壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第三話 片想いシスター
これは、ある年、ある日の港町リジンでのお話し。
大通りから少し外れた場所にあるパン屋、芳ばし工房の店主シグリッドは、休日の今日、いつものように新聞を取る為、玄関先のポストへと向かった。
「ふぁあー…今日もいい天気になりそうだな」
朝日の眩しさに目を細めながら、シグリッドは大きく背伸びをしてポストへと手を伸ばす。
その時、誰かの視線を感じて、彼はふと周囲を見回した。
「あれ?ランさんじゃないですか、どうしたんです?こんな朝早くに」
斜向かいの街灯下でそわそわしていたのは、孤児院のシスター、ランだった。
妻のアイリスと同い年の控えめな彼女は、見付かってしまったと言わんばかりに慌てた様子で、落ち着きなく視線をさ迷わせる。
「い、いえ!あ、ああ、あの!お、おは、おはようございますッ!シグリッドさんッ!」
「お、おはようございます。あー…ひょっとして、アイリスに何か?」
妻に急用だろうかと、シグリッドが問い掛けると、ランは、こちらへ歩み寄りながら、ぼそり、ぼそりと小声を漏らした。
「あ、あの、その…アイリスさんにというか…シ、シグリッドさんにというか…」
「俺に?」
己を指差したシグリッドが不思議そうに目を瞬かせた所で、玄関から顔を覗かせたアイリスが声を上げた。
「あなたー!朝ごはんが出来たわよー!」
「ん、ああ、分かった」
と、シグリッドが返事をすると、アイリスは、彼と一緒に友人の姿を認めて嬉しそうに駆け寄って来た。
「まあ、ランさん!おはよう!ひょっとして、遂に覚悟を決めたの!?今日が決戦の朝なの!?」
「覚悟を決めた?決戦の朝?なんのこっちゃ…」
シグリッドは怪訝な表情で妻に視線を落とす。一方のランはといえば、煮え切らないような態度で答えた。
「いえ、その…覚悟が決まらないので、こうして相談に来たというか…」
それを聞いたアイリスは、少し眉を潜めて続けた。
「もう、焦れったいんだからー…あと一押し必要ね!あなた、ランさんも一緒に食事して貰っても良いかしら?」
問いかけられたシグリッドは頭を掻きながら、相変わらず怪訝な顔のままに答えた。
「そりゃ、俺は構わないけど…つーか、何が何だか分からんのだが、説明はしてくれるのか?アイリス」
「ええ、単純明快!直ぐにわかって貰える話しよ!さあ、ご飯にしましょう?」
アイリスは意気揚々とした様子で先に家へと向かって行った。そんな妻の背中を見つつ、困ったような笑みを浮かべたシグリッドは、ランへと視線を向ける。
「なんか、アイツ張り切ってるみたいだけど。ランさん、うちのが、またいらない世話を焼いたりしてない?」
「い、いらない世話だなんてッ!アイリスさんのお世話にならなければ私はダメというか!絶対にダメですッ!そうですッ!絶対、絶対ダメなんですッ!」
「は、はあ…じゃあ、行きますか」
あまりに強く言うランにシグリッドは苦笑いを浮かべると、いつも朝食を取るダイニングへと彼女を案内した。
既にテーブルへ二人分並べられた食事からは温かい湯気が揺れる。
かりかりに焼いたベーコン、半熟の目玉焼き、今朝焼き上げたばかりのバターロールに、コロンバコーンのスープ。それらを、もう1つプレートに用意したアイリスは、テーブルへ案内されたランの前へと差し出した。
それらを目の前にして、朝食を取らずに急いで来たランは、空腹である事に今更気付いて頬を染める。
「美味しそう…本当に頂いても宜しいのですか?」
アイリスは、にこやかな笑みを浮かべながら篭に入ったバターロールと、ジャムやバターがそれぞれ入った小さな器をテーブルの中央に置いて、彼女の向かい席に腰を下ろした。
