を締め(くく)ったシグリッドとペレス。アイリスとも手筈(てはず)を整え、宿で一夜を明かしたシグリッドは、翌日の夕刻、計画を実行に移した。



――――ノアトーン城下町から数十キロ南へ離れた草原の中、一本の大樹の陰で、馬一頭と待っていたシグリッドの元に、黒馬に(また)がったとある人物が颯爽(さっそう)と現れる。

「貴方が、シグリッドさん…ですか?」

馬の手綱(たづな)を引いて止めた、(よろい)を纏う青年が怪訝(けげん)な表情で問い掛けると、シグリッドは(うなず)いた。

「ああ、シグリッド・ジャンメールだ。君がエリアンだな?まずは、こいつを見せた方が早いか」

シグリッドは己を証明するものとして、ペレスが普段使っている赤いカフリンクスを(てのひら)の上で見せた。

「それは、ペレス団長の…」
「信じて貰えたなら、早速移動したい。着いた先で、これからの行程を話すよ。行けるか?」
「はい!」

警戒を解いたエリアンが力強く頷くと、シグリッドも馬に跨がり、更に南へと向かった。
途中、草原を徘徊(はいかい)している魔物を避けながら進み、陽が沈みかけた頃、シグリッド達はある山の(ふもと)で馬を止めた。エリアンは、(いなな)く馬を(なだ)めながら、眼前の山を見上げる。

「マウントバルゴ…まさか、この山を?」

マウントバルゴ。丁度、隣国との国境が、この山の中腹になっているのだが、魔物が多い為、近付く人間はいない。いるとすれば、この山を縄張りとする山賊くらいである。
決して容易には越える事が出来ない山を前に、エリアンは不安げな表情を浮かべた。
そんな彼の横顔を見て、シグリッドは険しい顔で口を開く。

「姿を見られずに国境を越えるには、ここを通るのが一番効率的だ。しかし、その分、魔物も多いし、馬も使えない。君は、ミュゼさんを守りながら国境を越える自信はあるか?」

口ごもってしまったエリアンは、恋人の姿がここにない事にも不安を抱き、シグリッドへ問い掛けた。

「ミュゼは…今どこに?」
「彼女は一日遅れてここへ来る手筈(てはず)だ。ペレス団長から聞いていると思うが、君は既に遺跡探索の途中で名誉の死を遂げた事になっている。君のその死を(いた)んで、ミュゼさんも後を追った…。そういうシナリオで城下町を出てここへ来る。君達のご家族が、今の地位を保持できるようにと、ペレス団長が計らってくれたんだよ」
「ペレス団長…」
「今ならまだ後戻りは出来る、本当にこの国と家族を捨てられるのか、最後に君の覚悟を問おう」

エリアンは、生まれ育った町と、共に暮らし己を育んで来てくれた両親との想い出を振り返る。
愛する人達との他愛ない日常、理想の騎士を目指して勉学や鍛練に励んだ日々、そして、最後に浮かべたのは、己が最も愛する女性の姿。エリアンは(しば)し伏せていた(まぶた)をゆっくり上げると、その瞳で真っ直ぐにシグリッドを見詰めた。

「俺は、俺の理想とする騎士を目指したかった。でも、この国に居ては、その夢は実現できそうにない。このままでは、ミュゼを幸せにしてやる事も出来ないと、そう思うのです。これから、俺達は放浪していかなきゃならないけれど、それでも、この国にいるよりはましです!ミュゼと二人なら、どんな苦難も乗り越えられる、そう信じていますから。俺は、俺の守りたいものを守る!だから、後戻りなんてしません!」

力強いエリアンの言葉を聞き届けたシグリッドは、過去に覚えのある光景を今と重ねた。


―――目の前で(こぼ)れ落ちそうになっている命も救えないのなら、騎士である意味はない。俺は、俺の守りたいものをこの手で守る。だから、騎士を辞めます。


シグリッドはかつて、騎士団を去る時に己が言った言葉を思い返した。
ふっと柔らかな笑みを浮かべたシグリッドは、エリアンの覚悟に(こた)えるように(うなず)いた。

「君達の覚悟、確かに聞き届けた。明日の夜明け前に、俺の妻がミュゼさんを連れてここへ来る。明日は険しい山を登るんだ、パートナーを守れるよう、しっかり体力を温存しておけ」
「はい!」

