壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①
第四話 しあわせのひととき
ある春先の日のジャンメール家。
閉店後、翌日の下準備を済ませたシグリッドとアイリスは、何気無い会話を楽しみながら夕食を取った。
己よりも厨房にいる事が長いシグリッドを労おうと、アイリスは湯浴みを先に勧め、最近友人に借りたばかりの大好きな恋愛小説を読みながら夫が戻るのを待った。
「ああ…もう…どうしてここで連れ去らないのかしら!」
思わず一人、もどかしげに声を漏らしたアイリスは、すっかり小説にのめり込んでいる様子だった。
その小説とは、王家の姫君と城下の青年、その身分違いの恋を描いた物語。それぞれの立場を考え、己の想いを押さえ込んでしまう男女、そして恋敵の出現、様々な障害と、彼らを取り巻く環境の変化。そんな中で少しずつ近付こうとする若い二人。
アイリスは、己をヒロインに当て嵌めながら、感情移入しつつ読書を続けた。
「城を抜け出し城下を訪れた姫君と青年は、巡回の兵士にその姿を見られてしまい追われる嵌めになってしまう。ローランド、あの納屋に一旦隠れましょう!そう言って、エリーゼ姫は青年の手を引き、納屋まで駆けた。兵士達が過ぎ去るのを、息を殺して待つ二人の距離は近い。暗闇に包まれた納屋、射し込む月明かりだけを頼りに、エリーゼ姫の美しい横顔を見たローランドは、そっと彼女の肩を抱き寄せた」
段々と物語に浸って来たアイリスは、ここから役者よろしく声音を少し変えながら二役をこなし始めた。
「ローランド?」
『エリーゼ姫、寒くはないかい?』
「ええ、少し、寒いわ…」
『ならば、もっと僕の傍へ』
「だめ、これ以上は、恥ずかしい」
『そんなに恥ずかしがらないで、どうか、今だけでも、僕に君の温もりを感じさせて欲しい』
「ローランド…」
「ローランドは、エリーゼ姫の手を引いてその胸に閉じ込めるように抱き締めた。初めて強く抱き締められたその温もりに、エリーゼは込み上げる彼への想いを口にした」
「ああ…ローランド、このまま、私を拐って。貴方と二人ならどこへでも行けるわ」
『エリーゼ姫、そんな事を言ってはいけない。貴女はこの国に必要な人だ。本当は僕のような身分の低い者が触れてはいけない程、気高く美しい花なのだから』
「私を…愛していないの?」
『愛しています!この身が引き裂かれそうな程に、愛しくて、苦しい…』
「ローランド、私を愛してくれているのなら、今すぐ口付けをちょうだい?」
と、臨場感溢れるアイリスの三文芝居。ここで小説を手放し、睫毛を伏せて顎を少し上げたアイリスは、その時、部屋の電球が切れて真っ暗闇になってしまった事に気付かずにいた。
そこへ、湯浴みを終えたシグリッドが、タオルで髪の毛を乾かしながら、真っ暗な寝室へと戻って来る。
妻が灯りを落とし、先に眠ってしまったのだと思った彼は、天窓から射し込む月明かりを頼りにベッドへ歩み寄る…と
『エリーゼ姫、本当にいいのかい?』
「何を躊躇うの?私はいつでも心の準備は出来ています」
突然、ベッドの上に正座したアイリスが発声して、それに驚いたシグリッドが口を開いた。
「うおッ!?お前、起きてたのか!?」
夫が戻った事に気付かない程感情移入していたアイリスは、まだエリーゼ役を引き摺っており、ここからは彼女が勝手に創作した、本にはありもしない台詞を続けた。
「ローランド!早くキスをして、私の全てを奪って!」
「誰がローランドだ。そんなに奪って欲しけりゃ、奪ってやるぞ」
と、今に始まったことではない、また小説を読んで妻が役になりきっていたのだと察したシグリッドが半眼で突っ込むと、彼は妻をベッドに押し倒した。
「きゃあ!や…やだ!ローランドはそんなに積極的な男の子じゃないわよ!」
「馬鹿だなー、エリーゼ姫?好きな女から奪って!なんて言われたんじゃ、積極的にならない男はいないんですよ!」
シグリッドは少し意地悪な声音でそう言うと、アイリスの首筋に唇を這わせた。
「く、くすぐったい!シグリッド、離してーッ!」
「なんだよ、小説ごっこはもうおしまいか?」
抵抗して体を捩らせるアイリスに、高揚してきたシグリッドは、少し悪戯してやろうと、妻の胸に手を伸ばした。
「あ、こら!どこ触ってるの!えっちーッ!」
「いだだだだだ!分かったよ、やめるから頬を引っ張るなって」
アイリスはシグリッドの両頬を掴んで容赦なく引っ張る。堪らず妻の上から離れたシグリッドは苦笑いを浮かべ、アイリスは上体を起こすと、不機嫌な声音で続けた。
「もう!ローランドは急に女の子を押し倒して胸を触るような、下衆な男の子じゃありません!」
ここで、シグリッドは引っ張られた頬を擦りながら言い返す。
「エリーゼ姫も、暴れて頬っぺた抓りまくるような、乱暴なお姫様じゃないと思うけど?」
「まあーッ!だったら、ローランドはこんな風に、レディの断りなく部屋の電気を消して襲おうなんて考える、いやらしい男の子じゃありませんー!」
身に覚えのない事を言われ、シグリッドは眉間に皺を寄せて否定した。