「良いに決まってるじゃない!多めに作っておいて良かったわ」
続いて彼女達の間の席に腰を下ろしたシグリッドは、手に取った新聞をテーブルの脇に置いて口を開いた。
「バターロールも纏めて沢山焼いたから、遠慮しないで食って下さいよ。孤児院のチビ達にも持って行ってやろうと思ってた所なんです」
「そ、そうなんですか…皆、喜びます!」
ランが、子供達の姿を思い浮かべながら微笑むと、アイリスもつられるように笑みを浮かべ、両手を合わせる。
「はい、では、温かい内にいただきましょう」
「だな。それじゃ、いただきまーす」
シグリッドも同じように両手を合わせると、早速フォークとナイフを手に食事を始める。
ランも、両手を合わせて少し遠慮がちに「いただきます」を言うと、バターロールを手に取った。
アイリスも、同じものを手に取り、そのまま千切ってひと口食べると、幸せそうな笑みを溢した。
「うん!バターの風味がよく出てて美味しいー!」
「ええ、本当に、柔らかくて、ほんのり甘味もあって…でも、苺のジャムを塗ると更に…」
ランは、テーブル中央に用意されていたジャムをスプレッダーで塗ると、ひと口お上品に齧った。その姿を見ていたアイリスは、どこか期待するような眼差しを向けてランに問い掛ける。
「ねえ、ランさん!その苺のジャム、お味はいかが?」
「え?はい!甘味と程好い酸味がきいていて、とても美味しいです!」
「本当に!?良かったー」
ほっとしたようにアイリスが胸を撫で下ろすと、シグリッドが付け加えるように言葉を継いだ。
「それ、アイリスが作ったジャムなんですよ。今、近所に味見をして貰ってる所でね、受けが良ければ来週から瓶詰めして売り出してみようかって話してる所なんです」
幼い頃から孤児院で共に育ったアイリスが、こうして立派に職人を務めているのだと、ランが感慨深そうに頷いていると、アイリスは人差し指を立ててシグリッドに微笑んだ。
「あなた!これでポイント1よ!」
それを聞いたランは、不思議そうに目を瞬かせる。
「ポイント?」
これに、パンを一口齧ったシグリッドが笑みを浮かべて答えた。
「はは、二十人程に感想を聞かせて貰うつもりなんですけど、良い返事が半数より多く聞けたら売り出し決定って約束になっててね」
「明日がその運命の日なの。神様、どうか私にご加護を…」
アイリスは祈るように両手を握り睫毛を伏せると強く願った。そんな彼女を見て、シグリッドは呆れたような、それでいて優しい表情で口を開く。
「だから、お前は大袈裟なんだって」
二人の仲睦まじい姿を目の当たりに、ランは羨望の眼差しを向けると、己と誰かを重ねて見ているのか、彼女の頬はみるみる赤みを帯びていった。
そんな彼女の変化に気付く事なく、一方のシグリッドは、ジャムの話から何か思い出したように言葉を継いだ。
「ああ、そういえば、今日は、何人からか返事が貰えそうだな」
「え?そうなの?」
アイリスが何故かと目を瞬かせると、シグリッドは妻に半眼を向けて言った。
「お前、忘れてるなー?ほら、今日は、午後から半年に一度開かれる、A地区の商店定例集会があるだろ?その時に何人かに会うからさ」
「ああッ!集会の事!すっかり頭の毛穴から抜け落ちてたわ!」
「いや、毛穴は余計だろ」
ぼそり、と、いつものようにシグリッドが突っ込みを入れて続ける。
「そうだなー…花屋のコルサからは、悪い返事を聞くとは思えないし、アンティークショップのミラルダも、まあ、まず良い返事を返すだろう。問題は雑貨屋のロバートと、宿屋のルシアンだな。アイツら、妥協を許さないタイプだから、厳しい返事が返って来るかもしれないぞ?」
そこまでシグリッドが言うと、アイリスとランは同時に、はっとして目を見開いた。
これを見たシグリッドは、二人を交互に見遣ると引き攣った顔で問い掛ける。