決意の固い声で答えたエリアンの瞳に迷いはなかった。



――――翌早朝、交代で睡眠を取ったシグリッドとエリアンは、身支度を整えつつ、薄明るくなって来た空を見上げる。

「そろそろか…」

シグリッドが必要最低限の身軽な防具を身に着け槍を手に立ち上がった所で、馬の(ひづめ)の音が小さく聞こえて来た。

「あなたー!」

遠くから妻アイリスが手を振りながらこちらへやって来る姿が見え、安堵(あんど)したシグリッドは軽く手を上げて(こた)える。
そのアイリスの背には、フードを目深(まぶか)に被り、しっかりと彼女に抱き着いたミュゼの姿もあり、エリアンは胸を()で下ろした。

手綱(たづな)を引いたアイリスが彼らの傍で馬を止めれば、ミュゼは飛ぶように馬の背から降り、エリアンの元へ駆け寄った。

「エリアン!」
「ミュゼ!」

強く抱き締め会う若い二人を見て、シグリッドとアイリスも互いに顔を見合わせ微笑む。

「時間通り、上手く話し合わせたルートを辿(たど)れたようだな、アイリス」
「ええ、あなたが魔物の少ない道を分かりやすく地図に示してくれたから迷わず来れたわ。この子も夜道を怖がらずに駆けてくれたし」

そう言ってアイリスは愛馬を降りると、その首を優しく撫でてやる。そんな彼女の頬に触れて、シグリッドは、ふっと口許(くちもと)に柔らかな笑みを浮かべた。

「相棒として申し分ない働きだ」
「ふふ」

嬉しそうに肩を(すく)める妻を隣に、シグリッドは、早速登山を開始しようと、木の根本に置いていたザックを拾い上げエリアンに向けて(ほう)った。

「エリアン、それに食糧や道具が備わってる、持って行け」

エリアンは受け取ったザックを抱えて口を開いた。

「いいんですか?」
「ああ、山越えには二、三日かかるから、その程度の備えはあった方が良い。さあ、もたもたしてる時間はないぞ、先を急ごう」
「はい!」

エリアンとミュゼは互いに決意した瞳で見合うと、シグリッドに続いた。


その後、特別何が起きるでもなく、険しい獣道(けものみち)(しばら)く行くと、先頭を歩くシグリッドは、周囲に隠れた無数の気配を感じて立ち止まった。その後ろにいた妻のアイリスは、夫の背中を不安げに見上げる。

「シグ?」

目線を巡らせていたシグリッドが槍を振って構えると、木々や草木の間から、茶の(じゅう)(もう)を逆立てる巨大な(おおかみ)達が姿を現した。
同じように気配を察していたエリアンも弓を(にぎ)り、ミュゼを守るように己の背に隠すと、群れを成す相手を見ながら口を開いた。

「イーブルウルフ…こいつら、そこそこ規模の大きな群れのようですね」

エリアンの言葉に(うなず)いたシグリッドは、妻とミュゼに身を低くするよう(うなが)すと、その顔に不敵(ふてき)な笑みを(たずさ)えて身構えた。

「こんな所で遊んでいる暇はない、一気に片付けるぞ」

シグリッド達を、完全に獲物だと見定めたイーブルウルフ達が牙を()いて飛びかかって来る。しかし、シグリッドは流れるような動きで槍を振り、容赦なく沈めて行った。

「ギャンッ」

悲鳴を上げて、次々と灰となり散っていく(きょ)(ろう)を尻目に、一方のエリアンも、シグリッドの動きを予測しながら、素早い動作で弓を弾き、魔物を逃すことなく撃ち抜いていく。
そんな彼の弓(さば)きを見て、確かに騎士団が手放すには惜しい逸材だろうと、シグリッドは感心して口を開いた。

「ほう、ペレス団長が見込んだだけの事はある。いい腕をしているな、エリアン」

アルト王が治めていた時代のノアトーン騎士団にいたならば、エリアンは恐らく、立派に騎士を務めあげていただろうと、シグリッドの表情は(うれ)いた。

「そんな…俺なんかまだまだ。シグリッドさんこそ、団長クラスの槍(さば)きですよ。貴方が騎士団にいた頃の事を、よくペレス団長から伺っていました。槍を扱わせたら貴方の右に出るものはいないと」
「はは、そいつは買い被り過ぎだ」