「はあ?電気を消してたのはお前だろ?」
「私は消してなんかいないわ!」
「俺だって湯浴みから戻ったら既に真っ暗だったんだ、消してねぇよ!」
「え?本当?」
「ああ」
二人は暗がりの中、顔を見合わせる。嘘を吐いている風ではない夫を見て、アイリスは眉を下げ問い掛けた。
「じゃ、じゃあ、誰が消したの?」
不安で声音が小さくなってしまった妻を見ると、シグリッドはここで再び彼女をからかってやろうと笑みを浮かべる。
「あー…これは、ひょっとしてあれかもなー…」
「え?あれって、なんなの?シグリッド…」
「ん?あれだよ、この世の生き物ではない、ゴーストの仕業だろ」
「ご、ごごご…」
さあ、と血の気の引く音を聞いたアイリスが背筋を凍らせると、悲鳴にも似た声を上げた。
「ゴーストぉおおおッ!?いやー!あなた!助けて!怖いッ!」
アイリスは夫に飛び付くと、怯えて強く抱き着いた。そんな妻の様子を見て、これは、思った以上に効果があったと、満足そうに笑みを浮かべたシグリッドは、妻の肩を優しく掴んで宥める。
「はは、冗談だよ。リビングルームの照明は灯ってるから、電源の問題じゃないと思う、恐らく電球が切れちまったんだろ。替えの電球がもう一つあった筈だから取り替えてみよう」
と、シグリッドはアイリスから体を離すと、ベッドから降りてポールハンガーに掛かった上着を羽織る。アイリスは慌ててシグリッドの後を追うと、しっかりと彼の腕にしがみついた。
「待って!あなた!どこ行くの!?離れないで!」
「はあ?さっきは離してーって言ってたくせに?」
「もう!意地悪!」
「ふふ、わかった、わかった、じゃあ外の納屋まで行くから、ご一緒しますか?アイリス姫?」
そう言って微笑んだシグリッドに、余裕のないアイリスは大きく頷くと、何か求めるように両手を開いた。
「ええ、では、お姫様抱っこでお願いします」
「いや、何言ってんの、歩きなさい」
ぴしゃり、とシグリッドに突っ込まれ、アイリスは渋々と彼の腕に己のそれを絡ませたまま離れず、裏口の扉を目指した。
そして、裏庭に出て、シグリッドの手にしたランタンが周囲の暗闇をぼんやり照らせば、何かが突然襲い掛かってくるのではないかと不気味に感じつつ、アイリスは怯えながら、やっとの思いで納屋へと辿り着いた。
「えーと、確か、この辺に…あれ?おかしいな、どこに仕舞ったか…」
道具箱などの様々な物が入れられた備品倉庫。ランタンの明かりを頼りに棚の上を探るシグリッドは、目的の物が、ある筈の場所にないのを見て怪訝な顔で周囲を見回した。
一方のアイリスは、シグリッドの隣で己の肩を抱き、眉を下げたまま納屋の中に視線を巡らせる。
「何だか、いつもの夜と変わらない筈なのに、ゴーストなんて聞いた後は倉庫の中が余計に不気味だわ…」
少し寒い夜風。ゴーストなどという得体の知れないものの存在に怯えているのも手伝ってか、アイリスは僅かに体を震わせていた。そんな妻の様子に気付いたシグリッドが口を開く。
「アイリス、震えてるじゃねぇか。春先で暖かくなって来たといっても、まだ夜は寒いだろ。ほら、こっち来い」
慌てて彼に引っ付いて来た為に、羽織りもせずに出て来たアイリスは、シグリッドに手を引かれると、その胸元へ寄せられた。
シグリッドは、妻を包むようにして己の羽織ったコートの釦をかけると、棚を再び探り始める。
「あったかい…」
アイリスは逞しい夫の胸に温もりを感じつつ、そっと頬を寄せて睫毛を伏せた。
これは、まるで、納屋で身を隠していた小説の中のエリーゼ姫と青年ローランドのようだと、アイリスは、己が、あの切ない想いを抱く姫君になったような気になり、ゴーストの存在など忘れて夫の背に腕を回し強く抱き着いた。
「シグリッド…」
「んー?」
妻がそんな事を考えていようとは露とも思わず、彼女に視線を落とさないまま棚の奥を探るシグリッド。アイリスは、そっと夫の頬に手を伸ばして己の方へ向かせると微笑んだ。
「私を愛してくれているなら、今すぐ口付けをちょうだい?」
突然甘い囁きをしてきた妻が、また小説の真似事を始めたと察したシグリッドは、ふっと笑って答えた。
「そんな事を言っていいのかな?アイリス姫。今、口付けをすると、触れるだけのキスじゃ終わらないかも」
「心の準備は出来ています!」
アイリスはそう言うと、少し顎を上げて目を閉じた。これにシグリッドは、にんまりとした笑みを浮かべる。
「そういうことなら遠慮なく…頂きまーす」
真面目な青年ローランドとは程遠い、へらりとした口調のシグリッドに、僅かむくれた様子のアイリスが言う。
「もう、ローランドは厭らしい顔でそんな事言ったりしないわ」
「悪いな、俺はローランドじゃなくて、お前が大好きなシグリッドだから」
「ふふ、それもそうね」
そうして、二人の唇は深く重なった。
その後、納屋の中を探って見付け出した電球一つ。寝室のそれを取り替えれば無事に明かりが灯る。
突然寝室を暗闇にしたのがゴーストの仕業ではなかったと分かり安堵したアイリスは、また読書に耽るのだった。