「な、なんなの、二人とも、急に目を見開いて…怖いんですけど…」
アイリスは真剣な表情になると、シグリッドに向けて声を上げた。
「そうよ!あなた!今ここから!単純明快なお話をするわッ!」
「お、おう、突然だな」
ランが朝からここを訪ねて来た理由を言おうと、あまりに妻が真面目な顔になるもので、シグリッドも妻から瞳を逸らさず耳を傾けた。
「ルシアンさんとランさんを、夫婦にしてあげて欲しいのッ!お願いしますッ!」
今、さらりと、とんでもない事を妻が口走ったと、絶句したシグリッド。その一方で、ランは顔を上気させて肩を竦《すく》めた。
「アイリスさん!ふ、夫婦だなんて!はや、早すぎますッ!恥ずかしいーッ!」
どこか嬉しそうなランと、「そんな事ないわ!結婚のタイミングなんていつやって来るか分からないのよ!」と、応援するアイリス。二人のやり取りに何の事やらさっぱりのシグリッドは、引き攣った笑みを浮かべる。
「いや、盛り上がってる所悪いけど、単純明快過ぎて俺にはよく分からんです…」
「もう!あなたったら、鈍感ね!」
「お前にそれを言われたら、俺もそろそろ危ない仕事引退しなきゃなんないかなと思う」
不満げな顔で言うアイリスに、シグリッドが更に突っ込みを入れるも、妻にそれが効く筈もなく、アイリスは話を続けた。
「ランさんは、ルシアンさんに恋をしているの!分かるでしょう?」
「それを察する事はできるが、夫婦にしてあげて!は、可笑しいだろ。俺が決める事じゃねぇし。大体、ランさんはルシアンと面識があるのか?」
シグリッドの問いに、ここで答えたのはランだった。
「私は、あります。でも、ルシアンさんは覚えていらっしゃるかどうか…」
眉を下げて俯いたランをフォローしようと、今度はアイリスが口を開いた。
「素敵な出逢いがあったの!これは運命よ!」
「素敵な出逢い?」
怪訝な顔のシグリッドに、ランはルシアンと初めて出逢った日の事を思い出しながら語った。
「あれは、二か月程前の事でした。買い出しからの帰り道、突然、激しい雨が降りだしたので、私は急いで孤児院を目指しました。そこへ、前方から走って来たルシアンさんが…」
偶然ルシアンが通り掛かり、傘でも差し出して彼女を孤児院へ送り届けたのだろうと、シグリッドは有りがちな話を想像してみる。しかし…
「豪快に滑って転んだのです!そして、私もまったく同じタイミングで足を滑らせて転んでしまいました!」
「…」
有りがちな話しとは無縁の出逢いに、シグリッドは思わず吹き出しそうになるのを堪える。
だが、アイリスは、心底その話を運命的だと感じているようだった。
「ね、あなた!同時に転ぶなんて!運命を感じるお話しでしょう?」
「そうかい?俺なら早く忘れてしまいたいお話しだけどな」
妻が目を輝かせているのを尻目に、どこがそんな魅力のある出逢いなのかと、シグリッドは困ったような笑みを浮かべて頬を掻いた。
一方、ランは当時の事を思い出したのか、興奮気味に話を続ける。
「転んだ時に、お互い目が会って…大丈夫ですか?と、ご自身も転んで痛い思いをしている筈のルシアンさんが、先に起き上がって手を差し伸べて下さったのです!私を引き起こしたら、直ぐに頭を軽く下げて、また走って行かれました。あまりの突然な出来事に、私はお礼の一言も出て来ず…。ああ、きっとルシアンさん、あの時、引き攣った笑みを浮かべていらしたのは、私が礼の一つも言えない女だと、軽蔑なさったから…」
「いや、恥ずかしさのあまり、早くそこから去りたいばかりの引き攣った笑みだと思うけどね」
と、ここでもシグリッドの突っ込みは効果を得ず。ランはすっかり恋する乙女の顔で話を続けた。