洗練された動きで魔物をものともせず(ほふ)るシグリッドの姿は、騎士団を去った人間とは思えないもので、その姿に、エリアンは羨望(せんぼう)の眼差しを向けた。
そんな様子を間近に見ていた妻のアイリスは、身を(かが)めたままで、己の緩む口許(くちもと)を両手で覆う。

「うふふ…」

にやにやと締まらない顔で夫の姿を見遣(みや)る、そんな妻の視線に気付いたシグリッドは、苦笑いを浮かべて問い掛けた。

「なんで嬉しそうな顔してんだよ」
「だって、我が夫が誉められてるんですもの、それは自分の事のように嬉しいに決まってるわ」
「ッたく…戦闘中に呑気(のんき)なやつめ。まだ先は長いんだ、気を引き締めろよ」

仕方なさそうに笑ったシグリッドが妻の頬を軽く叩いて、再び現れた魔物に立ち向かう。

「そうね、にやにやしている場合じゃないわ。私だってもう立派な裏仕事人なんだから!ガッツよ、ガッツ!」

アイリスは、ぱん、と己の頬を(たた)いて気を取り直すと、周囲に目を向けながらミュゼの保護を努めた。

そして、戦闘を繰り返しながら、(やが)て、山の中腹まで到達したシグリッド達は、魔物の影が減り始めたのを見て足を止める。

「エリアン、俺達はここまでだ。このペースなら二日もあれば国境を越えて、隣国の山麓(さんろく)へ下りられるだろう」

ここからは、いよいよ二人きりで険しい道を進まなければならない。エリアンはこれまで以上に緊張した面持ちで(うなず)いた。
そんな彼の隣で、ミュゼは、シグリッドとアイリスに懇願(こんがん)するような瞳を向けると、彼らに歩み寄り頭を下げた。

「あの、シグリッドさん、アイリスさん…最後にお願いを聞いて頂けませんか?」
「うん?」

シグリッドは何事かと目を瞬かせて、彼女から続く言葉を待った。

「ここで、私達の結婚を認めて頂けないでしょうか?」
「ミュゼさん…」

アイリスは、愛する人達から祝福を受けられない彼女のその心情を察して眉を下げる。顔を上げたミュゼの表情には、固い決意の中、どこか寂しさも見られた。

「家族にも友人にも認めて貰う事は叶いませんが、お二人のような仲睦(なかむつ)まじいご夫婦に認めて貰えたなら、私達も、幸せな道を歩んで行ける、そんな気がしますから…」

ミュゼがそう言って再び頭を下げると、彼女の隣に並んだエリアンも、同じように頭を下げた。そんな彼らの想いを受け止め、シグリッドは、アイリスと互いに顔を見合わせて微笑むと、若い二人を前に口を開いた。

「エリアンは、ミュゼを妻とし、(なんじ)、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、これを愛し、敬い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい、誓います」

エリアンは、そっとミュゼの手を取り少しの力を込めた。

「ミュゼは、エリアンを夫とし、汝、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、これを愛し、敬い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい…誓います」

ミュゼも、彼に握られた手を握り返し、二人は向き合って真っ直ぐに見詰め合った。

「では、誓いのキスを持って二人を夫婦と認めます」

シグリッドが言うと、エリアンとミュゼは微笑み、そして、どちらからともなく唇を近付けて重ねた。アイリスは幸せそうな表情をした二人に祝福の拍手を送る。

「おめでとうございます、ミュゼさん、エリアンさん。お二人とも、必ず幸せになって下さい。困難な道を選んでまで、あなた達は二人でいる事を選んだのだから…。だから、どんなに辛い事にも負けないで下さい。絶対に、信じた人の手を離さないで」

二人はこれから想像もできないような苦労をして行くのだろう。だが、今の瞬間を忘れなければ、きっと彼らは大丈夫だと、アイリスの言葉は優しくも、それでいて強いもので、同じ思いでいたシグリッドも、柔らかな笑みを浮かべて妻のその横顔を見詰めた。アイリスの言葉に(こた)えるように、エリアンとミュゼは強く手を繋いだまま(うなず)く。

「はい!シグリッドさん、アイリスさん、このご恩は一生忘れません、本当にありがとうございました」

エリアンはその言葉を残して、ミュゼの手を引き先を急いだ。
若き夫婦の背が見えなくなるまで見送ったシグリッドとアイリスは、二人の幸せを願いながら共に山を下りた。



――――そして、あれから一月(ひとつき)後の事。

(こう)ばし工房で、いつもの日常を送っていたシグリッドとアイリスは、客足の途絶えた店先のテーブルで昼食を取りながら、エリアンとミュゼが去った後の周囲の近況について話していた。