「そこからは、目を閉じればあの方の姿が浮かぶばかりで…きっと私は一目惚れしてしまったのだと思います。私のような器量の悪い娘に、ルシアンさんが微笑んで下さるとは思えませんが、せめて、お会いして、あの時手を差し伸べて下さった事へのお礼を言いたいと…アイリスさんに、ご相談に乗って頂いていたのです」
それを聞いて、アイリスに呆れたような目を向けたのはシグリッドだった。
「アイリス、お前なあ…」
「そんな怖い顔しないで下さいな、あなた。ルシアンさんとあなたは幼馴染で仲良しでしょう?一度でも良いから二人を引き合わせてあげて?友人が思い悩んでいるのに放っておけないの」
と、アイリスが懇願するような瞳を夫に向ける。
シグリッドはやれやれと溜め息を吐き、ただただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
――――その日の午後の事。
定例集会が行われる、港町リジンA地区の町会館を訪れたシグリッドとアイリスは、集まった人々と挨拶を交わしながら定刻を待った。
「まったく、お前のお節介にも困ったもんだよ」
ふと、シグリッドが今朝の事を思い出し、仕方なさそうな声音で漏らす。それが何の事だか直ぐに分かったアイリスが、隣の夫を見上げて答えた。
「あら、あなただってランさんからあんな話しを聞いたら放っておけないでしょう?」
「そりゃあ、馴染みの人だし、協力はしてやりたいけど…」
「けど?」
含みのある言葉に僅か首を傾けたアイリス。シグリッドは、妻の頭に手を添えて、とある方向へと向くよう軽く押してやった。
「出来ない事もあるだろ」
「?」
ふい、と、向かされた先、アイリスの目に見知った人物の姿が見えた。
「え…」
そこには、ランが恋焦がれる相手、ルシアンが挨拶回りをしている姿があり、そんな彼の傍に寄り添う、見慣れない女性の姿も認めると、アイリスは誰なのかと目を瞬かせた。
「一緒にいる、あの女性は…?」
「ルシアンの婚約者だよ」
「ええッ!?」
シグリッドの答えに驚いたアイリスが思わず声を上げると、周囲の数名がこちらへ好奇の目を向け振り返る。シグリッドが困ったような笑みを浮かべて各々へ軽く会釈すると、それに構うどころではないアイリスは、眉を下げて夫に問い掛けた。
「そ、そんな話し、私、聞いてないわ!あなた、いつから知っていたの!?」
「俺も、聞いたのはついこの間だよ。それこそ、お前の手作りジャムを届けた時に、近々結婚を考えてる人がいるんだって…。誰にも内緒にしている話しだと聞いたから、俺も口には出さなかった。付き合って一年なんだと。周りには気付かれないように、ひっそり会ってたみたいだな」
「そんな…これを知ったら、ランさん、きっと悲しむわ…」
ランの片想いが実るようにと願っていたアイリスは悲痛な顔で俯いた。
シグリッドは、己の事のように落胆してしまった妻の頭を軽く撫でてやると、元気づけるように口を開いた。
「辛いだろうが、ランさんには、ちゃんと事実を伝えるべきだ。嘘で凌いでも、事実が変わる事はないんだから」
「…」
恋する乙女にどう説明したものかと暫し考えていたアイリスは、これだけはと、シグリッドに願った。
「ね、あなた…」
「うん?」
「一度で良いから、ランさんとルシアンさんを会わせてあげて」
「いや、会わせてどうするんだ?ランさんが辛い思いをするだけじゃないのか?」
「うん、でも、ランさん言ってたでしょう?お礼を言いたいって…。初めから叶わない恋だったのかもしれないけれど、でも、お礼だけはちゃんと言わせてあげたいから…」
「アイリス…」
真剣な瞳の妻に、シグリッドが困ったように眉を下げて頭を掻いていると、いつの間にか傍まで来ていたルシアンが声を掛けて来た。
「シグリッド」
今し方、話題になっていた人物と、その婚約者の女性を見て、シグリッドは笑顔を取り繕い、軽く手を上げ挨拶した。
「よ、よう、ルシアン」
「ご、ごきげんよう!ルシアンさん!」
ぎこちない仕種でアイリスも頭を下げれば、ルシアンは二人の様子に僅かな違和感を覚え、不思議そうに目を瞬かせるも、さして気にも留めずにこやかに答えた。
「アイリスさんも、こんにちは。丁度良かったよ、二人が一緒で。シグリッドには少し話したけど、彼女はイライダ、俺の婚約者だ。この度、正式に結婚が決まったから、挨拶をと思ってね」
背も高く、端整な顔立ちをしたルシアンは、勿論女性からもモテていた所謂美男だが、そんな彼の隣に並んでも違和感なく立ち居振る舞うイライダという美しい女性。見目麗しいカップルと絶賛せざるを得ない二人だった。
「初めまして、イライダと申します。お二人のお噂は予々、ルシアンから伺っておりますわ」
控えめに微笑んだイライダ。男なら、思わず振り返ってしまいそうな美女を目の前に、健全なシグリッドも照れ臭そうに頭を掻きながら答えた。
「はは、ろくでもない噂話をされてないと良いけど」
そんな鼻の下を伸ばした夫を見て、不満げなアイリスが口を開く。
「そうね、あなたがえっちで猫舌で、寒がりやさんで寂しがりやさんだなんて、そんな噂話しをされていないといいんですけど」
「…」
妻の悪態を聞いて、シグリッドの笑みは引き攣ったものに変わる。それを聞いたルシアンは楽しげな様子で笑うと、幼馴染を一瞥して続けた。
「シグリッドがスケベで猫舌で寒がりなのは昔からの事だから知ってたけど、寂しがりやは意外だな」
これに、アイリスはわざとらしく驚いたように口許を押さえる。
「まあ!ルシアンさん!どこでそんな情報を!?」
「さっき、お前が言ったんだろうが」
ぼそっと低い声音で突っ込んだシグリッドに、アイリスは、すっきりしたような顔で小さく笑った。
「やだわ、私ったら!つい口が滑ってしまったようで…。ごめんなさいね、シグ」
そんな妻に対抗しようと、シグリッドは涼しい顔で手をひらひらさせながら答えた。
「いや、いいよ。上がり性で、年中ぽーっとしてて、周りの事はお構い無しに、いつもマイペースのお前の事だ、仕方ないだろ」
表情は笑顔だが、皮肉をたっぷりと込めて言った筈のシグリッドに、アイリスは何故か嬉しそうに頬を染めて夫の腕に抱き着いた。
「ありがとう!あなた、優しいのね!」
「ちょっと仕返ししたつもりだけど、効いてねぇな、これ」
妻はシグリッドの言葉を皮肉とは取らずに、寧ろ、己の嫉妬を赦してくれる寛大な夫だと勘違いしているようだった。
噛み合っていないようで上手く噛み合っているシグリッドとアイリスを見て、イライダは納得したように頷いた。
「ふふ、本当、ルシアンから聞いていた通り、お二人はとても仲が宜しいのですね」
結婚して四年目のジャンメール夫妻。いつまでも新婚のような二人を羨ましげに見るルシアンが、彼らのような夫婦になる事を望んでいるのだと、イライダを交え、そんな話しで盛り上がっていた中、アイリスがふと思い出したように言葉を継いだ。
「あ…そういえば、シグリッドがルシアンさんに言いたいことがあるって!」
「へッ!?」
素頓狂な声を上げたシグリッドの顔を妻が覗き込む。
「ね、あなた!そうでしょう?」
ランとルシアンを引き合わせて欲しいという願いを強引にでも通そうとする妻の突然の振りに、しどろもどろになるシグリッド。幼馴染の様子が可笑しい事に気付いたルシアンが、不思議そうに問い掛ける。
「なんだ?シグリッド」
「あー…えっと…ああ、そうそう!こないだのジャムの事だけど!」
咄嗟に出てきたのは、アイリスが作ったジャムの話題だった。
「ああ、アイリスさんの手作りの?甘さも程好くて良かったよ。何人かのお客の朝食に出させて貰ったら、皆美味いって喜んでた。正式に売り出す事になったら、教えてくれないか?注文したいからさ」