「団長から聞いた話し、二人の両親は我が子を失った悲しみに暮れる日々を過ごしているそうだ。一月経過した今も、状況は変わっていないらしい…」
「そう…ご両親の気持ちを思えば、辛いわね…あの日の事を、一言でも伝えられたなら良いけど、エリアンさん達の覚悟を(ないがし)ろには出来ないし…」

死を偽ってまで国を出た二人の事を思えば、彼らの両親に伝えるべきではないのかもしれない。スープを(すく)う手を止めて、アイリスが(まゆ)を下げると、シグリッドは、カップの珈琲(コーヒー)に映る己の顔に視線を落として口を開いた。

「この仕事をしていて、時々、俺は間違った事をしているんじゃないかと、考えさせられる事があるよ」
「シグリッド…」

助けた人の一方で、誰かが悲しむ。そんな事は、この裏仕事を始めてから幾度となくあった。その度に、己のしている事を(かえり)みて、シグリッドは、時折、やりきれない思いを抱くことがある。(うれ)いた瞳の夫を見れば、アイリスは胸が締め付けられるようで、彼の手にそっと己の手を重ねて答えた。

「間違っているか、そうではないかなんて、きっと誰にも分からない。でも、あなたがしている事で、誰かが救われているのは確かだわ。何もしないで誰も救われないより、私は、救われる人が一人でもいるなら、あなたのしている事が間違っているとは思わない」
「アイリス…」
「シグだって見たでしょう?エリアンさんとミュゼさんの幸せそうな顔。あなたが手を差しのべなかったら、お二人のあの笑顔は見られなかったかもしれない。だから、あなたは、あなたが正しいと信じる道を進んで。私は、どこまでも、あなたに着いて行くわ」

シグリッドは、そう言い切った妻の重なった手をそっと取って(にぎ)った。

「そう言って傍にいてくれるお前がいるから、俺は今を歩んで行けてる。ありがとうな、アイリス」
「シグ…」

見つめ合う二人の手は(から)めるようにして繋がれる。そこで、店先のドアベルが音をたてて扉が開いた。

「こんにちはー!郵便でーす!」

配達人の姿が見えれば、アイリスは席を立って手紙を受け取りに駆けた。

「ありがとうございます!」

一通だけ届いた封筒を受け取り、アイリスが不思議そうな顔で戻って来る。そんな妻の様子を見て、シグリッドは(わず)か首を傾けて問い掛けた。

「誰からだ?」
「それが…芳ばし工房宛てだけど、差出人の名前がないの」

シグリッドに歩み寄ったアイリスが怪訝(けげん)な顔をすると、彼は手紙の中身を確認しようと妻から封筒を受け取った。

「どれ、貸してみ」

謎の相手からの手紙と思えば緊張も高まるもので、アイリスはシグリッドの背に隠れながら、はらはらと彼の手元を見遣(みや)った。

「あなた!気を付けて!中から危ないものが飛び出してくるかもしれないわ!ゴキブリとか、ほら、びっくり箱の、びよん、としたものとか!」
「それ、危ないか?」

強張(こわば)った顔のアイリスには、最早、シグリッドの突っ込みも聞こえてはおらず、いよいよ封が切られると、妻は顔を両手で覆い、しかし、指の隙間からはしっかりと様子を(うかが)っていた。
シグリッドは、中から一枚の紙を取り出し開くと、書かれた内容に目を通しながら口を開く。

「これは…エリアンからの手紙だ」
「え!?」

それを聞いて驚いたアイリスは、シグリッドの後ろから手紙を(のぞ)き込む。

「エリアンさんとミュゼさんは無事なのね?」
「ああ、国境を無事に越え、そこからは安息の地を求めて旅をしているそうだ。慣れない旅で大変だが、二人で協力しあってどうにかやってるってさ」

良かったと、心底安心して胸を()で下ろしたアイリスが微笑むと、シグリッドは遠い地を旅する二人を思い、窓の外の景色に目を向けた。

同じ空の下、救った人々が笑顔で暮らしている事を願い、シグリッドは睫毛(まつげ)を伏せた。
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