妥協を許さない性格のルシアンから良い返事を貰えたシグリッドとアイリスは、思わず喜びの声を上げる。
「本当か?」
「嬉しいです!ルシアンさん!」
快く頷いたルシアンは、その視界にとある人物達の姿を認めると、この場から去ろうと身じろいだ。
「パルマ夫妻が来たようだ。ちょっとあっちにも挨拶へ行って来るよ。行こう、イライダ」
「ええ」
まだ言いたい事を伝えられていないアイリスは、催促するようにシグリッドの手を掴んで引っ張った。
「シグ!」
「あ、ああ、ルシアン!」
踵を返したルシアン達を咄嗟に引き留めたシグリッドは、振り返ったルシアンに、思い付くままの言葉を並べた。
「えーと、その、明日の昼過ぎくらいに少し時間が取れないか?」
「明日?」
「あー…ああ、ちょっと意見を聞きたい商品があるんだよ」
「俺に?そうだな…」
ルシアンは何かを確認するようにイライダに視線を落とすと、イライダはそれを察して快い笑みを浮かべる。
「午後三時くらいなら、宿も落ち着いているでしょうし、私がお店番をしているから、行って差し上げたら?」
「そうかい?イライダがそう言ってくれるなら…じゃあ、そのくらいの時間でもいいか?シグリッド」
「ああ!助かるよ」
そうして、ルシアンと約束を取り付けたシグリッドは、去って行く彼らに軽く手を振って見送った。アイリスは今し方、夫が言った言葉に疑問を抱いて問い掛ける。
「意見を聞きたい商品って、どの商品の事?」
「そんなものあるかよ…お前が急に話し振るから、苦し紛れに出て来たんだ」
「えー!」
特にノープランだったシグリッドが正直に答える。
「まあ、なんとかするさ。それより、お前はランさんに、明日の午後三時、店に来るようちゃんと伝えておけよ?」
「ええ!お任せあれ!」
そして、定例集会を終えた後、アイリスは孤児院へと向かい、ランの元を訪れたのである。
――――翌日。
芳ばし工房を開店させ、いつものように朝一番の賑わいから少し落ち着いた昼下がりの事。
洗浄し消毒したトングやトレーを店先の定位置に戻していたアイリスは、間も無くやってくる約束の時間を見て落ち着かずにいた。
「ランさん、遅いわね…もうすぐ、約束の三時が来てしまうわ…」
アイリスは、昨日、ランに会った時の事を思い出した。ルシアンには既に婚約者がいる事を包み隠さず話して聞かせれば、ランは大きく落胆してしまったのだ。
『そうですね、あんな素敵な方に、女性の影がない筈ありませんよね。でも、アイリスさんとシグリッドさんが作って下さった折角の機会です。最後に、ちゃんとお礼の一言をお伝えしたい。明日、午後三時、必ず、お店にお伺い致しますわ』
そう翳りのある笑顔で答えたランだが、やはりショックが大きかったのだろうか。アイリスは、ランがこのまま来ないのではないかと心配で眉を下げた。
「ランさん…」
不安げな顔をしたアイリスに、ここで声を掛けたのは、厨房でパンを焼いていたシグリッドだった。
「アイリス、これ一つ味を見てくれないか?」
「え?」
銀のトレーに整然と並んだ、焼きたての丸くて小さな白いパン。その一つ一つの頂きに、大きめの焼き印がしてあるのを見て、アイリスは表情を綻ばせた。
「まあ!可愛いお花の模様が入ってる!」
「ああ、向日葵の焼き印を押してみたんだ。小さいサイズで、女性にも手軽に食べられる大きさだし、こういうワンポイントは、あった方がいいかと思ってな」
「うん!素敵!シャミーの表面によく似た焼きあがりだけど…白くて形は真ん丸、それに、ずっしり重いわ」
アイリスの手の平に収まる程度の大きさ。彼女は早速ひと口齧ってみた。
「ん…中に何か入ってる?」
「ピロシキの具を入れて揚げずに焼いてみたんだ。挽き肉とか玉葱の具材の他にも、東の異国で使われてるハルサメって具材も入れてる」
「へえ…スパイスの効いた挽き肉と玉葱の甘み、それにハルサメが上手に絡み合って…具材がぎっしり!あつあつで美味しいわ!」
ほかほかと湯気が立ち上るピロシキの具材。満足そうに二口、三口と食べていくアイリスに、シグリッドも笑みを溢す。
「ほら、前にピロシキも売り出してみようって話しをしたろ?B地区の港付近に新しく出来たパン屋には置いてあるって話しだから、いろいろ考えて、ちょっと変わったのを焼いてみようかなってな。折角だから、ルシアンとランさんに味を見て貰おうと思ってさ」
アイリスは、もうひと口頬張ると、咀嚼しながら答えた。
「ほむ、ほれは、ひっとふれるとほもうわ!」
「なんだって?」
これはきっと売れると思う、そう言ったアイリスだが、よくよく聞き取れずも、妻の言いたい事を察したシグリッドは楽しそうな笑みを浮かべる。一方、アイリスは、ごくり、と飲み込み、残り半分程のピロシキを手に口を開いた。
「ほら、あなたも味見してみて?」
「い、いや、今焼き上がったばかりだから、熱いだろ?」
「ふふ、大丈夫!ちゃんと冷ましてあげるから。はい、あーん」
大抵いつも焼き上がりの味見はアイリスにしてもらっており、少し冷めた頃に猫舌の彼が味見をする。熱いものが苦手な夫の為に、アイリスは熱々のピロシキに息を何度か吹き掛け、シグリッドの口元へと運んだ。
「よせって、お客が来たら…」
「早く、あーん」
笑顔でピロシキを迫るアイリスに照れ臭そうに顔を少し逸らしていたシグリッドだったが、引く気のない妻に観念して口を開いた。
「あー…」
と、その時…
「こんにちは」
「お、お邪魔します」
からん、とドアベルが音を立てて店の扉が開くと、そこに現れたのは、偶然出入り口で一緒になってしまったルシアンとランだった。
「まあ!ルシアンさん!ランさん!」
もう来ないのでは、と心配していたランの姿に安堵したアイリスは、思わず持っていたピロシキをシグリッドの口へと押し込んだ。
「んぐぅッ!あっぢーッ!」
当然、よくよく冷めていないピロシキを頬張る嵌めになってしまったシグリッドが声を上げる。アイリスは何を勘違いしているのか、楽しげに肩を揺らして笑った。
「ふふ、あなたったら、お友達がいらしたからって、大はしゃぎしちゃってー」
「はしゃいでねぇよ!お前が熱いピロシキ突っ込むからだろー…」
半泣きのシグリッドがどうにか咀嚼を終えてそう言うと、ルシアンはアイリスが親しげに呼んだ、もう一人の客に目を向けて口を開いた。
「ランさん…って、貴女はアイリスさんとお知り合いだったんですか?」
突然話し掛けられたランは、顔を真っ赤にさせて答えた。
「え、え、ええ!ゆ、ゆゆ、友人です!」
「そうだったんですか、はは、これはまた偶然だな。俺もここの店主とは、ガキの頃からの付き合いなんですよ」
「そ、そ、そうだったんですか!」
そんな事は前々から知っていました、とは言えず、ランは驚いたふりをしつつ何度も頷く。そんな彼女に合わせて、シグリッドも、ルシアンとのランの出逢いの下りを知らないつもりで問い掛けた。
「二人こそ、お知り合いかい?」
そう問い掛けられたルシアンは、何とも言えない表情で笑みを浮かべる。
出逢った日の事を覚えていたのだろう。ルシアンとランは互いに顔を見合わせて、ばつが悪そうに笑いあった。
「あ、ああ、まあ、知り合いというかなんというか…」
「ふふふ…」
並んだ二人の姿を見たアイリスは、本当はこうしていつまでも、ランがルシアンの隣に居られたら…と眉を下げる。そんな妻の心情を察したのか、シグリッドは妻の頭を軽く撫でると口を開いた。
「丁度良かった、二人に味を見て欲しいものがあるんだ。アイリス、あれを」
「あ、はい!」
アイリスはピロシキの並んだトレーを持って二人の元へ歩み寄った。
「この模様は、向日葵ですか?可愛い…」
一つ手に取ったランが、表面の焼き印を見て表情を綻ばせると、同じように一つ手に取ったルシアンは、形を眺めつつ早速一口食してみた。
「小さめのパンだな、女性向けか?ん、これは…ピロシキ?」
中の具材に気付いたルシアンが言うと、シグリッドがそれに答える。
「大きさは女性向けかもしれんが、男でも中身は食い応えあるだろ?」
ランも満足そうに焼きたてのそれを齧っていった。
「美味しいです!一つ二つと、欲しくなってしまうくらい」
はしゃぐランの姿を見て柔らかな笑みを浮かべたルシアンが、シグリッドに、ふと気づいた疑問を投げ掛ける。
「ところで、どうして向日葵の焼き印なんだ?まだ季節外れだけど」
今、夏の花をイメージするにはまだ早い季節。その問い掛けに、意図はあるのだが、それを彼に聞かせるのも躊躇われ、シグリッドは頭を掻きながら濁すように答えた。
「ん、あー…まあ、なんとなく?」
「はは、なんだよ、それ。でも、これは売り出して良いんじゃないか?港近くのパン屋で出してる定番の揚げたピロシキよりも、女性ならあっさり焼き上げた生地の方が受けそうな気がするし」
「そうですね、私も、そう思います!」
二人がピロシキについて楽しげに語らい会う姿が、シグリッドとアイリスの目に切なく映る。もっと早くに二人が出逢っていたなら、今とは違う未来もあったかもしれない…と。
四人が暫し他愛ない会話を楽しむその中で、ランは控えめにルシアンに呼び掛けた。
「あの…ルシアンさん…」
「はい?」
笑顔を向けてくれるルシアンに頬を染めたランは物怖じして肩を竦めるも、意を決して真っ直ぐに彼を見詰めた。
「いえ…その……あの時は、ありがとうございました」
「え?」
あの時、手を差し伸べてくれた事への礼をルシアンに言う為にここへ来たランだったが、彼からはもっと特別なものを与えて貰ったと、彼女は、ありがとうを言ったその瞬間、そう思えた。
己に切ない恋を経験させてくれた、こうして恋い焦がれる相手と対面できる勇気を与えてくれた、そして、そんな相手が己ではない誰かと幸せになる事を祝福し、辛さを乗り越える強さをくれた、そう素直に思えたランは、どこか自分に自信がついたようで、清々しささえ感じる笑顔を見せた。
「とにかく、色々とありがとうございました!」
「?」
深く頭を下げるランに、最後まで不思議そうな顔をしていたルシアンだったが、どこか吹っ切れたようなランを見たシグリッドとアイリスは、互いに顔を見合わせて微笑んだ。
――――そして、その翌日の事。
開店前の芳ばし工房の店先では、新しく売り出す商品ピロシキを並べて、昨晩準備した商品のポップをアイリスが飾っていた。
傍でそれを眺めていたシグリッドに、妻が問い掛ける。
「ね、あなた」
「うん?」
「このピロシキの名前、『恋焦がれるヒマワリ』って…どうして、この名前を付けたの?」
問われたシグリッドは腕を組み、アイリスに問いで返した。
「アイリス、向日葵の花言葉、知ってるか?」
「?」
妻が首を左右に振れば、シグリッドは向日葵の焼き印を付けたピロシキに視線を落として答えた。
「あなただけを見詰めている、なんだと。ランさんとルシアンの事を見てて作ったパンだから、そう名前を付けた」
「それで、向日葵の焼き印を…」
トレーに並んだピロシキを眺めて、アイリスも優しく表情を綻ばせる。シグリッドは、そんな妻の横顔を見て微笑むと言葉を継いだ。
「片想いだったけれど、ランさん、少し変われたような、そんな感じがしないか?」
「うん…私もそう思う。素敵な片想いだったわね」
きっとまた、恋焦がれる相手に巡り会える。その時ランに、今度こそ幸せが訪れるようにと、シグリッドとアイリスは共にそう願った。
この日から、売り出されたピロシキは、女性を中心に人気を集め、芳ばし工房、定番のメニューとなるのであった。